2006年08月

2006年08月23日

at 10:08Today's News 

2006年08月22日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚


第5回 内政の課題(シーア派対策)
 全世界のイスラム教徒は約15億人で、そのうちシーア派は全体の15%、2億人強と推定されている(ウィキペディア・ホームページによる)。シーア派イスラム教徒はイランを中心に、東はパキスタン、インド、西はイラク、トルコ、ヨルダン、南はGCC各国まで広がっている。GCC諸国ではサウジアラビア、クウェイト、UAE及びバハレーンにそれぞれ250万人、90万人、70万人及び50万人程度のシーア派教徒がいるとされる。信者数ではバハレーンはサウジアラビアなど他の3カ国より少ないが、各国の人口に占める比率では、他の3カ国がサウジアラビアが全人口の10%、UAEは15%、クウェイトは35%といずれもマイノリティであるのに対し、バハレーンのシーア派は人口の70%とマジョリティを占めている。

GCC各国を支配する国王・首長家は全てスンニ派であり、このためシーア派住民の動静に神経を尖らせている。特にバハレーンの場合は他のGCC諸国と異なり、スンニ派の王家が多数のシーア派国民を支配する構図となり、これまで常に大きな国内問題となっていたのである。

独立直後の1973年に行われた国民議会選挙でシーア派の反政府勢力が多数を制し、ハリーファ家の内閣と度々衝突、わずか2年で憲法を停止し、議会を解散する事態に陥っている。その後、バハレーンでは70年代末からシーア派による激しい抵抗運動が続いた。その背景には1979年のイラン革命がある。イラン・イスラム共和国の最高指導者となったホメイニ師は、GCCの君主制国家を激しく批判し、これに呼応してサウジアラビア、バハレーンではシーア派住民による王制(首長制)打倒の反政府活動が活発になった。とりわけシーア派住民が多数を占めるバハレーンでは暴動が頻発、カリーファ家の支配体制が危機に瀕した。

(イラン・ホメイニ師)
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このときバハレーンのイーサ首長(当時、現ハマド国王の父)は、隣国のサウジアラビアから物心両面にわたる支援を受け、1995年には暴動の鎮圧にサウジアラビア治安部隊の支援を受けたほどである。自国に250万人のシーア派を抱えるサウジアラビアにとって、バハレーンの事態は対岸の火事ではなかった。1980年代後半には、シーア派住民が居住するアラビア湾沿岸で暴動が頻発、一方、紅海側のマッカでもイラン巡礼団による騒擾事件が発生するなど、イランの影に脅威を覚えていたサウジアラビアは、バハレーンをサウド家体制の防波堤と考え、ハリーファ家を全面的に支援したのである。こうして1999年にイーサ首長が亡くなるまで、バハレーンとサウジアラビアはシーア派対策と言う共通の目標のもとで蜜月状態にあった。

しかしイーサ首長の亡き後、長男のハマド皇太子が新首長に即位すると、米国留学経験のあるハマドは、シーア派を力づくで押さえつけようとしたイーサ前首長の保守路線を転換し、恒久憲法の制定や議会の選挙など国内の民主化を推進した。そのため前首長時代に良好であった隣国サウジアラビアとの関係は逆に冷却したのである。ただイーサ首長時代に両国は蜜月状態にあったとは言え、国力に差がありすぎたため、両国関係はバハレーンがサウジアラビアに従属するような関係であった。当時のハマド皇太子はそのことを苦々しく思っていたようであり、彼が首長になった後、両国関係が冷え込んだのはそのような理由もあったと考えられる。そして恒久憲法の制定によりバハレーンが立憲君主国となり、同時に米国寄りの姿勢を明らかにするに従い、サウジ側はこれに対して不快感をあらわにするようになった。その典型的な例が米国とバハレーンのFTA(自由貿易協定)締結であるが、この問題については第7回「経済の課題」で説明することとする。

1980年代には政府の弾圧に激しく抵抗していたシーア派であったが、イランのホメイニ師が1989年に亡くなり湾岸王制(首長制)国家に対する干渉が無くなるとともに(むしろイランが対米関係など国際問題を抱え込んだことが主な理由であろうが)、バハレーンのシーア派反政府勢力も、穏健な街頭デモなどに活動の重心を移した。元来、バハレーンは歴史的にイランの強い影響下にあったとは言え、独立前の1970年に国連が行った住民調査で、住民の圧倒的多数がイラン帰属よりも独立を望んだと言う結果が示すとおり、シーア派住民自身もイランと一線を画している。彼らが望んでいるのは民主的な独立国家の体制内で自分たちの意見を自由に表明し、社会で公正な取り扱いを受けることであろう。

その意味で、ハマド国王の治世下で、シーア派住民が選挙で議会に議員を送り込み、また内閣にシーア派の閣僚が選任されることは、彼らにとって歓迎すべきことであろう。ハマド国王とシーア派住民の政治的妥協は、少なくとも現段階では成功していると言えるであろう。

しかしながら、現在のバハレーンの立憲王制は王権が強く、先進国のような「君臨すれども統治せず」の象徴的なものではない。またハマド国王は国家及び君主体制を維持するために、米国が望む国内民主化を推進して米国の後ろ盾を確保しようとしているが、ハリーファ家の大多数の王族は民主化により彼ら自身の生活基盤が脅かされることに強い恐怖心と危機感を持っている、と考えられる。

一方、シーア派住民にとっては、現在の制限された議会制のもとでは、自らの意見を十分に国政に反映させることができない。そのため近い将来、議院内閣制による間接民主主義、或いは首相公選制による直接民主主義の実現を要求するであろう。またハリーファ家王族及び一部特権階級による高級官僚ポストの独占と、その弊害としての「ネポティズム(縁故主義)」がもたらす社会の不透明さと不平等に強く反発している。人口に占める若年層の割合が高く、それでいて有力な産業を持たないバハレーンにとって、現在蔓延しているネポティズムは若年層の失業問題に大きな影を落としており、新たな社会不安の種である。

体制維持に躍起となるハリーファ家と完全な民主主義を求めるシーア派住民の思惑は大きくすれ違っている。そのような中で若者の失業問題と言う新たな社会不安が増大している。バハレーンの民主化―それは「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主主義)」の域を超えることができない限界のある民主主義と言えよう。ハマド国王のシーア派対策は宗教の問題ではなく、政治及び社会問題と言える。

(第5回 完)


(今後の予定)
6. 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


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at 13:26Today's News 

2006年08月21日

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(クウェイト)ナーセル首相、日本の代表団と面談
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2006年08月20日

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