2007年01月

2007年01月21日

グアンタナモに送致された「不法敵性戦闘員」

detainees.jpg 2001年、アル・カイダによる9.11同時多発テロで3千人以上の犠牲者を出した米国は、直ちにアフガニスタンでアル・カイダ掃討作戦を展開した。そして多数が捕捉され、彼らは翌年2002年初めにキューバのグアンタナモ米軍基地に移送されたのである。

 米国は当初から軍事機密として移送者の詳細を明らかにせず、彼らの正確な人数と国籍が公表されたのは実に4年以上も経た2006年のことであった。米国政府は同年2月の国連による収容所閉鎖勧告を無視したものの 、3月に自国の裁判所が拘束者の氏名公開を命令したことにより、ペンタゴン(国防省)は遂に5月に全拘束者759人の氏名と国籍を公表した 。公表された名簿によると、拘束者の国籍は40カ国以上に及び、サウジ人が130人と最も多く、次いでイエメン人の107人であった。中には少数の白人も含まれていた。
 
米国はアフガニスタン現地で捕らえたアル・カイダ兵士を「戦争捕虜」ではなく「不法敵性戦闘員(illegal enemy combatants)」と規定し、グアンタナモ移送後は彼らを「拘束者(detainee)」と呼んでいる。彼らを戦争捕虜とみなせば、捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ協定に従う義務があり、収容所内での彼らの処遇、取調べ等が世界の目に晒されるからである。米国は拘束者一人ひとりに対し厳しい尋問を行い、オサマ・ビン・ラーデンやアル・カイダ幹部の逮捕につながる情報収集を行った。後になってこの取調べの過程で一部の拘束者に対する虐待行為があったことが、マス・メディアや国際的な人権保護団体アムネスティなどによって明らかにされた。このように米国が「拘束者」を捕虜と同様に扱い、裁判も無いままに長期間抑留し、しかも虐待を行ったことはまぎれもない事実である。従って本稿では今後彼ら拘束者のことを「虜囚」と呼ぶこととする。

 当初759人であった虜囚の一部は2003年以降、五月雨式に、そして密かに釈放され本国に送還された。アフガニスタン現地で拘束された者の中にはアル・カイダとは無関係で、いわば誤認逮捕された者もいたようである。また白人の虜囚については米国と本国政府との水面下の外交交渉により身柄を本国送還されたケースもある。もし彼ら白人の虜囚をグアンタナモに拘束し続ければ、将来外交問題に発展し米国とその友好国である各国政府は、共に引っ込みのつかない事態になったであろうことは間違い。

虜囚の人数について当時の新聞記事を追ってゆくと、少しずつ本国に送還されていることがわかる。即ちその数は、2004年5月には650人、7月に595人 、2005年3月540人、同7月510人 と減っていったのである。

そもそも米国が759人ものアル・カイダ兵をグアンタナモに送致した最大の理由は、彼らを尋問して組織の全貌を解明し、また掃討作戦で取り逃がしたお尋ね者のオサマ・ビン・ラディン及び幹部達を捕捉するための情報を収集することにあった。虜囚の一人でオサマ・ビン・ラディンの運転手だった男が、収容所初の裁判にかけられるであろう、と報道されたが 、その取調内容は有力情報の一つであったのだろう。

しかし米国はオサマ・ビン・ラディンを後一歩まで追い詰めたが捕捉できず、彼は今もって生死不明のままである。そして今では虜囚たちから新たな情報を得る可能性は殆ど期待できない。かと言って運転手のような側近以外の虜囚について個々の戦争犯罪を立証することも非常に困難であろう。米国にとって利用価値のなくなった虜囚たちは今やお荷物でしかなくなったのである。

しかし「敵性戦闘員」である彼らの身柄については、話し合うべき「敵」そのものがいない。米国が交渉できるのはサウジアラビアなど虜囚たちの母国しかないのである。米国は母国が虜囚を受け入れて刑務所に収監した後、裁判でしかるべき刑を科すように要求した。しかし各国とも国民感情を考えると、帰還者を裁判にかけて服役させることなど及びもつかない。国民の中には彼らを英雄視する風潮も少なくないからである。つまり彼らは義勇兵として自ら戦地に赴き、アフガニスタンをソ連から解放した英雄なのである。その後彼らが世界的なテロ集団に変身した時、イスラーム諸国は彼らを拒絶する姿勢を示し、また多くの市民も眉を顰めたが、イスラームの大義を標榜して米国に反抗するアル・カイダの活動に共鳴する市民も少なくなかったのである。

結局、米国は虜囚をそのままグアンタナモに収容し続けるしかなかった。しかし収容期間が長引くにつれ、収容所内では米兵による虐待が頻発し、また長期の抑留に絶望した虜囚たちに自殺するものが出始めた。収容所の外では人権団体が騒ぎ出し米国は進退窮まった、と言うのが現在の実情ではないだろうか。そのため米国は虜囚たちを何とか母国に引き取らせようと、今や躍起になっているようである。

(続く)

これまでの内容:
(第5回)アル・カイダが今日まで生きながらえている理由
(第4回) アル・カイダを創った男:オサマ・ビン・ラディン
(第3回アル・カイダがアフガン義勇軍から国際テロ組織に変貌するまで
(第2回)彼らは何故グアンタナモ収容所に送られたのか?
(第1回)プロローグ:フセイン元大統領死刑とのコントラスト


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2007年01月20日

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(オマーン)1.7億ドルで初のIWP(独立水事業)を仏Veolia社と契約

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