2007年02月

2007年02月28日

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2007年02月27日

*本稿は平成18年12月20日、財団法人中東調査会発行の「中東研究」第494号(2006/2007 VOL.III)に発表した同名の論文を8回にわたって転載するものです。


第5回 米国とカタル及びバハレーンとの関係

 視点を変えてカタル及びバハレーンと米国との関係を見ると、それは軍事協力から始まっている。1971年の独立後も第四次中東戦争(1973年)、イラン・イラク戦争(1980-88年)、と中東は不安定な状況にあったが、これに対しては1981年にGCC(湾岸協力機構)を結成して他の湾岸君主制国家と結束を図る程度の対応であった。しかし1990年のイラクのクウェイト侵攻、いわゆる「湾岸戦争」によりクウェイトのサバーハ家が隣国に亡命する事態を目の当たりにして、アル・サーニー家及びハリーファ家はGCCの結束のみで君主制を維持できない、と言う大きな危機感を抱いた。そして両国は体制維持のため、超大国である米国の軍事力に依存することに方針を転換したのである。

 こうしてバーレーンは1991年に米国と防衛協定を締結、翌年カタルも同様の協定を締結した。バハレーンには米国第7艦隊の本部が置かれ、またカタルには米空軍のためのアルウデイト基地及びアッサイリヤ基地が設けられた。その頃、中東全域をカバーする米軍の中央司令部(USCENTCOM)はサウジアラビアのリヤド近郊におかれていたが、2001年のイラク戦争に際し、サウジアラビアは米軍爆撃機が自国内からイラクへ発進することを拒否したため、米国はUSCENTCOMをカタルに移転した。こうしてバハレーンとカタルは名実共にアラビア(ペルシャ)湾における米国の最前線基地となったのである。因みに現在両国に駐留する米軍はカタル6千人強、バハレーン約3千人であり、イラクの前線基地であるクウェイトの2万5千人は別格として、サウジアラビア、UAE、オマーンに比べ格段に多い 。

bush.jpg 2001年のイラク戦争に勝利したブッシュ米大統領は、カタルのアッサイリヤ基地で民主主義の勝利を宣言した。しかしそれは2年後の2003年に9.11テロ事件として米国自身に跳ね返えり、米国は中東を民主化する必要性を痛感した。米国は、イスラム・テロの元凶が君主制あるいは独裁や権威主義体制による民衆の貧困にある、とみなした。そして、これを改善して国民参加による自由な民主主義体制が確保されれば、社会と経済の繁栄が約束され、その結果としてテロが消滅する、と言うのが米国の論理であった。

 こうしてテロ直後の2003年11月にブッシュ大統領は「大中東イニシアティブ(Greater Middle East Initiative, GMEI)」を打ち出し、それは翌年のシー・アイランド・サミットで「拡大中東北アフリカ・イニシアティブ(Broader MENA Initiative)」として採択された。その骨子は(1)政治面では民主主義化の促進、(2)社会面では教育及び男女平等の普及、(3)経済面では失業問題解決のための雇用創出、等であった。

 しかし貧困がテロの原因であるとする見方は少なくとも豊かな湾岸産油国には当てはまらない。9.11テロ実行犯19人のうち15人がサウジアラビア人である事実は貧困原因説では説明できない。こうしてイスラム信仰こそがテロの最大原因であるとする見方が広まり、同時にサウジアラビアに対する風当たりも強くなった。しかし世界最大の石油資源を有するサウジアラビアに民主化を押し付けて、同国を反米国家にしたくない。そこで米国はGCC6カ国の民主化の橋頭堡としてバハレーンを選んだ。そして米国がとった手段はFTA(自由貿易協定)である。FTAを餌にGCCの中で地盤沈下が続くバハレーンを米国の傘の下に納め、それを足がかりとしてサウジアラビアなど他のGCC諸国に米国の影響力を強め、反米機運を高めることなく各国の民主化を促そうとする作戦なのである。


(以下の予定)
第6回:米国の湾岸民主化政策の見直し
第7回:コスメティック・デモクラシーによる体制維持
第8回:「それでも米国」か、「それならイスラム」か?

(これまでの内容)
第1回:まえがき
第2回:カタルとバハレーンの相似性

第3回 相似性その2:政治の歴史的風土と若い君主の登場
第4回: 相似性その3:支配一族による国政の独占



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