2007年06月

2007年06月24日

(お知らせ)
本シリーズは「中東と石油」の「A-15 サウジアラビア・サウド家」で全文をごらんいただけます。

(第2回)サウド家の亡命生活と19世紀末の中東情勢

サウド家当主のアブドルラハマンは1891年、宿敵ラシード家にリヤドを追われてクウェイトへ逃れ、同地のサバーハ首長家の庇護のもとで亡命生活を送った。彼の長男で後にサウジアラビア王国(第三次サウド王朝)の初代国王となるアブドルアジズ(通称イブン・サウド)は当時まだ11歳であった。

サウド家とラシード家の抗争及びクウェイト・サバーハ首長家がサウド家を庇護した関係は単なる部族間の対立或いは同盟関係によるものではない。そこにはオスマン帝国と大英帝国をめぐる帝国主義の覇権争いの影があったことを見落としてはならない。

当時のオスマン帝国は「瀕死の病人」と言われながらも中東から北アフリカに至る広大な版図を有し、首都のイスタンブールからイスラームの聖都マッカを含むアラビア半島に睨みを利かせていた。ラシード家はオスマン帝国の支援を受けてアラビア半島中央部ネジドの支配権をサウド家と争っていたのである。一方の英国はイエメン、オマーンなどアラビア海沿岸一帯に植民地を築き、次にペルシャ湾を制して内陸部へ進出する機会をうかがっていた。こうした中で1899年、英国はクウェイトを保護領とすることに成功した。

英国はサウド家とラシード家の抗争を利用してアラビア半島からオスマン帝国の勢力を駆逐することを考えた。そのためクウェイトにサウド家の亡命を受け入れさせて、サウド家を温存しようとしたのである。ラシード家とサウド家の部族抗争はオスマン帝国と大英帝国の代理戦争に仕立てられたと言える。

サラフィー(ワッハーブ)主義の過激なイスラーム思想をバックボーンとするサウド家は、クウェイトにとって必ずしも歓迎すべき食客ではなかったと思われる。後日アブドルアジズと彼のイフワーン軍団がアラビア半島制圧の勢いに乗じてクウェイトに攻め込んだことを考えると、クウェイトの懸念も杞憂ではなかったことがわかる。このような歴史があるため、現在でもクウェイトのサバーハ家及び一般国民はサウジアラビアに対する警戒心を解いていないと言われる。

ibn_saud_1945.jpgしかし当時のクウェイト首長ムバラクは、サウド家嫡男アブドルアジズの聡明さが気に入り、彼を非常に可愛がったようである。そのことは外国使節との引見の場にアブドルアジズを同席させたと言うエピソードにも表れている。

こうしてムバラクの庇護の下で英才教育を受けたアブドルアジズは10年の歳月をクウェイトで過ごし、その間に勇敢なベドウィン戦士へと成長していった。身長180センチ以上の堂々たる体躯のアブドルアジズは、サウド家再興の星として「イブン・サウド(サウド家の息子)」と呼ばれるようになった。彼の正式の呼び名は「アブドルアジズ・イブン・アブドルラハマン・アル・サウド(サウド家のアブドルラハマンの息子アブドルアジズ)」であるが(*)、一族からは期待と尊敬を込めて「イブン・サウド」と呼ばれたのである。
(*)アラブ人の名前の呼び方については前回「サウド家のはじまり」参照。

(第2回完)

(これまでの内容)
(第1回)サウド家のはじまり

(前田 高行)


at 10:52Saudi Arabia 

2007年06月22日

at 10:23Today's News 

2007年06月20日

(お知らせ)
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(第1回)サウド家のはじまり

coat_of_arms_of_saudi_arabia.png(サウド家の紋章)
 サウジアラビアはサウド家が支配する王制国家であり、その正式な国名は’Kingdom of Saudi Arabia’である。そもそも「サウジアラビア」とは「サウド家のアラビア」と言う意味であり、支配一族の名前が国名の一部をなしている国家は世界的にも珍しく、同国以外ではイスラームの開祖ムハンマドにつながる名門ハシミテ家の名を冠したヨルダン(Hashemite Kingdom of Jordan)だけであろう。

 サウド家の歴史は18世紀初頭にさかのぼる(「サウド家系図:始祖~アブダッラー現国王」参照)。始祖サウドは当時アラビア半島中央部、現在の首都リヤドのはずれにあるオアシス、ディルイーヤの支配者であった。同じ頃、アラーの唯一絶対性を説く「サラフィー運動」に傾注していた若いイスラーム法学者ムハンマド・ビン・ワッハーブ(*)がウヤイナ・オアシスで布教活動を行っていた。
(*)「ワッハーブの息子ムハンマド」の意味。「ビン」は息子を表す接頭辞であり「イブン」と発音することもある。娘の場合は「ビント」。アラブ人は通常このように自分の名前(First Name)の後に父親の名前(Second Name)、更には祖父の名前(Third Name)を付け、最後に定冠詞「al」の後に一族名(Family Name)を付する。

 ムハンマドはマッカでイスラーム法学を学び、その後イラクのバスラに長期滞在したが、そこでシーア派の僧職者や信者が日常的に聖者崇拝・預言者崇拝を行っているのを目にした。これに反発したムハンマドは以後原始イスラーム復古のサラフィー運動にのめり込み、各地を巡り布教活動を行った。しかし彼はその過激思想ゆえに行く先々で地元の支配者と衝突、結局故郷ウヤイナに戻った。彼の布教活動は「ワッハーブ派」と称され、後にサウジアラビアの建国原理となったのである。

 1725年にサウドが亡くなるとその息子ムハンマド・ビン・サウドは、ムハンマド・ビン・ワッハーブと盟約を結びアラビア半島中央部(ネジド地方)の部族制圧に乗り出した。二人のムハンマドは、宗教と政治を一体化して勢力を拡大したのである。これがサウド家の原型となる「第一次サウド王朝」であり、ムハンマド・ビン・サウドの3人の弟、スナイヤーン、マシャーリ、ファルハンの子孫は今でもそれぞれの名前を家名とするサウド家の有力王族である。第一次サウド王朝はムハンマドの長男サウド及び次男アブダッラーの四代で終わった。

 19世紀初めにはアブダッラーの息子ファイサルが再び勢力を回復して第二次サウド王朝を樹立した。ファイサルはリヤドから紅海沿岸(ヒジャズ地方)に進出、当時オスマン・トルコの支配下にあったマッカ、マディナを支配するまでになった。ファイサルの二人の弟ジャラウィ及びアブダッラーの家系も有力な王族であり(アブダッラー系はトルキ家を呼称)、上記の3つの家系を含め、これら五つの家系はサウド家外戚の「五摂家」とでも言うべき存在として、その子孫は後継者問題を含めたサウド家一族の諸問題を協議する「王室諮問会議」(後述)のメンバーの一員に指名されている。

 しかし第二次サウド王朝は短命に終わり、ファイサルの息子アブドルラハマンはオスマン・トルコの支援を受けたラシード家との戦いに敗れて1891年クウェイトに逃れた。アブドルラハマンは当時11歳の長男アブドルアジズを含む一族郎党と共にクウェイト首長サバーハ家の庇護のもとで亡命生活を送ったのである。この長男アブドルアジズ・ビン・アブドルラハマンこそ、後の「サウジアラビア王国」(第三次サウド王朝)の初代国王なのである。

 因みにサウド家がクウェイトに亡命した100年後の1990年に、クウェイとのサバーハ家はイラクのサダム・フセイン大統領(当時)に追われ、サウジアラビアに亡命している。この時サウド家はかつてのサバーハ家の恩義に報いるため、彼らを温かく迎え入れたのである。サバーハ家はサウジアラビア西部のタイフに亡命政権を樹立し、翌年の湾岸戦争で祖国に戻るまで、サウド家の全面的な支援を受けた。このようにサウド家とサバーハ家は不思議な因縁に結ばれていると言える。

(第1回完)
                            (前田 高行)


at 16:22Saudi Arabia 
at 10:26Today's News 

2007年06月19日

at 10:21Today's News 
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