2010年03月

2010年03月24日

(注)マイライブラリー(前田高行論稿集)で全文をご覧いただけます。

7.ハマス幹部暗殺:背後にイスラエル・モサドの影(2010年1月)

チェチェン反大統領派の大物スレイマン暗殺事件(前回参照)からほぼ1年後の今年1月、これをはるかに上回る規模の暗殺事件がドバイの五つ星ホテルで発生した。被害者はパレスチナ人のマハムード・アル・マブフ。イスラエルに激しく抵抗するハマスの軍事組織幹部であり、イスラエルから指名手配されていた男である。

 

犯行の手口は完ぺきであり、ドバイ警察の捜査で実行犯部隊11人、サポート部隊16人の合計27人と言う大規模な暗殺チームが編成されていたことが判明した。ヨーロッパ各国から入国した彼らのパスポートは勿論偽造旅券であるが、その国籍は英、仏、独など複数の国にまたがり、しかもその全てがイスラエルと二重国籍を有する善良なユダヤ市民の名義であった。ドバイ警察当局は当初から事件の背後にイスラエルの諜報機関モサドが介在していると明言し、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて容疑者を国際指名手配した

 

被害者のマブフは事件当日の午後、シリアのダマスカスからドバイに到着、アル・ブスタン・ホテルにチェックインした。バンコックへの乗り継ぎのためであった。そして短時間の外出からホテルの部屋に戻ったところを暗殺された。彼の妻がダマスカスから国際電話でホテルの部屋に電話したが応答が無かったため不審に思いホテル側に室内のチェックを依頼したのである。ホテルの従業員がロックされたマブフの部屋に入ると、彼はベッドに横たわっていたが、既に呼吸が無かった。部屋はロックされ内部も荒らされた形跡が無かったため、警察は当初彼の死因を心臓麻痺と推定した。

 

しかしその後の調べで彼は筋肉弛緩剤を注射された痕跡があったことから他殺の疑いで捜査を開始した。彼がハマスの幹部マブフであることもほどなく判明した。マブフは複数の偽名旅券を使い分けて世界を飛び回っていたのであるが、ドバイへは本名で入国していたからである。また普段なら一緒のボディガードもつけず一人旅であった。彼は部屋に侵入した暗殺者に筋肉弛緩剤を注射され、ベッドの枕で顔をふさがれ殆ど無抵抗の状態で窒息死したようである。

 

ホテルのロビーや廊下に設置された監視カメラが暗殺者の犯行状況をとらえていた。マブフが最初にホテルにチェックインし部屋に向かう時、彼の背後に二人の男の姿が映っていた。その直後彼らはマブフの向かい側の部屋をとり彼の動静をうかがっていた。そしてマブフが外出した隙を狙って彼の部屋の電子ロックを開け、室内で彼の帰りを待っていたようである。そして彼が部屋に戻ると間髪をいれず殺害したのである。

 

その後、犯人たちが直ちにホテルをチェックアウトしてドバイから出国したことは言うまでも無い。ホテルの宿泊記録から容疑者の名前と国籍が判明した。さらに空港の出入国管理記録から彼らのドバイ滞在はわずか一日足らずであったこと、暗殺の実行部隊は全員で11人と言う大部隊であったことも解った。さらにその後の調査で実行部隊をサポートする16人が事前にドバイに入国していたことも判明した。犯行の綿密な計画性と手際の良さ、そして多数の人間による連係プレー等々、見事なプロの暗殺者集団の技である。

 

被害者がイスラエルから指名手配されているハマスの幹部であったこと、及び鮮やかな犯行の手口から事件の背後にイスラエルの諜報機関モサドがいたことは間違いない。ドバイ警察は当初からモサドの関与を明言していたが、その関与について確たる証拠を示した訳ではない。一方、イスラエル政府はドバイ側の発表を明確に否定するでもなく、また事件そのものについてのコメントもしていない。世界に冠たる諜報機関のモサドが証拠を残すようなへまをやるはずはなく、またイスラエル政府がイエスでもノーでもないあいまいな態度をとるのは、同国の核兵器所有疑惑のケースと同じであり、同国の外交戦略の一つと言える。

 

しかし事件に対するドバイ政府のボルテージは上がる一方であり、ついにはイスラエルのネタニヤフ首相の逮捕まで視野に入れていると言いだした。勿論これは荒唐無稽な話であり逮捕状が実際に発行されることはないであろう。ドバイがこのような強硬姿勢を示すのはあくまで近隣イスラム諸国に対するパフォーマンスである。イスラムの戒律を軽んじた西欧的な享楽都市であるドバイは常々近隣諸国の顰蹙を買っている。またバブルの後始末として同じUAEのアブ・ダビから200億ドルに達する金融支援を仰いでいる。このためドバイとしてはアブ・ダビや他のGCC諸国、或いはイランの歓心を買うため、今回の暗殺事件に張り切っていると見られる。

 

それでは偽造旅券を利用された英、仏、独などは事件に対してどのように反応しているのであろうか。ICPOが正式に国際指名手配したのであるから、当然各国とも事件を非難し、捜査に協力している。英国は旅券偽造に関わっていたとしてイスラエル大使館員1名の国外退去処分を発表した。しかし各国政府ともイスラエルを余り刺激したくないと言う意図が見え見えで捜査には及び腰である

 

結局この事件は未解決のまま闇に葬られる可能性が高い。マブフを襲った刺客達は多額の報酬を手に今頃世界のどこかで優雅な生活を送っているのだろうか。否、ひょっとして口封じのためにモサドが送り込んだ別のヒット・マンの手でこの世から消されているかもしれない。暗殺の証拠そのものを抹殺するには暗殺者本人を抹殺することが良策であろう。それはケネディ大統領暗殺犯のオズワルド自身が暗殺された事件とその後の経緯を見ればわかるはずである。

 

(続く)

 

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      前田 高行      183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601

                      Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

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2010年03月23日

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2010年03月22日

(注)マイライブラリー(前田高行論稿集)で全文をご覧いただけます。

6.チェチェンからの刺客(2009年3月)

 20093月、ロシアのチェチェン共和国から来た一人の男がジュメイラ地区にある高級マンションの駐車場で射殺された。彼はスレイマン・マドフ(36歳)と名乗っていたが本名はスリム・ヤマダエフ、チェチェンの反大統領派の大物である

 

チェチェンはロシア連邦を構成する共和国の一つで、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス(コーカサス)地方にある人口110万人の小国である。日本では馴染みの薄い国であるが、カスピ海から黒海に至る石油パイプラインが通過する重要な位置を占めている。カフカス地方は少数民族が入り乱れ、また住民の多くがイスラム教徒である。このため1990年のソ連邦崩壊により南部のグルジア、アゼルバイジャンなどが独立すると、これに刺激されてチェチェンもロシアからの独立を宣言した。

 

ロシアは圧倒的な兵力で独立運動を封殺、10万人を超す死者を出し、紛争は泥沼化した(第一次チェチェン紛争)。そして漸く1997年にロシアとチェチェン武装勢力は5年間の停戦に合意したのである。しかしこの平和は長くは続かなかった。1999年、チェチェン武装勢力は「大イスラム教国建設」を掲げ和平協定を破って隣国ダゲスタン共和国に進攻、これに対しロシア連邦軍は再びチェチェンに進撃したのである(第二次チェチェン紛争)

 

ロシア側は独立派武装勢力を粉砕、アフマド・カディロフ(ラムザン・カディロフ現大統領の父親)を大統領とする親ロ政権が樹立された。一方、敗れた独立派はイスラム過激派の国際テロ組織アルカイダと結び内外でテロ活動を繰り広げた。モスクワ劇場爆破事件あるいは小学校占拠事件など一連の事件が日本でも報道されたことでよく知られている。そしてこの間にシャミル・バサエフなど独立派指導者達は次々とロシアによって暗殺されたのである。ロシアとしては少数民族の独立運動を抑え込み、また石油と天然ガスのパイプラインルートを確保するために何としてもカフカス地方をロシア中央政府の支配下に置く必要があったのである。

 

独立派をテロ集団とみなす連邦政府の方針を支持し、200310月の選挙で初代大統領になったアフマド・カディロフと共に独立派の掃討に武勲をあげたのが今回暗殺されたスレイマン・マドフである。マドフはその功績によりロシア英雄勲章を授与されている。しかしアフマド大統領は就任わずか半年後に独立派のテロにより暗殺された。この時からアフマドの息子ラムザンとスレイマン・マドフの権力闘争が始まった。ラムザンは1976年生まれ、マドフは1973年生まれ。二人はわずか3歳違いである。

 

チェチェンの権力闘争は2007年にラムザンが父親の後継者アルハノフを追い落として自ら第3代大統領に就任したことで決着した。前年に反政府独立派が投降したこともありラムザンは強権政治を敷いた。なお連邦政府はチェチェンのテロ活動が沈静化したとして昨年、特別治安体制の終了を宣言している。

 

ラムザンの権力掌握後もスレイマン・マドフは国内で穏然たる勢力を保っていたが、表立って大統領に対抗する姿勢を示さなかった。しかし彼の身辺にきな臭さは漂っていた。彼の兄ルスランが2008年に暗殺されたのである。事件の黒幕が権力欲の強いラムザン大統領であることは疑いの余地が無かった。反政府独立派が投降した現在、ラムザン大統領が恐れるのは強い勢力を保持しているかつての仲間のマドフ兄弟だった。猜疑心に駆られた大統領はスレイマンの兄を暗殺、次に狙ったのがスレイマン本人である。彼もそのことは十分警戒し身辺護衛を固めていたはずである。大統領が彼をチェチェン国内で「消す」ことは難しかった。ドバイならスレイマンの身辺警護も手薄で本人も油断していると考えたのであろう。

 

20093月、スレイマン・マドフは滞在先のドバイで暗殺され、ドバイ駐在のロシア総領事が彼の死体を確認した。しかし以後、事件は解明されることなく闇に葬られたままである。

 

(続く)

 

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