2015年03月

2015年03月30日

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2015年03月27日

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2015年03月25日

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2015年03月23日

(注)本レポート1~4は「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してご覧いただけます。

http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0338SaudiRoyalFamily2015.pdf

 

4.第三世代:最後に笑うのは誰か?
 今回のサルマン新国王体制で最も注目すべき人事は何といってもムハンマド・ビン・ナイフ内相を副皇太子に選んだことであろう。副皇太子のポストはアブダッラー前国王の時代に現在のムクリン皇太子が選任されたのが初めてである。それまでにも国王、皇太子に次ぐNo.3として次期皇太子候補含みで第二副首相が任命されたことは何度かある。しかし故ナイフ内相(ムハンマド現内相の父親でスデイリ・セブンの四男)が2009年に第二副首相に抜擢されたとき、スデイリ・セブンの復活を警戒したタラール王子(初代国王の18番目の息子。富豪アルワリード王子の父親)がクレームをつけた例があった 。


 このためかアブダッラー前国王は2014年3月に当時のムクリン第二副首相に副皇太子の称号を与えたが、これには二つの大きな意味があった。一つは王位を第二世代の最後まで引き継がせるという意思の表れであり、もう一つは母親が名門出身でなければならないとしてこれまで暗黙の了解事項とされてきた第二世代王子の出自が問われなくなったことである。


 ムクリン王子はアブドルアジズ初代国王の36人の息子の35番目、第二世代の生存者としては最も若い(1945年生)。また彼の母親バラカ妃はイエメン出身の無名の女性であり、歴代国王や皇太子の母親のような名門出身ではない。第二代サウド国王以下歴代国王の母親はいずれも名門出身であり、たとえばファハド第四代国王、サルマン現国王の母親は名門スデイリ家の出身であり、アブダッラー前国王の母親もベドウィンの名門シャンマリ族出身である 。このような前例を見て世間ではアブダッラー国王時代の皇太子がスルタン、ナイフ、サルマンと続いた後、次の皇太子は第三世代の血統の良い王子が指名されるものと見ていた。ところが今回ムクリンが正式に皇太子に昇格したのである。


 ここにはさらに第三の意味が含まれていた。これまで新国王即位後の後継者指名については第二世代の息子あるいはその子孫で構成される「忠誠委員会(Allegiance Committee)」の合意が必要とされてきた 。しかし今回のムクリン皇太子あるいはムハンマド副皇太子の指名については「忠誠委員会」が開かれたという確認報道は無く、仮に開かれたとしても形式的・表面的でまともに審議された形跡が見られず、サルマン新国王が一方的に決めたことは間違いないようである。忠誠委員会はサウド家の「マジュリス」(評議制度)でありコンセンサスを重視するベドウィンの伝統に従ったものである。サルマンの統治手法はこのようなコンセンサス重視から国王による指揮命令系統の一本化、強権政治に変質し始めている。そのことは勅令で石油最高会議など多くの諮問会議を廃して二つの評議会に集約したことにも表れている。そのうちの一つ政治安全保障評議会議長にはムハンマド副皇太子を、残る一つの経済開発評議会議長には息子のムハンマド国防相といずれも第三世代の王子を指名したのである 。


 今回の一連の人事によりサウド家にもいよいよ第三世代の時代が訪れたと言えよう。但し第三世代の王子の数は極めて多い。1998年に発行された「Family Charts of Saudi Royal Family Descendants」(Al-Ruwaishid著)によれば第三世代の王子の総数は当時254人であった。その後この人数は変動しているであろうが、現在も200人を下らないことは間違いない。統治基本法第5条によりこれら200人余りの王子にはいずれも王位継承権がある。


 その中から一頭地を抜けたのがムハンマド副皇太子であり、それに続くのがムハンマド国防相他のサルマン国王の息子たち、あるいは国家防衛隊長官(閣僚)など前国王の息子たちであろう。もちろんファイサル第三代国王の遺児サウド外相やハーリド・マッカ州知事のようなベテランの第三世代もいる。但し彼らベテランはいわば「早すぎた第三世代」であり、王位継承問題に関わるには高齢すぎる。
(注)図表「サウド家第二~第五世代の主要王族」参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/3-1-1.pdf


 それではこれら「早すぎた世代」を除きサルマン国王が任命した王族閣僚・州知事がそのまま次代の支配層になるのであろうか?世評では今回の人事の顔ぶれを見て「スデイリ・セブン」の復活を唱える向きもある。しかし筆者の見解は異なる。「スデイリ・セブン」がそのままかつての勢力を取り戻すとは考えにくい。「スデイリ・セブン」は血のつながった同母兄弟だったからこその絆であり、彼らは異母兄弟(アブダッラーなどその数は30人近い!)と対抗するために結束したのである。異母兄弟間の争いが時として他人同士よりも激しいことはサウド家に限らず日本でも西武鉄道グループの堤兄弟一族の骨肉の争いを見ても分かるであろう。「スデイリ・セブン」の息子たち第三世代は単なる従兄同士の関係でしかない。もちろん彼らはお互いに支えあうことにメリットがあれば助け合うであろう。しかしそれはあくまでドライな合従連衡策の一つであってウェットな血のつながりによるものではないと思われる。


 もう一つ注意すべき点は現在の顔ぶれで将来の王位継承問題を語ることである。国王が代わり新たな皇太子(および副皇太子)が決まると彼らの息子たちが登用されるのは当然の成り行きである。ファハド元国王の時代には彼の息子たちが重職に就き、アブダッラー前国王の時代も然り。そしてサルマン現国王は息子たちを次々と重職に登用している。しかしこれとてサルマンが亡くなれば元の木阿弥になるであろうことはファハドおよびアブダッラーの例を見るまでもない。サルマン亡き後、ムクリン国王のもとでサルマンの息子ムハンマド国防相が安泰とは言えない。1980年生まれの若いムハンマド・ビン・サルマンが更迭され、さらにはサルマンの息子たち異母兄弟の間で骨肉の争いが起こる可能性も否定できない。ファハド元国王死去後、ムハンマド東部州知事とアブドルアジズ国務相(肩書はいずれも当時)が職を解かれ、異母兄弟で骨肉の争いがあった。歴史は繰り返しサルマン家にお家騒動が起こるというデジャブ(既視感)の気配が漂う。


 結局現在のところムハンマド・ビン・ナイフ副皇太子が国王になるその時まで第三世代のパワー・ゲームは決着がつかないであろうというのが筆者の見解である。ムクリンがいつ国王になれるか(あるいはスルタン、ナイフと同じく国王になれないまま死ぬかもしれない)? ムハンマド副皇太子がいつ皇太子になり、さらに国王に即位できるのか? それらのことが何年先になるかわからないため、第三世代の勢力地図も流動的である。ただ強いてあげるとすればムクリン皇太子が大きなカギを握っていそうな気配がする。ムクリンは全くのダークホースとして皇太子になった。彼は王位継承権を持ちながら一族の中で傍流を歩んできた。「スデイリ・セブン」と反スデイリ・セブンのせめぎあいの中でいわば「瓢箪から駒」で皇太子に指名されたようなものである。彼は一族内の権力闘争ではしがらみのない中立的な立場にあり、その意味でサウド家の将来を純粋かつ客観的に見通すことができる。第三世代を導いていく人物になることができるのは第二世代最後の王子である彼しかいないと考える。


(完)


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 前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
   Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
   E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp



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2015年03月20日

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