2015年03月

2015年03月18日

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2015年03月17日

(注)本レポート1~4は「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してご覧いただけます。

http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0338SaudiRoyalFamily2015.pdf

 

3.外交政策:サルマンは老兵サウドをどうするつもりか?
 ファイサル第三代国王の4男サウドは1941年生まれ、今年74歳になる。彼が外務大臣になったのは1975年。何と40年もサウジアラビアの外務大臣を務めているのである。世界的に見ても一国の外交をこれほど長期間にわたり担っている人物は他にはいないであろう。


 彼は父ファイサルが暗殺されたその年にハリド新国王によって34歳の若さで外務大臣に任命された。ファイサルが暗殺されずにもう少し王位を続けていれば(歴史に「もし」は禁句であるが)彼の息子たちは歴代国王の息子たちのように政権の中枢に抜擢されたに違いないが、ファイサル家の長男はソニーの代理店として有名なアル・ファイサリア・グループを創設してビジネス分野に転身した。その意味で外務大臣になったサウドはファイサル家の希望の星であった 。


 ちなみにサウド家の王子たちは名前の最後にサウド家の証である「Al Saud」の名を冠する。一例を示すとサルマン現国王のフルネームは「HRH Salman bin Abdulaziz Al Saud」となる。ところがファイサル家だけはファイサル第三代国王の名を家名としておりサウド外相の場合は「HRH Saud Al Faisal」である(HRHは初代国王Abdulazizの直系男子であり王位継承権があることを意味している)。これはファイサルが非業の死を遂げたた
めに許された家名であり、ファイサルの子孫は特別扱いされているのである。


 サウドが外相になった1975年からこれまで中東は大きく動いた。1979年にはイラン革命が勃発、シーア派政権が生まれた。以後サウジアラビアとイランは不倶戴天の敵となる。その後イラン・イラク戦争(1980-1988年)とそれに続く湾岸戦争(1990年)から2003年のイラク戦争までイラクのサダム・フセイン政権との関係は、前半は蜜月状態であったが、後半は一転して対立関係になった。その間にもイスラエル・パレスチナ紛争は絶えることがなく、また2001年にはサウジ出身のオサマ・ビン・ラデンを首謀者とする9.11テロ事件が発生、テロ対策が最大の外交課題となった。外交はそれまでの国家対国家の対決から、姿の見えない過激派組織と対決する構図に変化したのである。さらに2011年には「アラブの春」事件が発生、サウド外相はGCCの君主制護持に腐心させられた。エジプトがイスラエル単独和平でアラブの盟主の座を失って以来、サウジアラビアは中東・湾岸外交のキー・プレーヤーに祭り上げられ、サウド外相は東奔西走の日々であった。


 そのサウド外相は現在74歳。サルマン国王の新内閣発足の時、彼は米国の病院に入院中だった 。サウド外相がサルマン新内閣で留任を望んでいたとは考えにくい。彼はアブダッラー前国王から外交の全権を任され、前国王との信頼関係は格別のものがあったはずである。実はサウド外相はアブダッラーが皇太子時代の1990年代に一度辞任を決意したことがあるといわれる。当時スルタン国防相の息子バンダル駐米大使がバンダルースルタンーファハド国王のラインで対米外交を取り仕切り、サウド外相がないがしろにされたためである。アブダッラー皇太子自身もスデイリ・セブンの専横に悩まされており、サウド外相の気持ちは十分すぎるほど理解できたと思われるが、アブダッラーはいずれ自分の時代が来るまで辛抱するようにとサウド外相を諭したといわれる 。1995年にアブダッラーが摂政となり国政の実権を握って以来サウド外相は再びやる気を取り戻したようである。しかしアブダッラー亡き今サウドはスデイリ・セブンの生き残りであるサルマンを支えるつもりがあるか否かは疑問である。


 一方サルマンの泣き所はサウドほど外交に精通した息子がいないことである。そもそもサルマンの息子たちは石油省のアブドルアジズを除いて行政経験の長い者がいない。サルマン自身はリヤド州知事を長く務めたものの自分の息子を引き立てることはなかった。長男のファハドを東部州副知事に送り込んだが、不摂生が原因と言われ46歳の若さで心臓病で亡くなっている。三男のアハマドも2002年に亡くなっているが、当時9.11同時多発テロ事件への関与がささやかれていた。父親のサルマンはイスラム慈善活動に熱心であり王族としては当然であったかもしれないが、米国では彼が関連した慈善活動の浄財がイスラム過激派に流れたのではないかという根強い不信感があった。


 サルマンに対する米国の扱いが何となくよそよそしいのは、彼に対する不信感が今も米国にあるからかもしれない。サルマンとしては最も重要な対米外交を任せることができるのは当面サウドしかいないのである。これまでサウド家内の権力闘争に精力を注いできたサルマンは対米のみならずアラブ諸国についても外交音痴と言って間違いない。


 サウドが自ら辞任するかあるいはサルマンが彼を罷免するか? いずれにしてもサルマンとサウドの仲は長く続かないと思われる。誰がサウドの後を継ぐか? 対米外交を最優先するなら、共和党時代に米国に強固な足場を築いたバンダル元駐米大使も候補者の一人であろう。共和党は現在上下院で多数を占め、バンダルが親しかったブッシュ(ジュニア)元大統領の弟ジェブ・ブッシュが次期大統領として有力視されていることを考慮すると「バンダル外相」はうってつけかもしれない(但しバンダルが故スルタン国防相の息子であることがサルマン国王の判断に微妙に影響する可能性は否定できない)。


 一方、シリア、イラン、「イスラム国」、イエメンのアル・カイダ勢力等々がもつれ合う複雑極まりないアラブ外交をこなすには外相はかなりタフな人物でなければならない。サルマンの息子たちを含め「銀の匙」をくわえ、生まれた時から甘やかされた若手の第三世代の王子ではタフな外交交渉は務まらないであろう。

サルマン時代の外交は日和見的な場当たり外交になるのかもしれない。


(続く)


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2015年03月16日

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2015年03月13日

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(注)本レポート1~4は「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してご覧いただけます。

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2.石油政策:ナイミ石油大臣はいつ誰と交代するのか?
 サウジアラビアでは国王が首相を兼務する(統治基本法56条)。1月29日、サルマン国王兼首相は彼にとって最初の内閣を組閣した。第一副首相にムクリン皇太子、第二副首相兼内相にムハンマド副皇太子を任命し、外相、国防相などの重要閣僚ポストおよび財務相、商工業相などの主要経済閣僚は留任した。重要閣僚ポストはサウド家王族の指定席であり、一方重要経済閣僚ポストは代々ベテランのテクノクラートの指定席である。石油鉱物資源相として留任したナイミもその一人である。


 ナイミ石油鉱物資源相(以下石油大臣と略す)は世界のエネルギー業界では誰一人知らぬ人の無い人物であり、今やベテランとかテクノクラートといった形容詞を超越した存在であると言えよう。彼が最初に石油大臣に就任したのは1995年であり、今年で20年目を迎える。実はサウジアラビアに石油鉱物資源省ができて以来、石油大臣の数はわずか4名にすぎない。最初の石油大臣はタリキ(1960-1962年)、二人目はOPECを率いて世界を震撼させたヤマニで24年間にわたって(1962-1986年)石油大臣を務めた。その後ナーゼル大臣を経て1995年にナイミが第4代の石油大臣となり現在に至っている。ナイミは1935年生まれ、今年で80歳になる。


 健康に問題は無いようであるが年齢的に見て石油大臣の激職は大きな負担であり早晩身を引くことは間違いないであろう。今年6月のOPEC総会がその花道になるのでは、という観測も流れている。彼の辞任説は今に始まったことではなく、2007年の内閣改造時にもメディアに交代の噂が広がった 。彼が最初に石油大臣に任命された1995年は病弱のファハド国王にかわりアブダッラー皇太子が摂政となり国政の実権を掌握した年でもある。以来ナイミはアブダッラーに忠誠を誓い、またそれに恥じない活躍を続けてきた。アブダッラーとナイミの信頼関係は極めて強固であった。


 しかし大臣就任以来20年が経過、かつての石油鉱物資源省の若手も中堅からベテランの域に達し、そろそろ世代交代の時代に入った。その先頭に立っているのがサルマン国王の息子で今回副大臣に任命されたアブドルアジズである。アブドルアジズはサルマン国王の4男で1960年生まれ 。20代後半には石油鉱物資源省次官補となり、アラビア石油の利権更新問題ではサウジ側の窓口として活躍、その後OPEC本部勤務を経て最近では新エネルギー開発にも携わっている。今年55歳になる彼は家柄、年齢、経験ともに申し分ない人物であり、ナイミ石油大臣の後任として下馬評が高いのは当然である。筆者もアブドルアジズ副大臣がかなり近い将来(サルマン国王の目が黒いうちに)、ナイミ石油大臣の後任に指名されるものと確信している。


 但しそのことがサウジアラビアにとって本当にベストな選択であるかという点については若干の疑問を禁じ得ない。上記の歴代石油大臣を見ていただきたい。いずれもベテランのテクノクラートであって王族ではない。実はクウェイト、UAEなど他のGCC産油国も石油大臣はいずれもテクノクラートである。産油国において国家財政の根幹を成す石油大臣のポストは極めて重要であり、またOPECメンバー国の担当大臣として国際的な地位が高い。名誉と地位を求める王族にとって石油大臣は極めて魅力的なポストのはずである。しかるに王族ではなくテクノクラートが任命されるのは何故であろうか?


 そこには石油大臣ポストが抱える落とし穴があるからである。石油は世界のエネルギーの中枢を占めており、産油国(その多くは開発途上国である)は先進国を中心とする消費国と常に利害調整を迫られ、他方市場では需給バランスによる大幅な価格変動のリスクに対処しなければならない。昨年から今年にかけての原油価格の大幅な下落に対してサウジアラビアは市場シェアを重視し、米国のシェールオイルとどちらが先に倒れるかと言われる苛烈なチキンレースを始めた。その結果同国の歳入は激減している。ナイミ石油大臣の石油政策(それはとりもなおさずアブダッラー前国王の政策でもある)が問われている。ナイミがその責任を取らされてもおかしくない状況なのである。つまり石油大臣ポストは極めて不安定であると同時に、問題が起こった(あるいは最高権力者が問題ありと判断した)時、首を挿げ替えることのできるポストとみなされている。またそれによって最高権力者自身も直接の責任追及を免れることができると言える。


 ところがアブドルアジズが石油大臣に就任すれば石油政策にミスがあっても国王の息子を首にすることはできないであろう。せいぜい副大臣または次官クラスのテクノクラートをスケープゴートにするのが関の山である。責任があいまいになることは間違いない。ちなみに同じような例をサルマン自身に見ることができる。彼のリヤド州知事時代の1990年代半ばにリヤドで過激派テロが頻発したことがあった。欧米諸国であれば知事が引責辞任するケースであるが、彼は兄のナイフ内相の助けで知事の職を保持したのはその一例である。


 石油がらみで今回もう一つ不可解な人事があった。アラムコの副社長二人がほぼ同時に辞めたことである。一人はKhalid Al-Buainain技術サービス担当上級副社長であり、彼は1980年に入社、住友化学工業との合弁事業PetroRabigh会長も兼務していたが、3月初めにアラムコを離れた 。もう一人はSamir Al-Tabibエンジニアリング担当上級副社長である。彼の場合は何と国防省のプロジェクトマネジメント責任者(director)に転身している 。国防大臣のムハンマドはサルマン国王の7男でアブドルアジズ副大臣の異母弟である。ムハンマドがどのような目的で異母兄の石油省から副社長を引き抜いたのかその意味するところは甚だ興味深いが、部外者が理解するのは極めて難しい。


(続く)


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