2016年01月
2016年01月27日
プロローグ
4.第一次大戦中の英国の3枚舌外交(その1)
第二次世界大戦後の中東を語る際にどうしても言及しなければならないのは第一次世界大戦中に英国が行ったいわゆる「三枚舌外交」と呼ばれるものである。
第一次世界大戦は英仏を中心とする連合国(日本もその一員であった)とドイツ・オーストリア・オスマントルコの同盟国との戦争であった。連合国側が勝利し、1919年に英国とフランス主導による戦後処理をめぐるパリ講和会議でベルサイユ条約が締結された。この条約は敗戦国ドイツに対して過酷極まるものであり、ドイツは領土をむしりとられ、莫大な賠償を強いられた。そこに見られたのは勝者総取りの図式である。英国とフランスはドイツと共に敗戦国となったオスマン・トルコ帝国に対しても容赦しなかった。両国はトルコ民族固有の領土である小アジアを除くレバント、チグリス・ユーフラテス一帯をオスマン・トルコから取り上げ、それぞれの支配下においたのである。それは19世紀から連綿と続くヨーロッパ帝国主義国家による植民地獲得競争の最終仕上げとでも言うべきものであり、その地に古くから生活を築いてきたアラブ民族のことなど一顧だにされなかったのである。
中東の現在につながるこのような状況が生まれる原因となったのが第一次世界大戦中に英国が結んだ三つの約束―フセイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定及びバルフォア宣言―である。これら三つの約束はそれぞれ約束の相手が異なるだけでなく、内容が全く矛盾する約束であった。そのためこれら一連の英国の外交は3枚舌外交と酷評されたのである。否、酷評されただけでは済まず百年後の今日まで中東全域に災いをもたらす結果を招いたのである。
(1)フセイン・マクマホン書簡
これら三つの約束のうちの最初のものは第一次世界大戦開戦の翌年に英国の駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンがマッカの太守フセイン・アリーに送った書簡であり、対トルコ戦に協力することを条件にアラブ人に居住地区の独立を約束したものである。1915年10月24日付のフセイン宛の書簡でマクマホンは次のように述べている。
「私は貴殿に対しイギリス政府の名において次の通り誓約を行い、貴殿の書簡に対して次の通り返答する権限を与えられている。:イギリスはマッカの太守が提案した境界線の内側にあるすべての地域におけるアラブ人の独立を(一部修正条件付きで)承認し支持する用意がある。」
フセインは預言者ムハンマドの直系の子孫(第39代目)と言う由緒正しい家柄で聖地マッカの太守であると同時にヒジャズ地方(マッカを含む紅海沿岸一帯)の王として君臨していた。英国のお墨付きを得たフセインは息子のアブダッラー(後のヨルダン国王で現アブダッラー国王の祖父)やファイサル(後のイラク・シリア国王)にオスマン・トルコに対するゲリラ作戦を命じたのである。
そしてファイサルの作戦参謀として活躍したのが英国陸軍将校トマス・ロレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」である。「アラビアのロレンス」はあたかもロレンス自らが機知策略を弄して無知蒙昧なアラブ人の先頭に立って戦ったかのごとき印象を与えるが、これは英国側でかなり脚色された虚像である。彼は英国軍との連絡係であり、英国からアラブ側に補給される資金や武器弾薬の窓口であったというのが正しいであろう。彼自身は自分の国イギリスが書簡の約束を忠実に守ると信じ込んでいた。
しかし第一次大戦後、実際にアラブ人に割り当てられた土地は彼らが期待していたものとは程遠かった。そのためロレンスはアラブ側の信頼を失い帰国した後、オートバイ事故で自らの命を失う羽目に陥る。アラブ世界ではロレンスは「英国の走狗」とみなされ全く評価されていないのである。戦勝者はいつの世も自分に都合の良い英雄を作り出すものである。
(続く)
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荒葉一也
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2016年01月25日
2016年01月20日
・パキスタン大統領、サウジとイランを相次いで訪問、仲介に乗り出す。
(サウジ)習近平中国国家主席来訪。サルマン国王と会談。エネルギー他14件の協定締結。
(サウジ)IMF、今年のサウジ成長率を前回より下方修正し1.2%に。 *
(UAE)Shell、100億ドルのBab酸性ガス開発計画から撤退。UAE石油相はAdnocで実施すると強気。
(UAE)ムバダラ石油、メキシコの石油産業参入でPemexと協定締結。
(クウェイト)クウェイト石油化学(PIC)、1億ドル投資し韓国SK Gas/サウジ企業の合弁事業に参加。
(オマーン)2,500万バレルの備蓄設備建設。
(バハレーン)製油所拡張計画、決定を延期。
(サウジ)女子大生の61%が一夫多妻を容認。
・英キャメロン首相:英語の話せないムスリム女性のため2,850万ドルの基金設立。水準以下なら移住認めず。
*「世界主要国とMENAのGDP成長率(IMF 2015年10月版)」参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0359ImfWeoOct2015.pdf
プロローグ
3.中東を流れる三つのアイデンティティ
ここから先、筆者なりの見方で戦後70年の中東の歴史をたどっていくつもりであるが、中東には三つのアイデンティティがあると筆者は考える。一つは「血」のアイデンティティ。二つ目は「心」のアイデンティティ。そして最後の一つは「智」のアイデンティティである。今後各章でこれら三つのアイデンティティについて頻繁に触れることになるが、ここで簡単に説明しておきたい。
最初の「血」のアイデンティティとは人間としてこの世に生まれたときにすでに与えられている特性、現代風に言えばDNAとでも呼ぶべきもので生物学的なアイデンティティである。「血」のアイデンティティはすなわち「民族」であり、中東でその最大のものは「アラブ」であるが、中東にはそのほかにも、トルコ民族、ペルシャ(イラン)民族などいくつかの民族が共存している(「ユダヤ民族」という呼称があるが、ユダヤは生物学的な意味での「民族」とは言えない)。
「民族」となるとかなり大きな概念になるが、「血」は先ず本人と他者との血縁関係から始まる。最も近い関係が親子・兄弟姉妹であり、これが「家族」と呼ばれる。伯父・叔母・従兄弟等の関係まで広げると「親族」となり、遠い縁戚関係を含めると「一族」となる。さらにその上に「一族」を束ねる「部族」があり、最終的には「民族」のカテゴリーに行き着く。すべてに共通しているのは「族」という言葉である。「族」とは同じ祖先から分かれた血統であり、すなわち「血」のつながりである。
都市化が進んだ近代国家では「核家族」の言葉に代表されるように、血のつながりは家族もしくは親族どまりであり、「一族」、「部族」などは死語に近い。最も大きな概念である「民族」という言葉は今もよく使われるが、それは政治のスローガンとして利用されることが多い。これに対して中東(特にアラブ民族の間)ではこの「血」のアイデンティティが今も末端の庶民からトップの権力者まで広く意識されていると言えよう。
「血」のアイデンティティがDNAとして受け継がれる先天的なものであるのに対して「心」と「智」のアイデンティティは後天的に得るものである。「心」とは信仰心のことであり、「智」とは政治思想あるいは主義主張を指す。
中東で信仰と言えばイスラームが圧倒的な影響力を持っている。アラブ民族、トルコ民族、ペルシャ民族などもほとんどがイスラームの信者(ムスリム)である。もちろん中東の人々の中にはエジプトのコプト教徒のようなキリスト教信者もいればユダヤ教徒の国イスラエルもある。ムスリム、キリスト教、ユダヤ教はともに一神教という共通点を有するが、むしろそれ故にこそ互いに反発し憎しみ合う長い歴史がある。特に中東におけるイスラーム国家群とユダヤ教国家イスラエルとの対立は今も先の見えない状況である。
さらに現代中東のイスラームにはスンニ派とシーア派という宗派による対立があり、或いは同じ宗派の中でも原理主義と穏健派の対立もある。宗派による対立あるいは教義の解釈をめぐる厳格派と穏健派との対立があるのは何もイスラームに限ったことではなく、西欧中世のカソリック対プロテスタントの宗教戦争もその一例である。しかし中東では近代西欧文明が浸透し、インターネットが発達したグローバリゼーションの現代において未だに(あるいは漸くと言うべきか)宗教の対立が先鋭化していることが大きな問題なのである。
三つ目のアイデンティティとしてあげた「智」は主義、主張を伴った政治的あるいは経済的なイデオロギーのことである。「智」の対立が起こるのは宗教の束縛から解放されてからである。西欧では中世以降、産業革命を通じて経済面で重商主義が起こり、さらに資本主義へと発展していった。その過程で富の分配の不平等が問題となり、社会主義、共産主義のイデオロギー、すなわち「智」の世界が広がっていった。
それが世界レベルに広まったのがロシア革命によるソビエト社会主義連邦(ソ連)の誕生である。そもそも西欧資本主義とソビエト社会主義は互いに相容れない性質のものだったが、ドイツ・ナチスの全体主義に対抗するため両者は共闘してこれを打倒し第二次大戦を終わらせた。しかしその途端米ソ二大陣営は鋭く対立、「冷戦時代」となった。「冷戦」と言っても実際には世界各地で両陣営の代理戦争―熱い戦争―が発生、中東もその舞台の一つになったのである。中東ではイスラームの呪縛から解放されないまま第二次大戦後にイデオロギー戦争に巻き込まれた。このことが後々の混乱を拡大したのである。
改めて「血」と「心」と「智」の時系列的な発生の順序を考えてみたい。「血」はDNAとして先天的、遺伝的に身に備わったものである。それに比べ「心(信仰)」と「智(主義)」は後天的なものである。さらに「心(信仰)」はほとんどの場合物心のつかない幼時期に身に染み付く。キリスト教徒の赤子は洗礼を受け、そしてイスラーム教徒(ムスリム)の場合はモスクから流れる祈りの言葉「アザーン」を子守唄として成長する。それに対して「智(主義)」は教育(特に高等教育)を通じて個人の頭脳の中に刷り込まれる。つまりこれら三つの要素が人間に取り込まれるのはまず先天的な「血」に始まり次に「心(信仰)」であり、「智」は最も遅い。これがごく自然な順序と言って良いであろう。
国家レベルで見ると「血」の民族国家、「心」の宗教国家。「智」の資本主義あるいは社会主義国家が形成される歴史的な順序は異なる。西欧社会ではそれらがそれぞれ相当の時間差(タイムラグ)で歴史に登場しており、同時並行的に現れることはなかった。ところが中東ではそれら三つの要素が第二次大戦後の70年という短い歴史の中で同時並行的に登場している。戦後中東の混乱と悲劇はそのような土壌の中から生まれたものではないか、というのが筆者の見方である。
(続く)
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荒葉一也
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