2016年03月

2016年03月23日

第1章:民族主義と社会主義のうねり

6.イスラエル独立(その4):対英テロ活動を経てついに独立
 テロ(リズム)とは「政治目的のために暴力あるいはその脅威に訴える行為」(広辞苑)である。一般市民が犠牲となるテロ行為は決して許されるべきものではない。しかし国家の独立を賭けた戦いにおいては必ずテロ行為が発生する。時の政府あるいは権力者はテロを秩序を乱す犯罪行為とみなす。これに対して反権力者側はテロ行為は目的達成のための正当な手段の一つだと主張する。両者の主張がかみ合うことは無い。


 多くのテロ行為は治安を握る権力者によって鎮圧されるが、反乱側が権力を奪取し国家として独立が認められると立場が逆転し、それまでの反乱者たちのテロ行為は「愛国的な行為」とみなされる。そしてテロの実行者たちは「英雄」に祭り上げられ国際社会もそれを受け入れる。戦後世界は国民国家が基本単位であり、政治学者は国家だけが正当な暴力装置を持つことを許されていると説く。


 イスラエル独立前後の事情もこの一つの例である。建国の地パレスチナは第一次大戦後、英国の委任統治領となったが、そこには先住民のアラブ人が住んでいた。ユダヤ人は当初「シオニズム運動」に駆られ、次いで「バルフォア宣言」に勇気を得て続々と移住してきた。新移住者は先ず自分たちの土地の取得を目指した。オスマン・トルコ時代からの不在地主たちは戦後の混乱に不安を覚え、またユダヤ人が目の前に積み上げる現金に目がくらんで次々と土地を手放した。土地の所有者となったユダヤ人たちは小作人のアラブ人を追い出し集団農場キブツを造り始めた。


 アラブ人とユダヤ人の間で紛争が起こるのは当然の成り行きであった。委任統治を任された英国政府はユダヤ人移住者による土地の取得を制限することにより、ユダヤ人とアラブ人の紛を少しでもなくそうとした。するとユダヤ人の反抗の矛先は英国政府に向かった。ユダヤ人とアラブ人と英国政府の三つ巴の対立の中でテロ活動が頻発した。


 ユダヤ人が英国に対して行った最大のテロ活動が1946年7月のキング・ダビデ・ホテル爆破事件である。この事件により一般宿泊者を含む91名が死亡した。実行犯は過激派シオニスト組織で集団農場キブツの自警団をルーツとするハガナーである。ハガナーは後にイスラエル国防軍の母体となる。第二次大戦後、ハガナーとその後に生まれた対アラブ強硬派の軍事組織イルグンによる独立テロ活動が激しさを増した。手に負えなくなった英国はついに1948年5月14日をもって委任統治を返上することを決めた。


 独立の好機到来とばかりハガナーやイルグンなどは対英・対アラブのテロ活動を強化した。ハガナーの主要メンバーには後に首相となりノーベル平和賞を受賞するイツハク・レビン、隻眼の軍人として数々の武勇伝を持つモシェ・ダヤン等が、またイルグンにはこれも首相になったメナハム・ベギンがいた。


 そしてユダヤ人たちは英国の委任統治終了の日に独立を宣言した。独立の指導者ベン・グリオンはこの日、「イスラエルの地はユダヤ人誕生の地である」と言う書き出しに始まる独立宣言を読み上げた。周辺アラブ諸国はイスラエルの独立を認めず軍事介入に踏み切る。これが第一次中東戦争である。


12エイラート(アカバ湾)
 1949年3月、紅海につながるアカバ湾の最奥部にある港町エイラートも戦場となりイスラエル軍が占領した。この時イスラエル軍は近くのホテルのシーツに青いインクでにわかづくりの国旗を作り港に掲揚した。これが「インクの旗」と呼ばれるものであるが、その時の写真は第一次中東戦争を象徴するものとして今も語り継がれている。それはまさに太平洋戦争の激戦地硫黄島で米軍が掲げた星条旗の写真とうり二つである。こうしてイスラエルは地中海に加え紅海側にも出口を確保したのである。


 同じ年エイラートの町の郊外のパレスチナ人農家ザハラ家に男の子が生まれている。この戦闘ではザハラ家は戦火を免れ細々とではあるが平穏な暮らしを続けることができた。しかしその平和な生活がいつまでも続くという保証はなかった。


(続く)


本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

       荒葉一也

       E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

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2016年03月16日

第1章:民族主義と社会主義のうねり

5.イスラエル独立(その3):流入するユダヤ移民に押し出されるパレスチナのアラブ人
11イスラエル国旗
 世界のユダヤ人口は約1,400万人であり、その大半は米国とイスラエルに住んでいる。イスラエルのユダヤ人口は630万人で全ユダヤ人口の45%に相当するが、イスラエル一国(総人口850万人)で見ると同国人口の4分の3を占めている。


 しかしイスラエル建国前のパレスチナ時代にユダヤ人がこれほど多かった訳ではない。第一次世界大戦直後の1920年代初めのパレスチナの総人口は75万人で、そのうちユダヤ人は約8万人であり、総人口に占める比率は1割強にとどまっている。絶対数では現在の80分の1、比率でも8分の1程度だったのである。


 シオニズム運動とバルフォア宣言の後押しにより第一次大戦前後にヨーロッパ各地から多数のユダヤ人がパレスチナすなわち「シオンの土地」へと移住した。それは「アリヤー」と呼ばれ19世紀末から1920年代までの第一次アリヤーから第四次アリヤーまでの間にほぼ20万人がパレスチナに押しかけている。そしてナチスドイツのホロコーストが始まるとユダヤ人たちは我先にヨーロッパを脱出、その多くは米国に向かったが、イスラエルに移住したした者も25万人に達した(第五次アリヤー)。この結果第一次大戦直後に75万人であったパレスチナの総人口はその後わずか20年たらずの間に150万人に倍増したのである。

 パレスチナの土地は元々広くないが決して不毛の砂漠ばかりではなかった。耕作可能な土地はすでに先住民であるアラブ人たちによって耕作されており、耕作に不向きな土地では羊やラクダが放牧されていた。

新たなユダヤ人移民がまず必要としたのは農地だった。彼らはそれまで住んでいたヨーロッパのユダヤ人社会の中でも相対的に貧し階層である。移民とはそもそも貧しいから移住するのであって豊かな者たちは移住など考えない。さらに言えば海外移住を希望する比較的裕福なユダヤ人たちは、パレスチナではなく米国など豊かな先進国を目指したのである。


 彼らはいかにして農地を手に入れたのであろうか。ユダヤ人たちは先住者のアラブ農民を力づくで追い出したのであろうか。イスラエルと言う自分たちの国家がある現在ならいざ知らず、当時のユダヤ人にはそのような力は無い。かれらが取った手段は地主から土地を買い取ることであった。アラブ農民は小作農であり、土地はオスマン・トルコ時代からの不在地主のものである。


 ユダヤ人入植者たちは札束を積んで不在地主から土地を買い取った。彼ら自身がそのような大金を持って移住してきたとは考えられない。それはヨーロッパに住み続けた豊かな同胞(ロスチャイルドはその典型であろう)、或いはアメリカにわたって成功した同胞からの義捐金である。豊かなユダヤ人はヨーロッパに残り、才能や学歴のあるユダヤ人はアメリカに移住した。パレスチナに移住したユダヤ人のほとんどは金も才能も学歴も乏しい貧しい者たちだった。1909年、帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人に対する迫害。「破滅・破壊」を意味するロシア語)を逃れたユダヤ人が社会主義とシオニズムを結合した形で始めた共同農場「キブツ」はその後ユダヤ人入植地に広がっていった。


 彼らが土地を手に入れると次に始まるのは既にいるアラブ人小作農の追い出しである。土地の権利はユダヤ移民のものであるからアラブ人は文句のつけようがない。アラブ農民は賃金労働者としてユダヤ人の下で働くか、それが嫌なら都市難民、さらには親類縁者を頼ってヨルダンなど周辺アラブ諸国に逃れるしかなかったであろう。パレスチナ経済難民の始まりである。


 ただパレスチナ難民の中でも多数を占める政治難民は第二次大戦後のイスラエル独立戦争(第一次中東戦争)で生まれた。イスラエル独立後の3年間に70万人近いユダヤ人が流入、それとほぼ同数のパレスチナアラブ人が政治難民となってヨルダンに雪崩れ込んだ。アラブ人がユダヤ人に押し出された格好である。ヨルダン川西岸のトゥルカルムの町で隣同士であった教師のシャティーラ家と医師のアル・ヤーシン家の2家族もそのような難民の一つであった。シャティーラ家は当時16歳の息子アミンを伴ってヨルダンに逃れている。


(続く)


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