2016年09月

2016年09月30日

(注)本レポートは「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0388MenaRank2.pdf

MENAなんでもランキング・シリーズ その2)

 

中東北アフリカ諸国は英語のMiddle East & North Africaの頭文字をとってMENAと呼ばれています。MENA各国をいろいろなデータで比較しようと言うのがこの「MENAなんでもランキング・シリーズ」です。「MENA」は日頃なじみの薄い言葉ですが、国ごとの比較を通してその実態を理解していただければ幸いです。なおMENAの対象国は文献によって多少異なりますが、本シリーズでは下記の19の国と1機関(パレスチナ)を取り扱います。(アルファベット順)

 

 アルジェリア、バハレーン、エジプト、イラン、イラク、イスラエル、ヨルダン、クウェイト、レバノン、リビア、モロッコ、オマーン、パレスチナ自治政府、カタール、サウジアラビア、シリア、チュニジア、 トルコ、UAE(アラブ首長国連邦)、イエメン、

 

 これら19カ国・1機関をおおまかに分類すると、宗教的にはイスラエル(ユダヤ教)を除き、他は全てイスラム国家でありOIC(イスラム諸国会議機構)加盟国です。なおその中でイラン、イラクはシーア派が政権政党ですが、その他の多くはスンニ派の政権国家です。また民族的にはイスラエル(ユダヤ人)、イラン(ペルシャ人)、トルコ(トルコ人)以外の国々はアラブ人の国家であり、それらの国々はアラブ連盟(Arab League)に加盟しています。つまりMENAはイスラム教スンニ派でアラブ民族の国家が多数を占める国家群と言えます。

 

 第2回のランキングは国連人口基金(UNFPA)発行の「世界人口白書2015」のデータによりMENA各国の人口・平均余命等について比較しました。

 

(参考)国連人口基金東京事務所ホームページ「世界人口白書」:

http://www.unfpa.or.jp/publications/index.php?eid=00037

 

(突出した人口大国:エジプト、イラン、トルコ!)

1. MENA各国の人口

(http://members3.jcom.home.ne.jp/areha_kazuya/2-T01.pdf参照)

(http://members3.jcom.home.ne.jp/areha_kazuya/2-G01.pdf参照)

 MENA諸国の中で最も人口が多いのはエジプトの9,150万人である。これに次ぐのがイランの7,910万人、トルコの7,870万人であり、MENAではこれら3カ国の人口が突出し、MENAの総人口5億人の半数を占めている。第4位はアルジェリアであり同国の人口は3,970万人である。この他人口が3千万人台の国はイラク(3,640万人)及びモロッコ(3,440万人)及びサウジアラビア(3,150万人)である。これら7カ国に続くのがイエメン(2,680万人)、シリア(1,850万人)、チュニジア(1,130万人)であり、以上10カ国が人口1千万人以上の国である。

 

 MENA第11位の国はUAEであり、同国の人口は920万人とされている。但しこれは外国人労働者を含んだ数値である。UAEは正確な外国人の人数を公表していないが、同国の人口の8割近くは外国人で占められ、その多くはインド、パキスタン、東南アジア諸国からの出稼ぎ労働者である。このことはクウェイト、カタールなど同じ湾岸産油国についても言えることである。

 

12位以下の国とその人口は次のとおりである。

イスラエル(810万人)、ヨルダン(760万人)、リビア(630万人)、レバノン(590万人)、パレスチナ自治政府(470万人)、オマーン(450万人)、クウェイト(390万人)、カタール(220万人)、バハレーン(140万人)。

 

カタールはUAEと同様外国人が人口の8割以上を占めており本来の自国民は40万人程度と言われ実質的にはMENAで最も人口が少ない国である。

 

(続く)

 

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2016年09月28日

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第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)

 

3.イラクのクウェイト進攻と湾岸戦争(西暦1990年、ヒジュラ暦1410年)

 ヒジュラ暦1400年、西暦1980年に始まったイラン・イラク戦争は、地上戦では一進一退の消耗戦の様相を呈し、またペルシャ(アラビア)湾では互いが相手の石油積出施設を空爆、さらにイランがペルシャ湾を航行する石油タンカーを攻撃し、ペルシャ湾の入口であるホルムズ海峡の封鎖をほのめかすなど事態はエスカレートしていった。しかしようやく1988年になって両国は国連の調停案を呑み停戦にこぎつけた。この時、イランのホメイニ師が停戦の受諾は「毒を呑むよりつらい」と語ったのは有名である。

 イラン・イラク戦争はイラクにも大きな犠牲を強いた。内政は崩壊の一歩手前であった。しかしフセインは一筋縄ではいかぬ独裁者である。彼は災いを逆手にとって権力保持に突っ走った。国内では強権的手法を一層強め、二人の息子を使って部下には忠誠を強要し、南部のシーア派、北部のクルド族それぞれの住民を弾圧した。フセインと彼の忠実な部下たちは国内では少数派のスンニ派である。彼らは権力を失うと過酷な報復が待っていることを自覚している。だから部下たちはフセインの命令に絶対服従を誓い、反政府勢力を弾圧した。絶対的独裁政権が意外と強固なのはそれなりの理由があると言えよう。

 

 対外的にもイラクはクウェイトやサウジアラビアに多額の負債を抱え財政破たんの状態であったが、フセインは両国からの借金返済要求も無視した。彼に言わせれば、今回の戦争はスンニ派を代表してシーア派のイランと戦ったのであり、イラクは兵力を供出し、スンニ派産油国が戦費を負担するのは当然である、ということになる。過去の歴史を見ても戦争に費やした金は常に戦勝国が敗戦国から搾り取るものであって同盟国が他の同盟国に戦費の返還を求めた例は無い。それが国際外交で通用しなくなったのは第二次世界大戦後、豊かで鷹揚な米国が敗戦国を搾取することを禁じたからである。そこには第一次世界大戦で戦勝国フランスが敗戦国ドイツを搾り取り、その結果がナチスの台頭を許し第二次世界大戦につながったという苦い経験もあった。フセインの言い分は無茶苦茶なものではあるが、それなりの理屈が無くはない。「盗人にも一分の理」とでも言うべきであろうか。

 

 停戦の翌年イランのホメイニ師が86才で波乱の生涯を終えた。イランはその後ますます国際的孤立を深める。フセインが次に狙ったのは南の隣国クウェイトであり、さらにアラブの覇者となるための絶対条件ともいうべきイスラエル打倒であった。彼はまず手始めにクウェイトを狙った。クウェイトは貸し付けた戦費の返済をしつこく迫っており(クウェイトにすれば当然の要求だったが)、また同時に当時のOPEC(石油輸出国機構)加盟国の中で安値販売の先頭を切っていた。戦災復興を急ぐためできるだけ高値で原油を販売したいイラクにとってクウェイトは目障りな存在であった。フセインは兵力をクウェイト国境に集結し圧力をかけた。

 

しかし当のクウェイトを始め国際社会はこれを単なる脅しとみなし、フセインがまさかクウェイトに進攻するなどとは考えていなかった。アラブ連盟の緊急会議が開かれたとき、弁明に立ったイラク外相は極めて穏やな話しぶりであったと言われる。アラブ諸国は話し合いで事態が解決すると信じた。さらに当時の米国大使もフセイン大統領と面談したが、大統領の物腰は極めて紳士的であったため、大使はイラクに戦争の意思なし、と本国に誤ったシグナルを送った。

 

状況を見誤ったのはフセイン大統領も同じであった。彼はイラクがクウェイトに進攻してもアラブや欧米諸国が強硬手段をとらないと踏んだ。こうして1990年8月未明、フセインは国境に配備した部隊にクウェイト進攻を命じた。寝耳に水で慌てふためいたのはクウェイトの支配者サバーハ家である。寝込みを襲われた首長を始めとする王家一族は命からがら国境の南サウジアラビアに逃げ込んだのであった。クウェイト国内では戦闘らしい戦闘もなく、わずか半日でイラク軍に制圧された。イラクのクウェイト占領は翌年1月の湾岸戦争まで約半年間続く。この間、日本人を含むクウェイト在住の外国人はイラクに拉致され「人間の盾」とされる災難に遭うのである。

 

イラクのクウェイト進攻が国際社会の誤算だったとするなら、その後国際社会が一致してクウェイト解放を唱えたことはフセインの思わぬ誤算だったと言えよう。フセインはクウェイトがもともとイラク南部バスラ州の一部であったと主張したが、戦後半世紀が経ち世界各地に生まれた国民国家を尊重する国際社会の中にあっては力ずくの領土併合は到底認められないことであった。11月には国連安保理で武力行使を容認する決議が採択された。米国を中心とする多国籍軍が編成され、アラブ諸国からはサウジアラビアなど湾岸君主制国家やイラクと同じバース党が支配するシリアも連合軍に加わった。イラン・イラク戦争では巧妙な戦略で全世界を味方に引き込んだイラクが、今度は全世界を敵に回したのである。

 

翌1991年1月多国籍軍はバクダッドを始めイラク軍の陣地を空からミサイル攻撃した。ミサイルが標的に向かう一部始終はテレビ中継され、世界中の人々はそれをまるでテレビゲームのような感覚で眺めていた。「湾岸戦争」の始まりである。2月には地上部隊がクウェイトそしてイラクに怒涛の如く進撃した。イラク軍は潰走、100時間後には多国籍軍は戦闘行動を停止し停戦を宣言した。

 

この時多国籍軍はイラクの首都バクダッドを目前にし、あと一押しでフセイン政権を倒すことができた。敬虔なキリスト教徒であり十字軍気取りのブッシュ()米国大統領は異教徒の独裁者フセインを葬り去ることを強く願ったはずである。しかし国連決議はあくまでクウェイトの解放であってイラクのフセイン体制打倒を認めたものではなかった。イラクのことはイラク国民に任せるという内政不干渉の鉄則が戦闘を停止させた。付言するなら父ブッシュ大統領の悲願は10数年後に息子のブッシュ大統領が「イラク戦争」という形で実現したのであった。

 

フセインはよくよく運の強い男である。彼は湾岸戦争を生き延びてさらに10年以上イラクで独裁者として君臨することになる。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

       荒葉一也

       E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

       携帯; 090-9157-3642

 



drecom_ocin_japan at 10:18コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年 

2016年09月23日

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