2016年09月

2016年09月21日

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第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)

 

2.ヒジュラ暦1400年(西暦1980年)前後

 西暦622年7月16日に始まったヒジュラ暦は西暦1979年11月21日にヒジュラ1400年1月(ムハッラム月)1日を迎えた。ヒジュラ暦14世紀最後の年である。ヒジュラの14世紀は西暦1883年に始まっている。前回説明した通りヒジュラ暦の1年は西暦より111日前後短いから1世紀の長さも西暦に比べ4年ほど短いことになる。

 

 19世紀以前キリスト信仰が篤かった西欧諸国では1世紀の終焉に対する畏怖心、恐怖心が様々な迷信を呼び起こしたが、20世紀近代科学の時代になるとさすがにそのようなことは無くなり、西暦1999年から2000年に暦が変わる時にコンピューターの「2000年問題」が騒がれた程度である。

 

 ムスリムもヒジュラ暦1400年についてとやかく騒いだ訳ではない。そもそも彼らはラマダンやハジ(大巡礼)のような月々の行事には敏感であったが、年の移り変わりには余り頓着しない。従ってヒジュラ暦1400年(西暦1980年)をヒジュラの14世紀から15世紀に移る年としてことさら強調するのは避けるべきかもしれない。しかしこの年の前後に中東イスラーム諸国で相次いで大きな出来事が発生したことは歴史的な事実である。

 

 例えばヒジュラ1399年(西暦1978年)にはエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が米国大統領の仲介で歴史的なキャンプデービッド会談を行い、二人はその年のノーベル平和賞を受賞、翌年両国の平和条約が締結された。しかしこれは他のアラブ諸国の反発を招き、エジプトはアラブ連盟から除名される。エジプトは和平の見返りとしてアラブ・イスラムの盟主の座を追われたのである。

 

翌1979年(ヒジュラ暦1400年、以下わかりやすいため西暦で表す)1月にイラン革命が発生、7月にはイラクのサダム・フセインが大統領に就任、エジプトに代わるアラブ盟主の座を狙う。8月にはサウジアラビアでマッカ神殿占拠事件が発生、サウド家を震撼させた。そして翌1980年(ヒジュラ暦1401年、すなわちヒジュラ15世紀の最初の年)には9月にイラン・イラク戦争が発生、イランのホメイニ師がイスラームという宗教の盟主を目指し、他方イラクのサダム・フセインはエジプトに代わるアラブ民族の盟主を目指して宗教と民族が地域の覇権を競う。

 

この時、サダム・フセインはこの戦争をイスラームのシーア派とスンニ派の争いと規定し同じスンニ派のサウジアラビアなど湾岸産油国から軍資金を引き出した。しかしサダム・フセインのイラクもサウド家のサウジアラビアなど湾岸の君主制国家も実態は世俗国家そのものである。イラン・イラク紛争は宗派間の争いではなかった。緒戦で苦戦したイランで国民の志願兵が雲霞のごとく戦場に繰り出したのは宗教的使命感に駆られたイラン国民がアラブ人の世俗国家に戦いを挑んだ「聖戦(ジハード)」と見るのが正しい。

 

サダム・フセインはスンニ派ではあるがイラク南部には多数のシーア派住民が住んでおり、イラク全体でみてもシーア派の方が多い。サウジアラビア、クウェイト、バハレーンのスンニ派君主制国家も国内に多数のシーア派を抱えており、バハレーンは人口の大半がシーア派である。イランのホメイニ師がこれらシーア派住民に蜂起を呼びかけたことで各国は危機感を募らせた。湾岸6か国が1981年(ヒジュラ暦1402年)にGCC(湾岸協力機構)を結成したのはとりもなおさずシーア派住民が蜂起して君主体制を打倒するのではないかという恐怖心に駆られたからに他ならない。フセインはイラン・イラク戦争に宗派対立の構図を持ち込んで湾岸産油国を戦争に巻き込んだ。GCC諸国はフセインの術策に陥ったとも言えるのである。

 

イラン・イラク戦争勃発と同じ年の12月にはソ連がアフガニスタンに侵攻しアフガン戦争が勃発している。1980年代、すなわちヒジュラ14世紀の最後の10年間はこれら二つの戦争が続いた時代であった。

 

このようにヒジュラ暦という尺度で歴史的事件を並べてみると、ヒジュラ暦1400年前後は中東イスラーム世界の大きな地殻変動、パラダイムシフトの時代であったと言えよう。その原動力はイスラームという宗教である。ヒジュラ15世紀の最初の10年の間(西暦1980~1989年)にムスリムたちはイスラームの教えに反する敵対勢力、背教者たちとの闘いを開始した。最初の敵が無神論の共産主義者アフガニスタン中央政府との闘いであった。その後現在に至るヒジュラ15世紀前半は、ムスリムの戦いはスンニ派対シーア派というイスラーム二大勢力の対立からイスラーム穏健勢力と原理主義が対立する構図となり、さらに今日ではイスラム国(IS)と呼ばれるカリフ制の仮想国家が既存の世俗国家に戦いを挑んでいる。

 

日本の一向一揆のように宗教の鎧をまとった運動は始まったが最後どんどん過激化して行くものである。現代のイスラム運動もその様相を色濃く帯びている。この運動は過激の極に達し、大衆の支持を失ったときに自滅して終焉する。仏教思想では「盛者必滅」ということになる。ただ争いがいつ終焉するかはわからない。まさに「神(アッラー)のみぞ知る」である。

 

(続く)

 

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       荒葉一也

       E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

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2016年09月19日

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2016年09月14日

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第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)

1.西暦に侵食されるヒジュラ暦
 イスラームの世界ではイスラームの暦(ヒジュラ暦)が今も生活の隅々に浸透し、市民の生活の歯車となっている。ヒジュラは預言者ムハンマドが、マッカからマディナに移住したことを意味しており日本語では「聖遷」と訳されている。この聖遷があった年がヒジュラ暦の始まりであり、西暦622年7月16日がヒジュラ元年1月1日である。

 ヒジュラ暦は新月から次の新月までの29日または30日を1か月とし、12か月を1年間とする純粋の太陰暦である。これに対して世界で使われているグレゴリオ暦(西暦)は太陽の動きをもとに、1年間を365日或いは366日とし、それを12で割った数値を1か月としている。したがってヒジュラ暦は西暦に比べ1年間の日数が10日ないし12日短い。

 日本でもかつては月の満ち欠けによる太陰暦が使われていたが(旧暦)、季節のずれを調整するために閏月(うるうづき)が設けられていた。しかしヒジュラ暦ではそのような操作は行われないため毎年季節が少しずつずれていくことになる。その結果断食月として知られるヒジュラ暦第9番目のラマダーン、或いはヒジュラ暦最後の12番目の月の恒例のマッカ大巡礼(ハッジ)が真夏になることもあれば真冬になることもある。ヒジュラ暦では30数年単位で季節が巡ることになる。西暦622年がヒジュラ元年であったが、今年(2016年)10月にヒジュラ暦は1438年を迎える。西暦622年から2016年までは1394年間であるが、ヒジュラ暦では1438年間であり暦の上では44年も先に進んでいることになる。

 イスラーム諸国と昔の日本が同じ太陰暦を使用しながら日本では閏月を設けて季節のずれを調整したのに対してヒジュラ暦では今も調整されない理由を考えると興味深い。そもそも毎日の月の満ち欠けを暦のベースにすることは、太陽が1年をかけて高低を繰り返し、日の出と日没がほんの少しずつ早くなったり遅くなったりする現象に比べて目に見えてわかりやすい。そしてもう一つイスラーム発祥の中東には月と太陽に対する特有の感覚の違いがあることが指摘できよう。日本のような温帯性気候の国では太陽は恵みであると考える。しかし灼熱の乾燥した砂漠が多い中東では太陽は時に死を意味する。それに対して穏やかな月夜は憩いの時である。アラブの人々は太陽よりも月を愛する。

 そして日本で季節のずれを調整するために旧暦に閏月を設けたのに対して中東イスラーム諸国があえて季節のずれを容認した理由は、前者が農耕社会であり、後者が牧畜社会だったからだと考えられる。農耕社会では種蒔きから収穫まで季節とともに移ろいゆく。太陽の動きと合わせなければならない。牧畜社会でも山野に牧草が生える季節、そして動物の繁殖期など季節と切り離すことはできないが、人手を加えなくても草は生え、家畜は子供を生む。だから牧畜民族は農耕民族ほど季節に敏感である必要はないのである。

 太陰暦にも暦に合わせたいろいろな行事がある。日本でいえば八十八夜、二百十日など数多くあるが、いずれも季節に合わせた行事であり、自然現象と密接に関連している。しかしヒジュラ暦の代表的な行事であるラマダン(断食)やハジ(マッカ大巡礼)はいずれも自然とは無関係な人間の行為であり、季節を問わない。

 季節とは無関係な経済活動について考えてみよう。経済活動は給料、支払決済など月単位のものが多い。しかしこの場合、一月の長さは太陽暦のそれと同じである必要はない。イスラーム世界の商人同士の間では一か月は新月から新月まで(或いは満月から満月まで)と決めれば良い話である。彼らはそれで不便は感じなかったはずである。

 こうして中東のイスラーム社会は1400年にわたり伝統の生活様式を守ってきた。しかしヒジュラ暦15世紀、すなわち西暦1980年前後からグローバリゼーションの波に巻き込まれ、年月の尺度を西暦に合わさざるを得なくなった。世界の国々を相手に取引を行うためには西欧諸国のデファクトスタンダード(事実上の世界標準)としての西暦制度に合わせることが必要不可欠となったのである。

 その最初の分野が金融の世界であろう。そこでは西暦の年度、月次、日次が取引の基準となる。そして取引日も月曜日から金曜日までである。これに対して中東イスラーム世界では木曜日と金曜日が休みであり、取引日は土曜日から水曜日までである。両者が重複するのは、月曜、火曜、水曜の3日間だけとなり極めて効率が悪い。西欧諸国が日曜日を安息日とするように、イスラーム諸国の安息日は金曜日であり、イスラーム諸国もこれだけは絶対譲れない。結局イスラーム側が歩み寄る形で、現在では中東イスラーム諸国は週休2日制を金曜と土曜に変更している。

 表面的には制度の変更でしかないが、ムスリム(イスラーム教徒)の心のリズムは狂い始めた。生活を律するヒジュラ暦とグローバリゼーションのため已む無く西暦に従わざるを得なくなった心の葛藤が穏健な一般市民の深層心理の中に生まれたのである。
 
 (続く)

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