2006年06月21日

(ニュース解説)「GCCに地殻変動の兆し-カタールとバーレーンが広範な協力協定締結」(5回連載)

これまでの内容
(第1回)カタール・バーレーン間の海上橋建設―両国新時代の幕開け


第2回 抗争から和解へ―カタールとバーレーンの歴史

19世紀半ばまでカタールはバーレーンのハリーファ家の支配下にあり、それに対して土着部族のサーニー家(現カタール首長家)がしばしば叛乱を起こすという状況であった。1867年にバーレーン・アブダビ連合軍とサーニー家の間で大規模な戦闘があったが、この時、英国が仲裁に入りカタールにおけるサーニー家の地位が認められたのである。このような歴史的背景があるため両国はその後もしばしば紛争を繰り返している。

このような部族間の紛争は、カタール、バーレーンの両国に限らず当時のアラビア半島沿岸では珍しいことではなかったが、彼らは同時にオスマントルコの脅威にも晒されていた。そのため彼らは部族間の紛争の調停及びオスマントルコからの保護を英国に求めた。バーレーンは1861年に英国の保護下に入り、またカタールのサーニー家も1916年に英国の保護を受けるようになったのである。因みにアブダビ、ドバイなど現在のUAEを構成する首長国も、1892年に外交権を委ねる排他的な条約を英国と結び、「トルーシアル・コースト(休戦土侯国)」と呼ばれるようになったのである。

第二次大戦後、ペルシャ湾からの撤退を決めた英国は、バーレーン、カタール、アブダビ、ドバイなどの八つの沿岸首長国に連邦結成を促した。このときカタールは北のバーレーン及び南のアブダビの両国と領土紛争を抱えていたため当初から単独独立を目指した。バーレーンは連邦に参加する意向であったが、当時地域の先進国であった同国は旧態依然としたアブダビなどと意見が合わず連邦参加を見送り、結局アブダビ、ドバイなど六つの首長国がアラブ首長国連邦(UAE)を結成したのである。

一方、20世紀前半に周辺一帯で石油が発見されると、石油の埋蔵が期待されるバーレーン、カタール両国間の海上にあるハワール諸島の領有権をめぐって紛争が再燃した。イラン革命とその後のイラン・イラク戦争に危機感を抱いた湾岸諸国は1981年に「湾岸協力機構(GCC)」を結成し、対外的には一枚岩の姿勢をとったが、バーレーン・カタール紛争のような二国間の小競り合いが止むことはなかった。そしてカタールは1991年ついにハワール諸島の主権問題をハーグの国際司法裁判所に提訴したのである。

外交ルートを通じて問題解決を図ろうとした矢先の1995年、カタールでカリーファ首長(当時)のスイス滞在中に息子のハマド皇太子による宮廷クーデタ事件が発生した。カリーファはバーレーンのイーサ首長(当時)のもとに身を寄せて復権の機会狙ったが、この時カリーファは、自分が復権できれば領土問題はバーレーンに有利に取り計らう、とイーサ首長に持ちかけた。このため両国の関係は一層険悪化したのである。

しかしその後ハマドの新首長としての地位が固まり、またバーレーンでは1999年にイーサ首長が亡くなって若いハマド新首長が即位したことにより両国の関係は急速に改善した。そして両国は2001年に領土問題の解決に合意し、これを契機にトップレベルの定期協議機関 ’The Joint Higher Committee for mutual Co-operation between Qatar and Bahrain’(カタール・バーレーン相互協力合同高級会議、以下「合同会議」)を設置したのである。こうして合同会議は毎年開催され、今回のバーレーンでの第6回会議に至っている。

第6回合同会議の両国代表はカタールのタミム皇太子、バーレーンのサルマン皇太子といずれも皇太子であった。しかもタミーム皇太子は1980年生まれの26歳、サルマン皇太子は1969年生まれの37歳といずれも若い王子である。合同会議の代表が首長自身ではなく若い皇太子であったのは、偶々首長が同時期に行われたタイ国王の即位60周年記念式典に出席したためとの見方もあるが、昨年の第5回合同会議でも両国皇太子が共同議長をつとめていることから推測すると(注1)、両国の首長は内外特に国内向けにそれぞれの後継者をアピールするため皇太子を押し立てた、と見る方が妥当であろう。勿論カタール首長もバーレーン首長も各々54歳、56歳の働き盛りで健康にも特に問題は無いので皇太子が跡を継ぐのはまだ当分先のことであろう。それでも皇太子をことさら外交の表舞台に出そうとしているのは、やはりそれぞれの国民に後継者を強く印象付けようとする意図があるものと思われる。

それはカタールのサーニー家及びバーレーンのカリーファ家それぞれが歴史的或いは社会的な問題を抱えているからである。即ちカタールでは現首長自身が実父の前首長を追放した例を持ち出すまでも無く、それまでも宮廷クーデタの連続であったという歴史的問題があり(注2)、一方のバーレーンは、国民の多数派がイラン系のシーア派であり、それを少数派のカリーファ家が支配するという逆転構造のため騒乱が絶えないという社会的な問題を抱えているのである(注3)。このため、皇太子の後継者としての正統性を国民に印象付けたいという意識が強いと考えられる。また、両国の対立は先代のカリーファ首長及びイーサ首長以前の問題であり、現在の皇太子は共に相手国に対して敵意や悪感情は持っていないであろう。むしろGCC或いは湾岸のパワー・バランスのもとで小国が生き延びるためには互いの結束が必要であると若い両国の皇太子が考えていると理解する方が自然であろう。

次回は人口、国土面積ともに地域の小国と言う共通点を持つ両国が、外交面でも類似した立場に立っており、また経済面においては相互補完的な関係にあることを解説する予定である。

(今後の予定)
第3回 似た者同士のカタールとバーレーン
第4回 Win-winのカタール・バーレーン関係
第5回 両国の狙いと今後の予測―GCCに先駆けて二国間で経済統合か?


注1 2005/5/28 Gulf Daily News ‘Solid Links’
注2 MENA Informant「カタール・サーニー家の構図」参照
注3 MENA Informant「バハレーン・カリーファ家の構図」参照

以上


at 09:44GCC  
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