2006年08月28日

(バハレーン特集)バハレーンとハリーファ王家:諸刃の剣の国内民主化と対米追随外交(第7回)

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
(第6回) 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)


(第7回) 経済の課題(対米FTAのつまづきとGCC回帰)
 バハレーンはGCC6ヶ国の中で最も古い歴史を持っており、古代バビロニア、アッシリア時代にはディルムーンと呼ばれる貿易中継地として、また中世には天然真珠の産地として栄えた。しかし1869年のスエズ運河の開通によりヨーロッパとアジアの通商ルートは紅海に移り、アラビア湾の海運は衰退した。また真珠採りも日本の養殖真珠により壊滅的打撃を受け、バハレーンの経済は傾いた。

 20世紀半ばの石油開発ブームによりクウェイトに次いでバハレーンでも石油が発見されたが、すぐに対岸のサウジアラビアでガワール油田など巨大油田の生産が始まり、バハレーンの石油ブームは短期間で終息した。

バハレーン経済が息を吹き返したのは1970年代の二度のオイルショック及びレバノン内戦であった。湾岸産油国では豊かなオイル・マネーによる道路・港湾・空港などインフラ整備のための巨大プロジェクトが目白押しとなり、それでも使い切れない余剰マネーの運用を目指して欧米先進国の金融機関が群がった。その頃、中東の金融の中心であったレバノンのベイルートが内戦で破壊され、金融機関はその拠点をバハレーンに移した。これにより同国は金融を中心に活況を呈した。

しかし湾岸各国のインフラ整備が一段落し、また金融の世界的なオン・ライン化によりバハレーンのオフショア金融センターとしての重要性が低下したことにより、この活況も終わりを告げた。さらにドバイが近代的な港湾・空港及び巨大なフリー・トレード・ゾーン(自由貿易地域)を建設して、中継貿易の地位をバハレーンから奪った。

このようにバハレーン経済は激しい浮沈を繰り返し、現在は低迷状態を続けているのである。例えばGDPを見ると1989年にはバハレーンはGCC全体の2.7%を占めていたが(GOIC資料による)、2005年には2.2%となり、GCCの中でバハレーンの地位が低下していることがわかる。

バハレーンは長期に低迷している経済を回復するために様々な手を打ってきた。1995年にはクウェイトと共にGCCでは最も早くWTOに加盟したが、これはサウジアラビアより10年早かったのである。そしてバハレーンは2004年にGCCで最初に米国とFTA(自由貿易協定)を締結した。

 米国とのFTA締結は、GCCの中で自国の立場を強化したいとするバハレーンの思惑と、一方では湾岸君主制国家の民主化を促そうとする米国の思惑が一致したからである。米国にとってバハレーンは湾岸での民主化(それがたとえ君主制のもとでの限定的な民主化、即ち「コスメティック・デモクラシー」であったとしてもである)を実現するショーウィンドウであると考えられる。そして米国の真意はUAE、カタルが持つ豊富な石油及び天然ガスであり、さらに究極的な目標として世界最大の石油埋蔵量を持つサウジアラビアを米国主導の経済体制に組み込むことであろう。その意味でバハレーンとのFTA締結は、これら産油・ガス国を取り込むための足がかりでしかないと思われる。そうでなければ米国が、年間貿易額わずか7.8億ドル(2005年)に過ぎないバハレーンとFTAを締結する理由が理解できないからである。

バハレーンとしては米国の思惑が何であれ、FTA締結はGCC内での自国の立場を強化するものであり、国内はFTA締結を歓迎し、景気浮揚に対する期待が高まった。このバハレーンの期待ムードに水を差したのがGCCの盟主を任じるサウジアラビアであった。

既に書いたとおりGCCはそもそも湾岸の弱小君主制国家がイラン、イラクの脅威から体制を守るための政治・軍事同盟であった。しかし1990年のイラクによるクウェイト侵攻及び翌年の湾岸戦争によるクウェイト解放において、GCCは政治・軍事同盟として殆ど無力であることを曝け出した。それ以降、GCCはその性格を経済同盟に変えつつある。6カ国は話し合いを重ねた結果、2003年に関税を統一、2010年には通貨統合を目指している。

そのようなブロック経済体制の中に米国との二国間FTAを持ち込むことは加盟国間の利益相反となる恐れが強い。GCCが経済同盟に変貌してもなお盟主の座を確保しようとするサウジアラビアにとって、バハレーンの抜け駆け的行動はGCCの団結を乱すものと映った。しかしバハレーンはサウジアラビアの反対を無視して米国とのFTAを推進した。そのため2003年末にバハレーンでGCCサミットが開催された際、サウジアラビアのアブダッラー皇太子(当時、ファハド国王が病気のため実質的なトップとして毎年サミットに参加)は自らは欠席してバハレーンに対する不快の念を表し、代理出席したサウド外相は会議でバハレーンと激しくやりあったのである。

ただ会議に出席したUAEなど他のGCC首脳がサウジアラビアを支持することはなかった。世界の趨勢は多国間のWTOから二国間のFTAの枠組みへと変わりつつあり、しかもUAE,カタル、オマーンなどは米国とFTA交渉を始めていたからである。これらの国々は、経済同盟としてのGCCにも限界を見ていたのである。即ちGCCは総人口が2,500万人程度(しかもそのうち約4割が出稼ぎ外国人)であり、しかも産業構造は石油モノカルチャーである。加盟国相互間の経済的な補完関係も無く、経済同盟として存立する必然性が乏しいのである。実際GCCの関税統一は未だ完成しているとは言えず、2010年の通貨統合に至っては、西欧の専門家から疑問符を投げかけられる有様である。バハレーンはサウジアラビアに対して強気の姿勢を崩さず、2004年にはついに米国とFTAを締結した。

しかし2003年の9.11同時多発テロを契機に米国の態度が急変し、他のアラブ諸国と同様GCC各国に対しても厳しい姿勢を示すようになった。そのことは逆に各国の一般国民の中に強い反米感情を生み出し、為政者としては米国寄りの姿勢を強調することがはばかられるようになった。そのためバハレーンのハマド国王もFTAで自国の地位を強化しようとする戦略は変更せざるを得なくなったのである。

まして2004年以降石油価格が急騰し、GCC各国にはオイル・マネーがあふれ出した。石油で外貨を稼ぐことのできないバハレーンにとっては、金融或いは観光立国を目指してGCCの産油・ガス国のオイル・マネーを吸収することが必要であった。こうしてバハレーンはGCC回帰を模索し始めた。サウジアラビアへの従属を嫌うバハレーンが足場を固めるために選んだ相手は、GCCの中で国土面積、人口が共に小さいが、天然ガスの輸出で一人当たりGDPが今や6か国中で最も大きくなったカタルである。かつてはカタルを支配下に置いたこともあるバハレーンが、長期低迷する自国経済の建て直しのためカタルの経済力を頼りにしているのである。

(第7回 完)


(今後の予定)
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 11:43Bahrain  
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