2007年01月09日
(もう一つの視点)闇に消えるグアンタナモの虜囚たち(第3回)
アル・カイダがアフガン義勇軍から国際テロ組織に変貌するまで
米国に捕捉されキューバに送られた「グアンタナモの虜囚」は、サウジアラビア出身のオサマ・ビン・ラディンが組織したアル・カイダの兵士たちである。そのアル・カイダは、1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するため世界各地から集まった20万人とも言われる イスラム義勇兵組織の一つであった。

そもそもなぜソ連はアフガニスタンに侵攻したのであろうか。同年1月に隣国イランではホメイニ師がレザー・シャー国王を倒してシーア派イスラム政権を樹立した。いわゆる「イラン革命」である。ホメイニはイスラム信仰にもとづく共和制革命を唱え世界中のイスラム教徒たちを扇動したのである。彼の目にはサウジアラビアなどの湾岸君主制国家や欧米のキリスト教国家よりも無神論を説く共産主義国家が最大の悪に映ったはずである。
当時のソ連は社会制度に綻びが目立ちイスラム教徒が多数を占める中央アジアの自治共和国に不穏な空気が漂い始めていた。アフガニスタン侵攻は、ホメイニのイスラム革命思想がアフガニスタンからさらに中央アジアに飛び火することを恐れたソ連が、先手を打ったものと考えられる。
ソ連のアフガニスタン侵攻のわずか1ヶ月前、テヘランでは米国大使館がホメイニを支持する学生たちによって占拠され、それまでのシャーの時代の米国とイランの蜜月関係は180度暗転した。米国政府はこれ以降今日に至るまで徹底的なイラン敵視政策を取ることになる訳である。
しかし当時の米国にとっては社会主義国家ソ連が最大の敵であった。米国はソ連の体制が内部崩壊しつつある中で、アフガニスタン紛争こそ東西対立に決着をつける絶好の機会ととらえた。そのため、米国はイスラム勢力と協力する道を選んだのである。両者の役割を単純に図式化するなら、イスラム側では各国がアフガニスタンに義勇兵を派遣し、必要な資金はサウジアラビアなど豊かなイスラム産油国が拠出、パキスタンが反政府ゲリラの出撃基地を提供する役割を果たした。一方の米国は武器・弾薬、或いは偵察衛星やハイテク通信設備を駆使して得た情報をゲリラ側に提供する後方支援の役割を担ったのである。
米国とイスラム・ゲリラの協力は所詮呉越同舟、同床異夢ではあったが、両者の提携作戦はズバリ的中した。ソ連はアフガニスタン戦争の泥沼に足を取られ、結局1989年に撤退、そしてわずか2年後の1991年にソ連は遂に崩壊したのである。こうして米国が世界に覇権を唱える「パックス・アメリカーナ」の時代が到来した。
しかし米国はこの過程で二つの大きな間違いを犯した。その一つはイラン・ホメイニ体制の転覆に固執するあまり、老獪なイラクのサダム・フセイン大統領(当時)が仕掛けたイラン・イラク戦争でイラク側に肩入れする羽目に陥ったことであり、もう一つの間違いは、ソ連撤退後のアフガニスタンを放置したことによりイスラム過激派のアル・カイダを国際的なテロ組織へと変貌させたことである。
歴史が示す通り、前者は1990年のイラクのクウェイト侵攻を招き、その後も10年以上にわたりフセイン政権を生き延びさせる結果となり、イラク戦争後も未だに米国は足を抜けないでいる。そして後者のアル・カイダ問題は、言うまでもなく9.11テロ事件へと結びついたのである。勿論ここで指摘した米国の二つの間違いは、歴史の結果をもとにしたものであって、「後付けの理屈」でしかない。ソ連崩壊による米国一強時代となったことで、中東にも「パックス・アメリカーナ」による平和な時代が訪れる、と世界中の人々が期待したはずである。
同じようにアル・カイダの若き兵士たちも自分たちの働きが地域に平和をもたらすと確信していたはずである。しかし彼らの一部はいつのまにかイスラム過激思想に洗脳され、反米・反西欧のテロ要員に仕立て上げられていった。それでも大多数のアル・カイダ兵士は、多分今も純粋で純朴なイスラム教徒であろうことは間違いない。問題はアフガニスタンと言う隔離された環境の中で、「聖戦(ジハード)」を続けること、即ちイスラム思想を世界に広めることのみが彼らの新たな目標になったことなのであろう。それは宗教と政治を分離し、国家単位で平和共存しようとする現代の政治思想とは相容れないものである。彼らの思想は危険思想とみなされ、アル・カイダ は危険な国際テロ集団の烙印を押された。こうして彼らは米国はもとより祖国からも見捨てられたのである。
グアンタナモ収容所で彼らがどのような気持ちで過ごしてきたのか、或いは今も過ごしているのか、彼らの心の闇は局外者でしかない日本人の筆者には推し量りようもないのである。
(続く)
これまでの内容:
(第2回)彼らは何故グアンタナモ収容所に送られたのか?
(第1回) プロローグ:フセイン元大統領死刑とのコントラスト
米国に捕捉されキューバに送られた「グアンタナモの虜囚」は、サウジアラビア出身のオサマ・ビン・ラディンが組織したアル・カイダの兵士たちである。そのアル・カイダは、1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するため世界各地から集まった20万人とも言われる イスラム義勇兵組織の一つであった。

そもそもなぜソ連はアフガニスタンに侵攻したのであろうか。同年1月に隣国イランではホメイニ師がレザー・シャー国王を倒してシーア派イスラム政権を樹立した。いわゆる「イラン革命」である。ホメイニはイスラム信仰にもとづく共和制革命を唱え世界中のイスラム教徒たちを扇動したのである。彼の目にはサウジアラビアなどの湾岸君主制国家や欧米のキリスト教国家よりも無神論を説く共産主義国家が最大の悪に映ったはずである。
当時のソ連は社会制度に綻びが目立ちイスラム教徒が多数を占める中央アジアの自治共和国に不穏な空気が漂い始めていた。アフガニスタン侵攻は、ホメイニのイスラム革命思想がアフガニスタンからさらに中央アジアに飛び火することを恐れたソ連が、先手を打ったものと考えられる。
ソ連のアフガニスタン侵攻のわずか1ヶ月前、テヘランでは米国大使館がホメイニを支持する学生たちによって占拠され、それまでのシャーの時代の米国とイランの蜜月関係は180度暗転した。米国政府はこれ以降今日に至るまで徹底的なイラン敵視政策を取ることになる訳である。
しかし当時の米国にとっては社会主義国家ソ連が最大の敵であった。米国はソ連の体制が内部崩壊しつつある中で、アフガニスタン紛争こそ東西対立に決着をつける絶好の機会ととらえた。そのため、米国はイスラム勢力と協力する道を選んだのである。両者の役割を単純に図式化するなら、イスラム側では各国がアフガニスタンに義勇兵を派遣し、必要な資金はサウジアラビアなど豊かなイスラム産油国が拠出、パキスタンが反政府ゲリラの出撃基地を提供する役割を果たした。一方の米国は武器・弾薬、或いは偵察衛星やハイテク通信設備を駆使して得た情報をゲリラ側に提供する後方支援の役割を担ったのである。
米国とイスラム・ゲリラの協力は所詮呉越同舟、同床異夢ではあったが、両者の提携作戦はズバリ的中した。ソ連はアフガニスタン戦争の泥沼に足を取られ、結局1989年に撤退、そしてわずか2年後の1991年にソ連は遂に崩壊したのである。こうして米国が世界に覇権を唱える「パックス・アメリカーナ」の時代が到来した。
しかし米国はこの過程で二つの大きな間違いを犯した。その一つはイラン・ホメイニ体制の転覆に固執するあまり、老獪なイラクのサダム・フセイン大統領(当時)が仕掛けたイラン・イラク戦争でイラク側に肩入れする羽目に陥ったことであり、もう一つの間違いは、ソ連撤退後のアフガニスタンを放置したことによりイスラム過激派のアル・カイダを国際的なテロ組織へと変貌させたことである。
歴史が示す通り、前者は1990年のイラクのクウェイト侵攻を招き、その後も10年以上にわたりフセイン政権を生き延びさせる結果となり、イラク戦争後も未だに米国は足を抜けないでいる。そして後者のアル・カイダ問題は、言うまでもなく9.11テロ事件へと結びついたのである。勿論ここで指摘した米国の二つの間違いは、歴史の結果をもとにしたものであって、「後付けの理屈」でしかない。ソ連崩壊による米国一強時代となったことで、中東にも「パックス・アメリカーナ」による平和な時代が訪れる、と世界中の人々が期待したはずである。
同じようにアル・カイダの若き兵士たちも自分たちの働きが地域に平和をもたらすと確信していたはずである。しかし彼らの一部はいつのまにかイスラム過激思想に洗脳され、反米・反西欧のテロ要員に仕立て上げられていった。それでも大多数のアル・カイダ兵士は、多分今も純粋で純朴なイスラム教徒であろうことは間違いない。問題はアフガニスタンと言う隔離された環境の中で、「聖戦(ジハード)」を続けること、即ちイスラム思想を世界に広めることのみが彼らの新たな目標になったことなのであろう。それは宗教と政治を分離し、国家単位で平和共存しようとする現代の政治思想とは相容れないものである。彼らの思想は危険思想とみなされ、アル・カイダ は危険な国際テロ集団の烙印を押された。こうして彼らは米国はもとより祖国からも見捨てられたのである。
グアンタナモ収容所で彼らがどのような気持ちで過ごしてきたのか、或いは今も過ごしているのか、彼らの心の闇は局外者でしかない日本人の筆者には推し量りようもないのである。
(続く)
これまでの内容:
(第2回)彼らは何故グアンタナモ収容所に送られたのか?
(第1回) プロローグ:フセイン元大統領死刑とのコントラスト