2007年01月28日

(もう一つの視点)闇に消えるグアンタナモの虜囚たち(第7回)

騒がしくなった収容所の内外(1) 塀の中では虐待と自殺が頻発

 グアンタナモ収容所における虐待の実態を暴露した映画「グアンタナモ、僕たちが見た真実」が日本でも公開された。これは2年半にわたり拘束され、結局無実として釈放されたパキスタン系英国人青年3人の体験をもとに、マイケル・ウインターボトム監督が制作した映画であり、ベルリン映画祭では銀熊賞(監督賞)を獲得した。

 彼ら3人は2001年10月、結婚式のために訪れたパキスタンでアフガン戦争に遭遇、ボランティアのつもりでアフガニスタンに入国し、戦火の中で偶々米軍に捕まったようである。そしてグアンタナモに送られ、拷問のような尋問に耐えて2年半後に釈放されたのである。

 大半の虜囚が裁判もないまま未だに5年以上も拘束された状態であることに比べ、彼らは2年半と言う比較的短い期間で釈放されたのは、パキスタン系とは言え英国籍であることが大きな理由であろうことは間違いない。

 虜囚に対する尋問ではかなり手荒い虐待が日常的に行われたようであるが、事件として最も注目を集めたのは2005年5月にニューズウィーク誌が報じた「コーラン冒涜事件」であろう。収容所の米軍看守が、虜囚の最も神聖視する聖典コーランを破り捨ててトイレに流した、との報道は、世界中のイスラーム教徒たちを強く刺激した。アフガニスタンではデモで16人が死亡、100人以上が負傷する惨事を引き起こし国際的な問題になった。結局ニューズウイークが誤報であると陳謝して騒ぎが収まった が、これによって世間から忘れかけられていたグアンタナモの虜囚問題が一時的にせよ脚光を浴びたのである。

 比較的豊かなサウジアラビアなど湾岸諸国の虜囚の家族は弁護士を雇い、接見を許された弁護士を通じて息子達の安否と収容所内の様子を知ることができた。ただ家族の多くは虜囚である息子に累が及ぶのを恐れてか、或いは政府から口止めされたのか、グアンタナモの様子を外部に公表することはなかった。そのような中でバハレーンのメディアだけが、自国民の虜囚の声を生々しく伝えている。同国は米国の中東民主化政策の最も忠実な追随者であり、それが米国の暗部を明らかにすると言う皮肉な結果をもたらしていると言えよう。

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 同国のGulf Daily Newsによれば、虜囚ジュマは「収容所では殆ど独房に入れられ、肉親や弁護士からの手紙を読むのは1日2時間だけ。独房はエアコンが効きすぎ冷蔵庫の中にいるようであるが、毛布1枚とマットレス、そしてコーランしか支給されない。独房の外の電灯が消され時計が見えないため、お祈りの時間すら看守に聞いて始めて分かるほどだ。」と述べている 。彼は2001年12月にパキスタンで捕らえられ、既に5年間も留置されている。米軍が彼に毛布とマットレスとコーランしか与えないのは、彼が自殺するのを防ぐためである。実際彼はこれまでに13度も自殺を図っている。

 裁判も無いまま長引く拘禁生活は彼ら虜囚を心理的に追い詰め、ジュマのように自殺を図るものが続出し、21人の虜囚による計41回の自殺未遂事件が発生したと報じられている。そして遂に2006年6月、サウジ人2名とイエメン人1名が自ら命を絶ち、彼らの遺体が無言の帰国をするという悲劇が生まれた 。

5年経た今も拘束されているジュマは「帰国か、さもなくば死を」と悲痛な叫びを上げている 。グアンタナモにはジュマと同じ境遇の虜囚が未だ460人残されており、次なる自殺者が何時出てもおかしくない状況である。収容所の外では人権団体が問題の早期解決を訴え、EUは米国とのサミットでグアンタナモ収容所の閉鎖を迫っている 。

(続く)

これまでの内容:
(第6回) グアンタナモに送致された「不法敵性戦闘員」
(第5回)アル・カイダが今日まで生きながらえている理由
(第4回) アル・カイダを創った男:オサマ・ビン・ラディン
(第3回アル・カイダがアフガン義勇軍から国際テロ組織に変貌するまで
(第2回)彼らは何故グアンタナモ収容所に送られたのか?
(第1回)プロローグ:フセイン元大統領死刑とのコントラスト


at 11:30General  
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