2013年10月24日

(連載)「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」(21)

1992(平成4)年、本社帰任
 マレーシアにおける石油開発は2本目の試掘井で石油が出た後、少し離れた場所に評価井として3本目の井戸が掘られた。評価井とは地下の油田の広がりを確認するためのものであり、先の試掘井と同じ深さまで井戸を掘り、首尾よく石油が出れば油田がその位置まで広がっていることになる。このような井戸を数本掘れば油田の広がりと油層の厚みが判明し商業生産に踏み出すことができる訳である。


 しかし3号試掘井は石油が全く出なかった。現場の落胆は大きく特に現地採用のマレーシア人達の間に沈んだ雰囲気がみなぎった。プロジェクトが失敗すれば東京に帰る日本人とは違い彼らには解雇が待っているからである。会社は直ちに4本目の掘削場所を前回とは逆の方向に求めた。油田が反対方向に広がっている可能性に一縷の望みをつないだのである。経費節減のため本社から現場業務縮小の方針が示され、管理部長の筆者は帰任を命ぜられた。


 二度目の海外赴任を終え1992年5月、本社総務部次長兼総務課長となった。湾岸戦争から一年以上経ち外見上本社の中は赴任前と変わらない様子であった。しかし社員の心の中には目に見えぬ傷跡が残っており、職場には何とも言えない「ざらついた」感触が漂っていた。利権終結の2000年まで残すところ10年を切った。前年3月小長副社長が社長に就任している。


 社業の立て直しと社員の士気高揚を図る一策として創業35周年記念の社史が編纂されることになった。社史のタイトルは「湾岸危機を乗り越えて~アラビア石油35年の歩み」と決められた。社史は二部構成とし前半の第一部で会社の35年の歴史を振り返り、後半の第二部は湾岸戦争勃発の経緯、戦時下の状況及び戦後の生産再開までを詳細に記録することとなった。社史と言えば社内に社史編纂室を創設し、会社の生き字引とも言えるような定年間近のベテランを起用するのが普通のやり方である。社史の内容は正確な記録を重視し年代を追って事細かに記述する余り、関係者以外の者にとっては面白味のない無味乾燥な代物となるのが普通である。


 しかしアラビア石油の場合、社長の強い意向により出来る限り読みやすいドキュメンタリー風の作品とすることとなった。ただそうなると社内に適任者が見当たらない。と言うよりも現役社員が自分の会社の出来事を読み物に仕立て上げるのは全く無理な相談である。そこで大手新聞社を退職しフリーライターとして活躍中の人物にお願いすることになった。社史編纂プロジェクトチームが編成され総務課が窓口となったため筆者もチームの一員に加わったが、実際の作業は部下のO君が専門ライターにつききりとなって働き、社内関係者とライターのインタビューに立ち会い、湾岸戦争と復旧篇の取材のためにサウジアラビア現地にも同行した。


 社史は翌1993年末に無事刊行されたのであるが、筆者は社史の完成を見ることなくその年の4月に子会社に出向を命じられた。本社の在勤期間はわずか1年足らずの短いものであり、これ以後利権期間が終結する2000年、60歳定年を待たず退職するまで二度と本社に戻ることは無かった。子会社或いは会社と関係の深い経済産業省の外郭団体を渡り歩いたのである。


(続く)


(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf 

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 前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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drecom_ocin_japan at 19:54コメント(0)トラックバック(0) 

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