2016年02月17日

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(7)

第1章:民族主義と社会主義のうねり

1.大西洋憲章
 戦争の当事者たちはそれぞれに戦争開始直後から戦争が終結した場合の戦後新秩序について構想を練るのが常である。それは一対一の国同士の場合は敵国領土の自国への編入或いは敵国にいかほどの賠償を支払わせるかと言うことであったが、第一次大戦、第二次大戦の両大戦では戦後世界をどうするかと言う地球的規模の新秩序の構想がそれに加わった。


 第二次世界大戦を例にとれば開戦直後もしくは勝敗の決着がつく前の段階で連合国側及び枢軸国側双方に戦後構想があったはずである。しかし結果は戦勝国となった連合国の描いた戦後世界秩序がすべての始まりとなった。当然のことながら日独伊の枢軸国が描く戦後像は闇に葬られた。と言うより戦勝国である連合国側が痕跡をとどめないまでに抹殺したと言うべきであろう。


7Roosevelt&Churchil
 それでは連合国側の戦後構想とはどのようなものであったろうか。それは1941年8月、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相が宣言した「大西洋憲章」に始まる。英国とフランスがドイツ第三帝国に宣戦を布告し第二次大戦がはじまった1939年から2年後のことである。因みに当時の米国は英仏を側面支援していたものの参戦していたわけではない。米国が日独伊の枢軸国に正式に宣戦布告し、連合国の一員として正面に立ちはだかったのは同年12月7日に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した翌8日である。


 1941年、米英が宣言した「大西洋憲章」は全文8か条で構成されているが、その第一条から第三条には次のように記されている 。


一、兩國ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス。 (領土拡大意図の否定)
二、兩國ハ關係國民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セサル領土的變更ノ行ハルルコトヲ欲セス。 (領土変更における関係国の人民の意思の尊重)
三、兩國ハ一切ノ國民カ其ノ下ニ生活セントスル政體ヲ選擇スルノ權利ヲ尊重ス。兩國ハ主權及自治ヲ強奪セラレタル者ニ主權及自治カ返還セラルルコトヲ希望ス。 (政府形態を選択する人民の権利)


 第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制(パリ講和会議)はそれまでの植民地主義、帝国主義さらに敗戦国に対する制裁や懲罰的賠償と言った旧来の方式が色濃く表れた。オスマントルコ帝国に対しては同国が支配していた現在のシリア、レバノン(いわゆるレバント地方)及びヨルダン、パレスチナ、イラク等の中東地域を前者はフランスが、そして後者は英国が植民地支配する体制となった。これは第一次大戦中の1916年に両国(及びロシア)が締結したサイクス・ピコ協定に基づくものである(同協定を含め有名な「英国の三枚舌外交」とされるフセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言についてはプロローグ4,5、6章参照)。またドイツに対しては領土割譲と共に厳しい再軍備規制が課せられた。しかしそのことがかえってナチス・ドイツを生む原因となりわずか20年後に第二次世界大戦が発生したのである。大西洋憲章はこの失敗を教訓としたものであり、政治、外交に対する米国の建国以来の(そして70年後の現在も変わらない)理想主義を高らかに歌い上げたものである。


 こうして戦後の中東でも理想実現に向かって国民国家の独立運動が始まった。その嚆矢が1946年のヨルダン王国及びシリア共和国の成立であった。もちろん両国成立の背景には複雑な事情が絡んでおり、国民国家の独立と単純に割り切ることはできない。しかしあえて単純化するとすればヨルダン王国は英国とアラブの名門部族ハーシム家が結んだフセイン・マクマホン協定の産物であり、シリア共和国はフランスが帝国主義支配の隠れ蓑として作り上げた極めて脆弱な共和国だったのである。


 ヨルダン、シリアに続いてこの後中東では次々と国家が成立する。しかしそこにあるのは民族(血)と宗教(心)と政治思想(智)が溶け合うことなく自己主張を重ねる世界であり、さらに米国とソ連の東西対立の代理戦争の世界であった。


(続く)


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       荒葉一也

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drecom_ocin_japan at 13:01コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年  

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