2016年05月11日
見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(19)
第2章:戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界
5.「智」が根付かないアラブ世界
NATO(北大西洋条約機構)、SEATO(東南アジア条約機構)及びCENTO(中東条約機構、発足時はMETO=バグダッド条約)の三つの西側軍事同盟はソ連の共産主義に対抗する反共軍事同盟であり、ソ連封じ込め作戦であった。これによってソ連はユーラシア大陸の西から東まで完全に包囲される形となった。米国がこれほどまでにソ連を恐れたのは社会主義・共産主義思想が猛烈な勢いで戦後世界に浸透しつつあったからである。
米国はこれを「ドミノ理論」と名付けた。ソ連と国境を接する国に革命が起こり共産主義政権が生まれるとそれが次々と隣国に波及し、まるでドミノ倒しのように共産主義が地球上にはびこっていくと言うのが「ドミノ理論」である。その共産主義の波及を阻止するための「防共の壁」がNATO、SEATO、CENTOの軍事同盟であった。米国は自国が共産主義思想に染まると本気で心配した。それが下院非米活動委員会による共産主義者摘発の「赤狩り」旋風(俗称マッカーシズム)であった。
西欧諸国特に米国による抑え込みにもかかわらずこの時期世界各地に共産主義政権が誕生している。しかし中東では共産主義勢力が実権を握ったのはイランのツデー党の流れを汲むモサデグ首相の時代(1951年―52年)及び1967年に独立、1990年にイエメン・アラブ共和国(北イエメン)と統合するまで続いた南イエメン人民共和国の二つだけである。イランではモサデグ首相が石油国有化を断行したが、結局それが命取りとなり、国王のシャー・パハレビの反革命クーデタにより短命に終わっている。イエメンはアラブ世界の中心から遠く離れた世界の出来事とみなされさほど重要視されなかった。
ヨーロッパでは産業革命により資本家と労働者の階級分化が進み、資本と言う生産手段を独占する資本家と労働力しか持たない労働者の階級格差が拡大した。労働者階級は資本家階級に対抗して社会主義あるいは共産主義の理論を身にまとって立ち上がった。1848年にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが書いた「共産党宣言」の冒頭に有名な一節がある。曰く「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」。20世紀に入りヨーロッパでは共産主義が虚像の幽霊としてではなく、実像として姿を現し始めた。
しかしアラブ世界では都市部と言えども産業革命はほとんど進展せず、大規模な工場を経営する産業資本家とそこに働く多数の労働者と言う階級分化の図式が出現しなかった。経済の実権を握っていたのは同族経営の商業資本家たちであり、社会主義や共産主義が生まれる余地はほとんど無かったと言えよう。
中東を流れる「血(民族)」、「心(信仰)」と「智(思想)」と言う三つのアイデンティティの中で「智(思想)」が最も弱い。極端に言えば中東では「血(民族)」と「心(信仰)」が強すぎて「智(思想)」が育たないのである。
さらに社会主義と並ぶ汎アラブ主義のもう一つの柱であるアラブ民族主義にも問題があった。「アラブ民族」と言う余りにも広すぎる概念を振りかざしたことである。「血」のつながりは「親族」、「一族」、「部族」と広がり「民族」が最も広い概念である。ただ一般の民衆が一体感を持てるのはせいぜい部族止まりであり、「アラブ民族」と言う概念は余りに大きすぎる。ところが権力闘争でのし上がったナセルのような政治家たちは「アラブの栄光」と言う誇大妄想に取りつかれ、「アラブ民族主義」を掲げれば民衆がついてくると考えた。
土地に根を生やした一般民衆にとって三つのアイデンティティのうちの「血」のつながりは一族あるいは部族止まりで十分だったようである。それ以上の広い世界における一体感はイスラムの「心(信仰)」が与えてくれる、と言うのが庶民の世界観だったと思われる。そしてそれは現在のアラブ世界にも生き続けていると言えないだろうか。
(続く)
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荒葉一也
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