2016年05月18日
見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(20)
第2章:戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界
6.立ち上がるパレスチナ人
1956年の第二次中東戦争ではエジプトはスエズ運河の国有化を国際社会に認めさせたことにより政治的な勝利を得た。しかし軍事的には間違いなく敗北であった。結果としてエジプトのナセル大統領はアラブの英雄として讃えられたものの、パレスチナに住み続け或いはパレスチナからヨルダンなどの隣国に移住した「パレスチナ人」と呼ばれる人々は歴史の渦にのみこまれる羽目に陥った。
そもそもパレスチナとはシリア南部地中海東岸の地域的名称である。そこには古代からセム系の民族が住んでいたが、歴史に登場する最も古い部族はヘブライ語を話すユダヤ教徒である。彼らはパレスチナを自分たちに約束された土地イスラエルと称した。イスラエルとはユダヤの祖先アブラハムの孫ヤコブの別名である。
しかしもちろんここに住んでいたのはユダヤ教徒だけではない。むしろ住民の多くはアラブ人である。キリスト生誕の紀元後はローマ帝国が支配し、キリスト教の勢力下に入る。そして7世紀にイスラームが興るとそこはアラブ人イスラム教徒の世界となり、その後1300年の間イスラームが支配する平穏な世界であった。もちろん地域の小競り合いが無かった訳ではないが、ヨーロッパや他のアジア地域に比べれば極めて平和な世界であったことは間違いない。オスマン帝国など歴代王朝の過酷な圧政があったことは否定できないが、それはヨーロッパやアジアでも同じだった。とにもかくにもパレスチナの住民たちは平和な暮らしを続けてきた。
その平和を破ったのが20世紀の初めヨーロッパのユダヤ人たちが唱え出したパレスチナ祖国建設運動である。ロスチャイルドなど豊かな同胞の支援を受けて貧しいユダヤ人たちが大挙してパレスチナに押しかけ、先住民であるイスラム教徒(ムスリム)のアラブ人を圧迫した。ユダヤ人たちは「国無き民に民なき土地を」と言う巧妙なスローガンでパレスチナ入植を正当化した。しかしパレスチナが「民なき土地」ではないことは誰の目にも明らかである。
結局パレスチナのアラブ人たちの多くは土地を追われ難民となってヨルダンなど隣国のアラブ諸国に移り住んだ。その動きを加速したのが第一次中東戦争、いわゆるイスラエル独立戦争である。70万人ともいわれるパレスチナ人が祖国を追い出された。祖国に残り或いは祖国を離れたアラブ人たちは以後「パレスチナ人」と呼ばれるようになった。親子代々パレスチナに住み続けた彼ら自身にはそもそも「パレスチナ人」などと言う意識は無かったはずである。第二次大戦後、国民国家が当たり前となり誰しもが「何々国民」として色分けされる世界になり、パレスチナにパレスチナ人が生まれたのである。
彼らパレスチナ人はいつの日にかアラブの同胞が自分たちの土地を取り戻してくれると信じ、1948年の第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)さらには8年後の第二次中東戦争(スエズ戦争)に耐え抜いてきた。第一次中東戦争ではイスラエルなど一ひねりで潰してみせると豪語したアラブ諸国の為政者たちに裏切られた。そして第二次中東戦争(スエズ戦争)ではエジプト軍とイスラエル軍の装備と戦闘能力の差をいやと言うほど見せつけられた。結局第一次中東戦争ではアラブ連合軍が単なる烏合の衆に過ぎなかったことを思い知らされ、第二次中東戦争ではスエズ運河の国有化を勝ち取ったナセル大統領ただ一人が英雄となった。パレスチナ人の心の中にはアラブ陣営が束になってもイスラエルには勝てないと言う無力感が残っただけであった。まさに「一将功成って万骨枯る」である。パレスチナ人はアラブの同胞に失望した。
パレスチナ人たちに残された道はただ一つ、自ら立ち上がることであった。1964年、彼らはパレスチナ人の民族自決と離散パレスチナ人の帰還を目的とするパレスチナ解放機構(PLO)を結成する。
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
荒葉一也
E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp
携帯; 090-9157-3642