2016年06月15日

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(24)

第3章:アラーの恵みー石油ブームの到来

 

 

2.OPEC結成

24(3-2)OPEC
 第二次大戦直後1948年の原油価格はバレル当たり2.8ドルであった。バレルとは石油独特の計量単位であり、本来の意味は「樽」である。パイプラインやタンクローリーのような専用の運搬設備が無かった時代、石油は樽に入れ馬車に積まれて消費地に送られていた。1バレルは42ガロン、リットルに換算すると160リットルである。このことから当時の原油価格は1リットル=2セント、邦貨では2円強と言うことになる。もちろんその後のインフレ係数で現在価格に直すと25ドルとなり昨年(2015年)最安値を付けた価格とあまり違わない。

 

当時石油の売値のうち産油国の懐に入るのはセブン・シスターズを筆頭とする欧米石油会社が産油国に支払うロイヤリティ(利権料)と生産量に応じたわずかな分配金に過ぎなかった。産油国は取り分の増額を求めて欧米の石油会社と交渉したが壁は厚かった。とにかく原油の生産から精製、そして流通の末端まで欧米の石油企業が独占しており産油国は歯が立たない。1951年にはイランのモサデグ首相が国有化を強行したが、セブン・シスターズの猛烈な反撃に会いあえなく政権が倒れてしまう有様であった。

 

戦後の復興期で石油の需要が急増したため石油各社は値段を据え置いたまま生産を増やすだけで十分な利益を上げることができた。石油が安いことは消費国或いは消費者にとって朗報である。中でも日本は最も大きな恩恵を受けた国であった。安い石油を武器に日本は戦後復興、さらに高度成長へ向けてひた走りに走った。

 

1959年に戦後不況で石油の需要が落ち込むと、セブンシスターズは原油の買い取り価格(公示価格)を引き下げた。それまでインフレの昂進により実質的な実入りが減少していた産油国は、公示価格の引き下げでさらなる歳入の減少に陥った。

 

堪忍袋の緒が切れた産油国が立ち上がった。個別の国ごとにメジャーと交渉しても拉致があかないことをイランの例から学び取っていた産油国は結束する道を選んだ。こうして1960年9月、OPEC(石油輸出国機構)が結成された。当初の加盟国はサウジアラビア、イラン、イラク、クウェイト及びベネズエラの5か国である。いずれも石油収入以外に外貨を稼ぐ手段を持たな国々である。OPECにはその後10年の間にリビア、インドネシア、アラブ首長国連邦(UAE)、アルジェリア、ナイジェリアなどが相次いで加盟している。

 

OPEC加盟国は石油収入の拡大を目指し結束してメジャーに立ち向かったがその壁は厚く成果はなかなか上がらなかった。残された手段はただ一つ、かつてイランが果たせなかった石油産業の国有化だけであった。サウジアラビアなどの穏健な産油国に飽き足らなかった急進派のリビアが1970年に最初に石油産業の国有化に踏み切った。陣頭指揮を取るのは前年にクーデタで実権を握った「北アフリカの暴れん坊」カダフィ大佐である。彼の数々の蛮勇はつとに有名であるが石油産業の国有化はその最初のものであった。

 

石油産業の国有化はその後世界の潮流となるが、その背景には天然資源についての二度の国連決議があった。最初の決議は1962年の国連総会における「天然の富と資源に対する恒久主権」の決議である。これは1966年の決議によってさらに強固なものとなった。このとき(1)資源は本来その所在国に帰する、(2)資源の開発と販売は資源所在国が自力で行うことが望ましい、(3)資源開発に従事する外資は受入国のコントロールに服さなければならない、ことが決議された。天然資源の国有化の正当性をはっきりと認めたのである。

 

国連決議に勇気を得たOPECは1970年代に入るや怒涛の進撃を開始するのである。それはセブンシスターズを恐れさせただけでなく、1973年の第4次中東戦争で世界中にオイルショックを引き起こし石油消費国を震撼させたのである。

 

 (続く)

 
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 荒葉一也
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drecom_ocin_japan at 08:54コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年  

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