2016年06月22日

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(25)

第3章:アラーの恵みー石油ブームの到来

3.歴史の表舞台に躍り出たサウジアラビア
25アラビア半島
 サウジアラビアはサウド家が支配するアラビア半島の王制国家である。そもそも「サウジアラビア」とは「サウド家のアラビア」という意味であり、半島中央部ネジド砂漠に住むサウド一族の族長アブドルアジズがアラビア半島を制圧して1932年に建国した比較的歴史の新しい国家である。

 それまでのアラビア半島はイスラームの聖都マッカ、マディナのある紅海沿岸あるいは交易で栄えたペルシャ(アラビア)湾沿岸だけがオスマントルコの支配下にあり、内陸部の砂漠地帯とそこに住む遊牧民ベドウィンはオスマントルコの関心の対象外であった。

 事態が動いたのは1871年のスエズ運河の開通に始まるイギリス(大英帝国)とオスマントルコの衝突である。大英帝国はスエズ運河によりインド亜大陸から東南アジアにかけて点在する植民地へのアクセスが格段に向上したが、それとともに地域の覇者オスマントルコとの対立が表面化した。第一次世界大戦で両国が戦火を交えることになると英国は半島内陸部のベドウィンを味方に引き入れた。そして1940年のダンマン油田発見によりサウジアラビアは歴史の表舞台に躍り出たのである。その後世界最大の陸上油田ガワール、同じく世界最大の海上油田サファニア等が相次いで発見され、同国は世界のエネルギー大国に発展して行く。

 サウジアラビアの石油を発見したのはシェブロンを筆頭とする米国系石油会社4社であったが、当時は第二次世界大戦の真っ只中であり開発と生産は大戦後に本格化する。ヤルタ会談の直後当時のルーズベルト大統領がわざわざアブドルアジズ国王を訪ねたことは(プロローグ1.「スエズ運河グレート・ビター湖の会談」参照)、石油が戦後世界の覇権争いの重要なファクターであったことを示している。

 ただ当時のアブドルアジズ初代国王とその息子サウド(第二代国王)は石油の本当の価値に気付いていなかった。彼らは米国の石油会社が支払う利権料だけで満足し、会社がその何倍もの利益を懐に入れるのを見過ごしていた。利権料は王とその一族を潤すに十分であり、一般の国民に石油の富を分配することなど念頭になかった。特に第二代サウド国王の生活は乱脈を極め国家財政を危機に追いやった。

 1964年、サウドが退位し名君ファイサルが第3代国王に即位した。ファイサルはサウジアラビアを近代国家に衣替えするため、道路、港湾、都市計画などのインフラ整備、或いは教育、医療の近代化に取り組んだ。この頃、世界経済は戦後復興の道を歩みはじめ基幹エネルギーとしての石油の消費はうなぎのぼりになり、産油国の存在感が増してきた。

 ファイサル国王は唯一の財源である石油収入を増やす必要性を痛感、腹心のヤマニ石油大臣に欧米石油企業と交渉させた。巨大な国際石油企業セブンシスターズとの交渉はサウジアラビア一国だけでは不可能である。ハーバード大学で法律の学位を取得したアハマド・ザキ・ヤマニはOPECの中心人物として欧米石油企業との交渉に当たった。当初セブンシスターズは産油国の要求など歯牙にもかけず、条件改定交渉は困難を極めたが、粘り強い交渉の結果、1964年のOPECジャカルタ総会では利権料の経費化を、また1966年のクウェイト会議では課税基準を公示価格とするなど、地道ではあるが着実な成果をあげた。

 サウジアラビアはセブンシスターズとの直接交渉に加えもう一つの戦略を推し進めた。セブンシスターズの息のかかっていない石油企業、或いは石油を大量に必要としている消費国に未開発の鉱区の利権を直接与えることであった。国内の鉱区の殆どはすでに米国系セブンシスターズが押さえていたが、未開発の鉱区がただ一つ残っていた。クウェイトとサウジアラビアの中間地帯に広がる「中立地帯」である。北側のクウェイトにはすでに生産中の巨大なブルガン油田があり、また南側のサウジアラビアも陸上のガワール油田、そして海上のサファニア油田が操業中であり、両者に挟まれた中立地帯で石油が見つかる可能性が極めて高いと考えられた。

 海上鉱区の開発に手を挙げたのが日本であった。事業家精神旺盛な山下太郎は石坂泰三、小林中など当時の財界の重鎮を担ぎ上げ、1958年に石油開発の利権を獲得した。こうして設立されたのが「アラビア石油」である。同社は2年後に首尾よく石油を掘り当てペルシャ湾のカフジに生産出荷基地を建設する。

 石油基地を運営するためには建設作業員のみならず事務員、技術者など多数の現地従業員が必要である。会社は広くアラブ人を求めた。ヨルダンからクウェイトに移り住んでいたパレスチナ人シャティーラ家の長男アミンは大学を卒業、当時24歳の若者であった。シャティーラ家に限らず故郷を追われ各地を転々とするパレスチナ人たちは教育だけが子供に残してやれる財産だと考え、いずれも教育に熱心であった。アミンはアラビア石油の採用募集に応募し1961年、一家と離れ独身のままカフジに赴任した。

(続く)

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 荒葉一也
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drecom_ocin_japan at 08:44コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年  

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