2016年10月12日

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(41)

第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)
5.歴史に取り残されるパレスチナ問題
 ヒジュラ暦1400年(西暦1980年)前後から10年余りの間に、中東イスラーム世界ではエジプト・イスラエル平和条約及びホメイニ師によるイラン革命(共に1979年)、イラン・イラク戦争の勃発と終結(1980年、1988年)、ソ連のアフガニスタン侵攻と撤退(1980年、1989年)等々の大事件が続発した。そして世界の歴史も20世紀の終焉を控えて激動した。1980年代に入りソビエト社会主義体制に綻びが目立ち始めた。それは資本主義国家と踵を接する地域で表面化した。1987年にベルリンの壁が崩壊、2年後の1990年に東西ドイツが統一したことでソビエト体制の終焉は誰の目にも明らかになった。こうして1991年、ソ連は崩壊した。ソ連はヨーロッパで資本主義に敗退し、シルクロードでイスラームのジハード(聖戦)に敗れた。1917年のロシア革命で誕生し、いずれ社会主義が世界を支配すると豪語したソビエト社会主義共和国は80年足らずで歴史の舞台から消え去り、米国を頂点とする資本主義が世界を席巻する。

 激動する世界及び中東の歴史の中でパレスチナ問題は次第に影が薄くなっていった。第二次大戦後久しく中東問題と言えばパレスチナ問題であったが、アラブの盟主エジプトが1979年にイスラエルと単独和平を結んだことで問題に対する関心が急速に薄れた。ヨーロッパ諸国はサダトとベギンにノーベル平和賞を与えることでこの問題が永久に解決されたかのごとき幻想をふりまいた。しかし決してユダヤ人によるパレスチナの土地の占領という問題そのものが解決されたわけではなかった。

 そもそもパレスチナの土地をユダヤ人に与えるというバルフォア宣言は、第一次大戦の勝利を金銭面で支援したユダヤ人に対する報酬であり、また歴史的なユダヤ人抑圧に対するヨーロッパ人の贖罪であった。と同時にバルフォア宣言はこれからもヨーロッパ白人社会を脅かしかねないユダヤ人を遠いパレスチナに厄介払いするというまさに一石三鳥の妙案だったのである。

 だがパレスチナ人にとってはエジプトとイスラエルが和平条約を締結し、サダトとベギンがノーベル平和賞を受賞しても問題は何も解決したことにならなかった。ユダヤ人たちがパレスチナ帰還のために掲げたスローガン「土地無き民に、民なき土地を」の後段「民なき土地を」と言うのはあまりにも身勝手な発想であった。2千年前にユダヤ人がディアスポラ(大離散)でヨーロッパ各地に移住して以降もその地に住み続けてきたパレスチナ人の歴史を完全に無視したものだったからである。

 パレスチナ人たちはイスラエル独立後も土地の返還を求めパレスチナ国家建設のため戦った。アラブ諸国はパレスチナ人を積極的に支援し軍事行動まで起こした。しかしそれも1973年の第四次中東戦争までだった。エジプトが単独和平で支援の輪を抜け、他のアラブ諸国はエジプトを非難したが、パレスチナに新たな手を差し伸べる国はなかった。パレスチナは大転換する世界と中東の歴史の中に取り残されたのである。

 もちろんパレスチナ人たちは黙って手を拱いていたわけではない。レバノン南部のイスラエル国境近くに本拠を構えたPLO(パレスチナ解放機構)はレバノン政府が内戦で機能不全に陥っているのを幸いにイスラエルに対して国境を越えた執拗な攻撃を繰り返した。これに対してイスラエルも戦闘機によりパレスチナ難民キャンプにあるPLO司令部を爆撃した。軍事作戦ではPLOは到底イスラエルにかなわない。1982年、とうとうPLOはレバノンを撤退しチュニジアに逃れた。
41インティファーダ

 ヨルダン川西岸やガザ地区に住むパレスチナ人たちは先の見えない状況に置かれた。それでも彼らはイスラエルに対する抵抗運動を止めなかった。わずかな武器弾薬のほかに何も持たないパレスチナ人たちが抵抗の証に手にしたのは「石つぶて」であった。彼らはデモ鎮圧を図るイスラエル兵士と戦車に向かって石を投げて抵抗の意思を示したのである。それは「牛車に歯向かう蟷螂(カマキリ)」のたとえ通り絶望的な抵抗運動であったが彼らに残された手段はそれしかなかった。それが1987年に始まった「(第一次)インティファーダ」である。石つぶてで圧制者に抵抗するパレスチナ人と、これに最新兵器で立ち向かうイスラエルの争いは国際世論の目を引き、イスラエル非難の声があがった。

 ノルウェーが調停に乗り出し1993年、イスラエルとPLOはオスロ合意を締結、両者が相互を承認するという歴史的な成果を上げた。これにより翌1994年、PLOのアラファトおよびイスラエルのペレスとラビンはノーベル平和賞を受賞するのである。ただし結論から先に言えば、翌年右翼のユダヤ人によりラビンが暗殺され両者の平和は結局幻に終わるのである。それは1978年にエジプトのサダトとイスラエルのベギンがノーベル平和賞を受賞したとき、3年後にサダトが暗殺された事件の再現であった。「ノーベル平和賞」は中東和平に関する限り、恒久的な平和がもたらされたからではなく、世界の人々、特にヨーロッパの知識人たちの中東の平和に対する期待感によるものでしかなかったのである。

(続く)

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 荒葉一也
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drecom_ocin_japan at 09:12コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年  

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