2018年02月13日

混迷深まるサウジアラビア(その3):暗転するサウジ外交(3)

(注)本シリーズはブログ「OCIN Initiative」で一括してご覧いただけます。
http://ocininitiative.maeda1.jp/0434Ksa2018-3ForeignPolicy.pdf

2018.2.13

荒葉一也

Areha_Kazuya@jcom.home.ne.jp

 

201711月:レバノン、ハリリ首相の辞意撤回騒動

 3-1Lebanon
レバノンは人口約600万人の小国であるが、「宗教のモザイク国家」と言われるほど多数の宗教宗派が混在している。イスラームのシーア派、スンニ派、ドルーズ派を始め、キリスト教ではマロン派、ギリシャ正教、ローマ・カトリック、アルメニア正教などがあり、全体では18宗派で構成されている[1]
。政治的安定を確保するためレバノンは建国以来、大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派と決められている。現在の大統領はミシェル・アウン、首相はサアド・ハリリである。因みにサアド・ハリリの父親ラフィーク・ハリリもかつてレバノン首相を務めたが、退任後の2005年に爆殺されている。以来、親イランのシーア派ヒズボラと親サウジのスンニ派との対立が激しくなり、レバノンの国内紛争はイランとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈している。(後述するイエメンでも親イランのフーシ派と親サウジのスンニ派ハディ政権によるイランとサウジの代理戦争という同じ図式による泥沼の内戦が続いている。)

 

 サアド・ハリリは父親の遺志を継いで2005年末に首相に選ばれたが、2011年にラフィーク暗殺の原因究明を巡り親シリア派の野党閣僚が辞任するとハリリ内閣は瓦解、その後大統領職もその後任を巡って紛糾し国政は混乱した。2016年にようやく新大統領が決定、憲法規定に則り同年11月に挙国一致のサアド・ハリリ内閣が成立した。ハリリ首相は複雑なパワー・バランスの中で微妙なかじ取りを強いられているが、彼を陰に陽に支えたのがスンニ派の盟主サウジアラビアなのである。

 

 実はサアド・ハリリはサウジアラビアのリヤドで生まれ育ち、レバノンとサウジの二重国籍を有し、父親ラフィークはサウジでビン・ラーデンと並ぶ大手ゼネコンSaudi Oer社の創業者であり、したがってサウド家王族とも極めて親密な関係を持っている。中でも大富豪アルワリード王子は、母方の祖父が初代レバノン首相であり、同国にも事業の拠点を置いているため、ハリリ家とは特に親しい。ラフィークの葬儀には当時のアブダッラー国王とアルワリードの父親タラール王子が参列したほどである。

 

 首相就任以来親イランのヒズボラなどシーア派国会勢力との政争で綱渡り的な政権運営を強いられていたハリリ首相は昨年12月サウジアラビアを訪問、国王、皇太子と善後策を協議した。この時、ハリリは突然首相辞任を表明して世界を驚かせた[2]。ところがハリリはその後レバノンに帰国すると今度は辞意を撤回してもう一度世界を驚かせたのである。

 

 ハリリはリヤドでの辞意表明は国民に対するショック療法であると説明したが、背後にサルマン国王とムハンマド皇太子の圧力があったとの見方が強い。ハリリは帰国後大統領の強い慰留で辞意を撤回したのであるが、結局この猿芝居を演出したサウジの国王と皇太子は世間の冷笑を浴びたのである。援助をちらつかせて小国レバノンを自らの意向に従わせようとしたサウジ外交の失敗であった。

 

201712月:イエメン、サーレハ前大統領暗殺

3-2Yemen
 12月初めイエメンのサーレハ前大統領がフーシ派武装組織によって暗殺された[3]
。サーレハとフーシ派は欧米諸国及びサウジアラビアが正統と認めるハディ暫定政権に対抗する反政府組織として共闘、イエメンの首都サナアを占領し、暫定政権をアデンに追いやった一大勢力である。サーレハは仲間割れによってフーシから命を奪われたわけであるが、実はサーレハがサウジアラビアと密通し寝返ろうとしたためフーシ派から裏切り者として暗殺されたというのが真相のようである。

 

 しかしサーレハとサウジアラビアの関係は一筋縄では済まない複雑な関係である。それは2011年の「アラブの春」にさかのぼる。当時サーレハは北イエメン時代を含めすでに34年間もイエメンの大統領であった。しかし2011年、チュニジアで始まった民主化の嵐はリビア、エジプトからイエメンまで波及、2012年前半の度重なるデモで騒然とする中、6月にはついに反政府組織による大統領府攻撃によりサーレハは負傷、治療のためサウジの首都リヤドに向かった。事実上の亡命である。

 

 サーレハはリヤドでサウジ政府から因果を含められ大統領職を当時副大統領のハディに譲ったのである。サウジ外交の勝利としてイエメンはスンニ派による民主国家に変身するはずであった。しかし本来部族社会であるイエメンで国内に有力な後ろ盾を持たないハディは弱体であり、足元を見たシーア派のフーシ派部族が挙兵した。そして傷が癒えて帰国したサーレハは自分を支持する部隊を引き連れ何とフーシ派と共闘、ハディの追い落としを図ったのである。サウジ政府にとってはサーレハに恩をあだで返されたようなものである。

 

フーシ派のバックにイランがいたことは言うまでもない。首都のサナアはフーシ派とサーレハ部隊によって陥落、ハディ政権は南部の国内第二の都市アデンに撤退、ハディ暫定大統領はサウジのリヤドに難を逃れ、現在もそこから指揮を執っているほどである。しかしアデン臨時政府は寄り合い所帯でありサナア奪還どころか暫定政府に抵抗する南部の独立勢力に押され、このままではかつてのようにイエメンが南北に分断されかねない状況である。

 

サウジ政府にとってイエメンを分断させずにスンニ派国家として存続させるためには、ハディは頼りにならず、イランに支援されたフーシ派を打ち破るにはサーレハに寝返りを働きかけるほかないと考えたのであろうか。しかしそのサーレハは暗殺され、イエメンの将来は混とんとしたままである。ただサーレハが暫定政府側につけば彼が早晩実権を握り再び独裁国家が生まれるであろうことも想像に難くない。

 

サルマン国王及びムハンマド皇太子のサウジ外交の無為無策ぶり、あるいはシーア派イラン憎しの怨念が支配する限り同国の外交は地域の混乱を深めるだけかもしれない。

 

(続く)



[1] 外務省:レバノン共和国基礎データより。

www.mofa.go.jp/mofaj/area/lebanon/data.html 

[2] “Hariri revokes resignation after consensus deal” on 2017/12/5Arab News

http://www.arabnews.com/node/1204091/middle-east

[3]Yemen's Ali Abdullah Saleh assassinated by Al Houthi militia‘ on 2017/12/4, Gulf News

http://gulfnews.com/news/gulf/yemen/yemen-s-ali-abdullah-saleh-assassinated-by-al-houthi-militia-1.2135006



drecom_ocin_japan at 10:13コメント(0)荒葉一也シリーズ  

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