中東の戦後70年

2016年12月28日

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

9.混迷深まる中東
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  第二次大戦後の中東はアラブとイスラエルが対立する世界であった。そこでは敵と味方の区別が明らかであり、民族も文化も異なるが宗教(イスラーム)が同じであるアラブ、イラン、トルコの敵はイスラエルのみであり、お互いは味方同士であった。そして米国はイスラエル(敵)の味方であるため、アラブ・イスラ-ム圏は米国を敵とみなした。即ち敵の味方は敵なのである。但し米国は遠く離れているため、シャー体制のイランのように中東一の親米国となる国がある一方、ナセル体制のエジプトはソ連になびいた。

 

敵、味方の構図を一変させたのが四次にわたる中東戦争におけるイスラエルの圧勝であり、さらにその後のイラン・イスラム革命であった。イスラエルの圧勝によりアラブ諸国内にはエジプト、イラクなどの世俗軍事国家とサウジアラビアなど専制君主国家との間に緊張が生まれた。さらにイラン革命でホメイニ体制のシーア派の政教一致国家が生まれると、スンニ派が実権を掌握するイラク及び湾岸諸国とシーア派のイラン及びシリアとの宗派対立が表面化した。問題を複雑にしたのがイラク及び湾岸王制国家のバハレーンでは少数派のスンニ派が多数を占めるシーア派住民を支配していることであり、他方シリアでは少数派のシーア派アラウィ教徒のアサド(父子)がスンニ派とクルド民族を抑え込んで実権を握るという少数派と多数派の逆転現象が発生したことである。

 

その結果イラン・イラク戦争はアラブ人対ペルシャ人(イラン)という因縁の民族的対立に加えシーア派対スンニ派という宗派対立の構図が炙り出され、君主制の湾岸諸国が世俗国家イラクを後押しする羽目になった。これに対してイランはシリアを側面支援してレバノンを舞台にシリアとイスラエルの代理戦争を演出、さらにイラク及び湾岸諸国のシーア派住民を使嗾して各国の体制に揺さぶりをかけたのであった。加えてホメイニ憎しの米国は民主主義の理念を棚上げして独裁国家イラクを支援した。

 

こうして中東地域ではイランとイラクが直接敵対する関係になり、湾岸諸国にとって味方(イラク)の敵(イラン)は敵という訳であり、中東イスラームという一つの地域の中に敵と味方が混在する構図となったのである。かつてのイスラーム諸国対イスラエルという単純な二項対立が宗派を介して複雑化した。逆の立場のイランにとっても同じことがいえる。即ち味方(シリア)の敵(イスラエル)は敵であり、敵(イラク)の味方(サウジアラビアなどの湾岸諸国)は敵である。そして奇妙なことにサウジアラビアにとってイラン、シリアの敵であるイスラエルはこれまで通りやはり敵なのである。

 

中東戦争まではアラブ・イスラーム対イスラエルの2項対立であったものが、イラン・イラク戦争時代には3項或いは4項対立の様相を呈した。敵の敵が味方か敵か、はたまた敵の味方が敵か味方か、判然としなくなったのである。但し対立は重層化したものの、敵か味方かの区別は国家単位であり、それぞれにとって誰が味方で誰が敵かははっきりしていた。

 

しかし対立が一つの国家内での政府と反政府組織の軍事的対立となったとき、他国がどちらに肩入れするかで敵と味方の区別がつきにくくなる。まして反政府組織が分裂したり、同床異夢の寄り合い所帯であったりすると問題が複雑になる。IS(イスラム国)が従来の国境を無視して国家樹立を一方的に宣言し、加えて超大国の米露や地域の大国であるイラン、トルコ或いはサウジアラビアがそれぞれの思惑で政府或いは反政府組織に介入すると問題は多項方程式を解くように際限もなく複雑化する。それこそが現在のシリアなのである。

 

(続く)

 

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2016年12月21日

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

8.短かった春の宴

「アラブの春」を欧米先進国(特にメディア、インテリ層)は中東・北アフリカ諸国における独裁者の圧政に対する住民の抵抗運動、政治の民主化運動と定義づけた。「春」という言葉が持つ肯定的で開放的なニュアンスを政治の場面で使ったのは、冷戦下のチェコの民主化運動「プラハの春」が多分初めてであろう。それはソビエト共産主義の圧政に対する抵抗運動を象徴する言葉となり、西欧のメディアはこの言葉に自己陶酔した。1968年の「プラハの春」はソ連の介入によりあえなく踏みにじられたが、21年後には同じチェコで「ビロード革命」が発生、翌年には東西ドイツ統一が実現して、西欧諸国は自分たちの信奉する民主主義が絶対的に正しい思想(イデオロギー)であり、「プラハの春」はその先駆けであったと確信したのである。

 

プラハの春のひそみに倣い西欧諸国は「アラブの春」も必ず成功すると信じて疑わなかった。しかし「アラブの春」がそれ以前よりさらに劣悪な混乱と停滞を各国にもたらしたことは否定しようがない。大きな変革の直後には更なる変革を求める勢力と古き良き時代の復活を求める両極端の勢力が激突し、混乱が発生するのは歴史の習いである。チェコの民主化運動が成就するのに20年以上かかったことを考えれば、「アラブの春」の歴史的評価を下すのは早すぎるかもしれない。今から20年後のアラブ諸国はひょっとして西欧型の民主主義国家に変貌しているかもしれない。それはまさに「インシャッラー(神のみぞ知る)」である。

 

しかし「アラブの春」を現状なりに評価することも意味のないことではなかろう。筆者の持論である中東の三つのアイデンティティ、即ち「血(民族)」、「心(信仰)」及び「智(イデオロギー)」をベースに「アラブの春」を経験した国、経験しなかった国を含め、アラブ圏各国について眺めてみるといろいろなことが見えて来る。

 

エジプトの場合、チュニジアで「ジャスミン革命」が成就したとほぼ同時の2011年1月、カイロのタハリール(革命)広場で学生を中心とするデモが発生した。SNSでデモ参加を呼びかける若者たちの声に応じてデモは規模を拡大しタハリール広場を埋め尽くすようになった。彼らは旗を振りムバラク大統領の退陣を求めるシュプレヒコール「ファキーア(もう沢山だ)!」と叫んだ。ムバラク大統領の出身母体である軍の治安部隊は最初のうち動かず、現場の警察官もデモ隊にむしろ友好的な雰囲気ですらあった。実のところ彼らも大統領に「ファキーア」だったのである。

 

世論に抗しきれなくなったムバラクは2月に大統領を辞任し、その後不正な財産蓄積の容疑で逮捕され刑務所に収監された。その間もデモは続き国家機能がマヒしたため、平穏な生活に戻ることを求める一般市民の声も無視できず治安部隊はデモ隊の解散を求めた。この頃の若者のデモ参加者たちはムバラク退陣を勝ち取った成果でユーフォリア(熱狂的陶酔)状態にあったが、次に何を成すべきかについては明確なビジョンが無かったり或いは意見が分かれていた。

 

このような一般市民と学生の意識のずれの隙に割って入り存在感を示したのがムスリム同胞団であった。同胞団はムスリム(イスラーム教徒)の互助組織として市民生活にすでに深く根を張っていたが、自由な総選挙の実施が決定されたことを受けて政治組織「自由公正党」を立ち上げ政権奪取を目指した。これに対抗して学生や知識人たちはリベラル政党の樹立を目指した。

 

しかしリベラル運動の理論家はムバラク政権時代は西欧に亡命し、そこでの自由で安全な生活に慣れ切っていた。彼らは頭でっかちのインテリであり、エジプト国内で圧政に苦しむ一般市民とは意識のずれが大きく団結した組織をつくれなかった。SNSの威力を過信した学生たちもまた大規模なデモ動員こそ可能だったものの結局国民全体を動かす力にはなりえなかった。学生たちは組織力と実行力のあるムスリム同胞団が主導権を握るのを見て、「革命を乗っ取られた」と嘆いた。チュニジア青年の焼身自殺をSNSで広め「アラブの春」の運動をリードしてきた若者たちであったが、欧米では当たり前の民主主義という「智」のイデオロギーがイスラーム社会には根付いていなかったのが原因であろう。中東アラブは今も部族(血)とイスラーム()が支配する世界である。

 
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エジプト史上初めてと言われた公正な選挙で圧倒的支持を得たムスリム同胞団の自由公正党であったが、ムルシ大統領の時代はわずか1年余りしか続かなかった。政治経験の殆どないムルシは経済運営で失政を重ね、さらに同胞団の身内を重用する縁故政治で国民の心はムスリム同胞団からすっかり離反した。再び若者のデモが続発し騒然となった。大衆はわずか一年前に自らが選んだ大統領を引きずり下ろし、あろうことか軍政への回帰を選択したのである。軍最高司令官のシーシはクーデタを敢行、ムルシを解任した。ここにエジプトは強権的な軍政に復帰、エジプトの「アラブの春」は2年で終わった。国民はシーシを熱烈に歓迎し、欧米民主主義国家を含めた国際社会もアラブの盟主エジプトの政治と経済が安定することを歓迎したのである。

 

エジプト以外の中東各国の「アラブの春」はさらに短かく、むしろその後混乱と無秩序のカオスに陥った例の方が多いくらいである。リビアではカダフィが倒れた後、大量の武器が闇市場に流れ、国内の部族同士の内戦に発展した。またイエメンではサウジアラビアの仲介でサーレハ大統領が退場し、ハーディー暫定大統領のもとに新政府が発足したものの、部族社会のイエメンではフーシ派勢力が勢いを増し、サーレハ元大統領も加わって首都サナアを占拠した。ハーディー政権はアデンに逃れ、サウジアラビアなどのアラブ連合軍の空爆作戦で何とか命脈を保っている状態となり、国際社会の平和の基準からはリビアと共に失敗国家の烙印を押されている。

 

「アラブの春」が失敗国家に終わった例はシリアがその最たるものであろう。同国ではアサド政権、IS(イスラム国)勢力、スンニ派反政府勢力等が四分五裂し、そこに国際社会の勢力争いも絡みまさにくんずほぐれつの覇権争いを繰り広げている有様である。

 

「アラブの春」とは一体何だったのかという議論が絶えない。否、むしろ「春」などと言う甘味な言葉が誤解を招いたといって良いのかもしれない。欧米諸国は「春」という言葉に自分たちが信じるイデオロギー「民主主義」を重ねた。彼らは民主主義こそ現代社会の唯一絶対に正しいものだと主張する。仮にそうだとすると彼ら欧米諸国は絶対的(と自分たちが信じる)価値を押し付け、世界各国が有する多様な価値を否定していることにならないだろうか。

 

ともかく今言えることは「アラブの春」は短い宴の春だった、ということである。

 

(続く)

 

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2016年12月14日

第6章:現代イスラームテロの系譜
7.「アラブの春」の訪れ
 イラクのフセイン政権崩壊後もアラブ諸国の多くは強権的な独裁国家或いは世襲の君主制国家のままであり、西欧型の民主主義国家と言えば北アフリカのアルジェリア、中東のレバノン及び米国によってフセイン政権が叩きのめされ民主化にもがいていたイラクだけと言っても過言ではなかった。リビアのカダフィ政権、シリアのアサド政権、イエメンのサーレハ政権、エジプトのムバラク政権、チュニジアのベン・アリ政権はそれぞれ30年前後もの間独裁政権を続けていた。

 独裁者は大衆の心をつかむのがうまい。多くの場合独裁者は国家が乱れ国民が社会的経済的な混乱に右往左往している時に颯爽と登場する。混乱に倦み疲れた国民は彼が独裁者であると薄々わかっていながらも、社会に安定をもたらしてくれることを期待する。独裁者は強権的な手法で社会に秩序を打ち立て、さらに人気取りのポピュリズム政策で大衆の心をしっかりとつかむ。国民は熱狂して彼を支持し指導者として終生とどまることを求める。

 勿論そこには独裁者による巧妙な世論操作もあるが、大統領の多選を禁じた憲法は圧倒的多数で改正され彼は終身大統領となる。こうなれば国家は独裁者の思うままである。彼の権力基盤は盤石となり長期政権が延々と続く。さらに権力の世襲化も起こる。2000年に父親のハフィーズから息子のバシャールに大統領を引き継いだシリアのアサド政権に続き、リビアのカダフィ、そしてエジプトのムバラクも息子に権力を譲ろうと画策した。

 しかし権力は必ず腐敗するものである。政治社会組織にはほころびが目立ち始め経済は長期低落の罠に落ち込む。人気取り政策でパンやガソリン代、水道電気代は安く抑え込まれるため庶民の日常生活は一見支障のないように見えるが、街には失業者があふれ、庶民は明日の見えない閉塞感に襲われる。

 そのような庶民の絶望感がチュニジアで2010年12月、ある事件を引き起こした。生活のため已む無く路上で野菜を売っていた失業中の一人の青年に対して警察官が当局の許可がないことを理由に商品を没収した。当時のチュニジアの失業率は14%と公表されていたが、実際にはもっと高く、特に青年層では25~30%と言われるひどい状態であった。生活の糧を奪われた青年は市役所前の広場で抗議の焼身自殺を図った。焼身自殺そのものはイスラーム世界でもさほど珍しいことではなく、そのままであれば地元の新聞に小さく扱われただけだったと思われる。

50ArabSpring
 しかし偶々通り合わせた市民が一部始終を動画に収めてYouTubeに投稿したため騒ぎが一挙に拡大した。SNSは一端ネット上に掲載されると際限もなく拡がる。事件の一部始終をネットで見た若者たちは直ちに抗議活動に立ち上がり、デモを呼びかけた。デモはたちまち首都チュニスから全国に広がった。デモ隊は23年間にわたるベン・アリ大統領の退陣を求めた。デモ参加者の殆どは生まれた時からずっと同じ大統領である。彼らは「もう沢山だ(ファキーア)!」と叫んだのである。燃え盛る反政府デモに押され、ベン・アリ大統領はわずか1か月後政権を放り出してサウジアラビアに亡命したのであった。

 チュニジアの政変は同国の国花に因んでジャスミン革命と名付けられたが、革命の火は瞬く間にエジプト、リビア、スーダンなど北アフリカ諸国に燃え広がり、さらにシリア、ヨルダンはおろかGCCの王制国家バハレーンにも及んだ。エジプトの首都カイロのタハリール(革命)広場ではツィッターの呼びかけに応じて集まった大規模なデモ隊と国軍が衝突し多数の死傷者が出た。デモを鎮めようとしたムバラク大統領の演説がむしろ火に油を注ぐ結果となり、ついにムバラク大統領は辞任した(2011年2月)。

 西欧のメディアは一連の現象を「アラブの春」と名付けた。アラブの春は独裁政権の圧政下で鳴りを潜めていた中東各国の反政府活動家たちを奮い立たせ、イエメンでもサーレハ大統領が激しい反政府デモに晒され、最後には身内の部族や側近にも見放されて退陣に追い込まれた。反政府デモの指導者であった女性活動家がその年のノーベル平和賞を受賞したほどの高まり方であった。

(続く)

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2016年12月07日

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

6.もう沢山!長期独裁に倦んだ大衆

中東と北アフリカはMENAと総称されるが、このMENA地域が政変の少ない地域であったと言えば奇妙に聞こえるかもしれない。2011年のいわゆる「アラブの春」以来、この地域は激しい政治変動の嵐に見舞われている。しかし1973年の第4次中東戦争以降「アラブの春」までの40年近くMENA各国の政治は安定し、政変どころか政権交代さえなかった国が少なくない。各国で長期独裁政権が続いたのである。長期独裁政権はエジプト、シリアなどの世俗軍事政権だけではない。湾岸諸国を含めMENAに今なお残る君主制国家を含めてのことである。

 

MENA諸国はトルコ、イラン及びイスラエルを除きアラブ民族の国家であり、同時にトルコ、イランを含めムスリム(イスラーム教徒)が多数を占める国家群である。長期独裁政権を生む素地がアラブ民族と言う血(DNA)の絆とイスラームという信仰()の絆のいずれにあるのか、或いは両者があいまって政治的安定と言う名の長期独裁政権を生んで育てたのか。答えは簡単に出ないが、西欧諸国と比べた場合、どうしてもこの二つの要素が浮かび上がるのである。

 

そしてもう一つ、これらMENA諸国の政治的安定が各国の経済的繁栄や科学技術の進歩をもたらさなかったことも指摘できる(石油ブームで繁栄を勝ち得た湾岸諸国は例外)。似たような強権体制でありながらタイ、インドネシアなどの東南アジア各国が経済的繁栄を享受したのとは異なった道を歩んだのである。

 

MENAで最初に独裁者の地位を得たのはリビアのカダフィであった。カダフィのことは第4章でもふれたが、彼は1969年にクーデタで当時の国王を倒して最高指導者となった。若干27歳であった。彼はそれから42年間もその地位を保ち、2011年に内戦で69歳の人生を終えた。


49aハフィーズ・アサド
49bバシャール・アサド
 

彼の後に現れたのがシリアのハフィーズ・アサドである。シーア派の一派とされるシリア北部のアラウィー派の少数部族出身のアサドは空軍将校を経てバース党内で頭角を現した。1971年に大統領に選出されたハフィーズは長期政権体制を確立し次男のバシャール・アサドを後継者に指名して2000年に心臓まひで死亡した。バシャール・アサドはシリアが内戦状態にある現在も同国大統領の座にある。親子で通算するとすでに半世紀近い45年が経過している。

 

このほか1970年代に一国のトップに駆け上り、その後長期間にわたり独裁を続けた人物にイエメンのサーレハ元大統領とイラクの故フセイン大統領がいる。サーレハは陸軍総司令官を経て36歳の時の1978年に統一前の北イエメン大統領に就任、南北統一後も大統領の座を守り2011年のアラブの春で失脚した。但し彼は下野した現在でも反政府のフーシ派と連合勢力を結成、首都サナアを占拠して復活を狙っている。2011年までの大統領在任期間は33年に達する。そしてイラクのサダム・フセインはバース党幹部から1979年にイラク大統領に就任した。その後、イラン・イラク戦争さらに湾岸戦争をしぶとく生き延びたが、2003年のイラク戦争で失脚、裁判によって処刑された。彼の大統領在任期間は24年間であった。

 

北アフリカ諸国では上記のリビア・カダフィのほか、エジプトのムバラク、チュニジアのベン・アリ、スーダンのバシールがそれぞれ長期独裁政権を保持した。ムバラクは空軍士官として4度の中東戦争を経てサダト政権下で副大統領に任命され、サダトが暗殺された1981年に大統領に就任した。そして2011年のアラブの春で失脚するまで30年間にわたり大統領を務めたのである。チュニジアのベン・アリは1987年に大統領に就任した後、「アラブの春」で最初のやり玉にあげられ2011年に失脚、サウジアラビアに亡命している。中東の独裁者として最後に登場するのがスーダンのバシールであるが、彼はカイロの士官学校を卒業後、軍隊組織で昇進を重ね1989年の軍事クーデタで権力を掌握、以来27年を経た現在も大統領の座に座り続けている。

 

これらの7人の人物は成り上がりで権力を手中にした者たちである。しかし中東にはもう一つ別なタイプの強権的独裁者の一族がいる。それはサウジアラビアなど湾岸君主制国家の支配一族である。サウジアラビアはサウド家が支配する専制君主国家であり、その他UAE、クウェイト、オマーンなどいわゆるGCC(湾岸協力機構)各国はいずれも世襲制の君主によってすでに数十年どころか百年を上回る専制支配体制が続いている。

 

このような長期支配体制の国では1970~1980年代生まれの若者たちは物心ついた時の国家元首が成人になってもなおそのままである。若者たちは停滞感と閉塞感に包まれた社会の中で大人になる。彼らが一様に口にするのは次の言葉であった。

「もう沢山だ!」。アラビア語で言えば「キファーヤ!」。

 

「キファーヤ」はエジプトでムバラク政権に抗議する運動のスローガンとして2000年代初めに広がった。この言葉はインターネットのSNSを通じ各国で形を変えて若者たちの間に深く浸透していった。それが実際の革命運動にまで転化したのが2011年の「アラブの春」であった。

 

(続く)

 

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2016年11月30日

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

5.敵と味方を峻別する一神教

強引にイラク戦争に突入したブッシュ大統領は、フセイン政権をイラン及び北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」の一翼と決めつけ、「世界は米国側につくか、テロ側につくかのいずれかだ!」と叫んだ。あいまいさを許さぬ二者択一である。それは正義と悪の対決であり、宗教的に言えば神と悪魔の対決である。この場合もちろん米国が正義であり神(God)の代理人である。これに対してイラクは悪であり悪魔の代理人ということになる。そこには一神教のキリスト教が構造的に有している敵と味方を峻別する論理がある。

 

これを逆にイスラームの立場から見れば全く同じことが言える。つまりイスラーム諸国にとって正義は自分たちにあり自分たちこそ神(アッラー)の代理人である。そして米国や他のキリスト教西欧諸国は悪であり、悪魔の手先であると言うことになる。「悪魔の詩」事件がその好例である。英国の作家サルマン・ラシュディが1988年にムハンマドの生涯を題材にして著した小説がイスラームを冒涜するものだとして、当時のイランの最高指導者ホメイニ師が著者、発行者はもとより外国の翻訳者にまで死刑を宣告、日本語翻訳者の筑波大学助教授が何者かに殺される事件が発生した。

 

このような過激な反応は一神教特有のものである。ギリシャ神話、日本神道或いは仏教のような多神教(仏教を多神教と見るかどうかは異論があろうが、キリスト教やイスラームのような一神教と異なることは間違いない)では、善と悪、神と悪魔は自らの心の中に共存していると教える。ここでは敵と味方の闘争はあっても、それは決して正義と悪の対決、神の代理人と悪魔の代理人の対決ではない。

 

敵と味方を正義と悪、神と悪魔で峻別する一神教の世界で敵と味方に分かれるケースは三つ考えられる。一つは異なる宗教との対決(異教対決)、二つ目は宗派の違いによる対決(宗派対決)、そして三つ目は同じ宗派の中の正統派と異端派の対決(異端対決)である。そしてそれぞれの対決のなかでテロが発生する。

 

これら三つの対決をイスラームの側面で見ると、異教対決とはイスラームとキリスト教及びユダヤ教との対決となる。イスラエルとアラブ諸国の間の中東戦争、或いはアル・カイダが911同時多発テロを始め世界各地で引き起こした対米テロ事件は異教対決のケースと言えよう。ソ連共産主義と対決したアフガン戦争は一神教対無神論の対決として一種の異教対決と見ることができる。そして二つ目の宗派対決はシーア派対スンニ派の対決としてのイラン・イラク戦争がその典型と言える。

 

三つ目の同一宗派内の異端対決は現代イスラム世俗主義とイスラム原理主義(サラフィー主義)の対決となるが、こちらは少し問題が複雑になる。何故ならこの対決ではお互いに自分たちこそ正統派であり、相手方を異端者、背教者と呼び合う。それぞれが自分たちこそ教祖ムハンマドの正しい教えに従っていると主張して互いに譲らない。妥協の余地は全くないと言ってよい。

 

異端対決は中世キリスト教社会でも起こった。カソリック対プロテスタントの対決である。しかし西欧キリスト教社会はこの対決を克服し、相互不可侵の形で共存している。しかるにイスラームではどうしてこの対決を克服できないのであろうか。

 

イスラームの場合、原理主義はムハンマドの布教初期の精神に立ち返ろうと呼びかけるサラフィー主義、つまり復古主義である。原理主義者たちは教義と組織を近代社会に合わせようとしているのではなくむしろその逆である。

 

なぜそのような復古主義が大手を振ってまかり通るのか。それはイスラームがたかだか7世紀余り前、すでにある程度の世界規模の通商体制が整った14世紀に生まれたためと考えられる。原理主義者たちは7百年前の当時に戻ることが可能だと説く。キリスト教にも原理主義はあるが(元来「原理主義」という言葉は米国福音派の機関紙名が起源である)、キリスト教が生まれた今から2千年前は農耕牧畜の農奴社会の時代であり、生活のすべてを復古することはあり得ず、ただキリストの教えの原点に立ち返ろうということになる。ところがイスラームの原理主義者たちはできるだけ昔の生活を取り戻そうと本気で考える。

 

原理主義者たちは自分が絶対正しいと信じ込んでいるだけに拙速に自分たちの理想の実現に取り組む。この結果、彼らは対決する相手だけではなく、一般市民からも敬遠される。それでも彼らの勢力が衰えない間は、彼らは一般市民を無理やり従わせようとする。従わない者は「異端者」或いは「背教者」として暴力的に排除される。そして彼らの思想に同調或いは感化された過激な若者をテロリストとして利用し、自爆テロで命を落とした場合は「殉教者」として祭りあげる。教義に逆らえない一般市民はただただ過激な原理主義の嵐が通り過ぎるの耐えて待つことになる。

 

ところがイラク戦争は全く別の次元で始まり、別の次元で終わった。米国がイラク戦争の開戦理由とした大量破壊兵器は見つからず、またフセイン政権とアルカイダとの関係も証明できなかった。湾岸戦争ではクウェイト解放という大義名分があったが、イラク戦争が何だったのか米国は答えられない。

 

それでも米国は戦争により圧制者サダム・フセインの政権が倒れ、イラクに民主政権誕生の素地が生まれたと主張した。しかしフセイン政権崩壊後のイラクはまるでパンドラの箱を開けたかのごとき様相を示した。3年後の2006年、サダム・フセインは公開裁判を経て処刑されたが、イラクはスンニ派とシーア派が攻守を変えた政争に明け暮れている。そこに付け込んだのが「イラクとシリア(或いはシャーム)のイスラム国(略称ISIS)」であり、後にアブ・バクル・アル・バグダーディが自らカリフを名乗る「IS(イスラム国)」となって猛威を振るっている。

 

米国は帝国主義時代の英国、フランスに次いで中東で大きな問題を起こした。これが間違っていたかどうかは今後の歴史が決めることである。キリスト教中世のプロテスタント異端論争ですら問題が落ち着くまでに数百年が必要であったことを考えれば、中東イスラーム世界で現在起こっている事象の正誤を判断するにはまだ相当の年月を要するに違いない。

 

中東イスラーム世界の異教対決、宗派対決、異端対決が第二次大戦後のわずか100年足らずで円満解決の大団円になるはずはない。しかるにこの世に正義と神の国を実現せんとして真っ向から対決する米国もISも解決を急ぎすぎている。

 

甚だ無責任な言い方に聞こえるであろうが、ここしばらくは「奢れるものは久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」の心境で事態の推移を見守るしかないようである。

 

(続く)

 

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