中東の戦後70年

2017年01月25日

エピローグ

 

3.見果てぬ平和

 皮肉にも「アラブの春」が中東でそれまでにない大量の難民を生んだ。故郷で名も無くつつましく暮らしていた彼らはやむを得ず国境を越えて逃げ延びた。そもそも彼ら庶民にとって「国境」は自分たちが生まれる前に英国とフランスがサイクス・ピコ協定を結び自分たちの手の届かないところで勝手に線引きしたものであった。そして今、「IS(イスラム国)」によって自分たちの目の前で国境が「溶けて」行こうとしている。

 

 国境があるがために紛争に巻き込まれ故郷を追われる中東の難民の苦悩は、周囲を海に囲まれ地上の国境線を持たないがゆえに当たり前のように平和を享受している日本人には理解することはとても難しい。

 

「国破れて山河在り」というのは東洋思想である。しかしイスラームの一神教の世界ではそのような自然観を持つことも難しいようである。アラブの年配者たちの間では「これもすべてアラーの思し召し」とばかり運命をあるがままに受け入れる者も多いが、現世の矛盾と不平等に内心の怒りをたぎらせる若者はアラーが約束した来世の天国に急ぐため、「殉教」の名のもとに自爆テロに走る。

 

ITの世界を好む若者たちはテロリストにはならずインターネットのSNSを通じて社会改革を求める。彼らはSNSで独裁者打倒の反政府デモを呼びかける。呼びかけに応じて多数の若者が街頭に繰り出し独裁者の退陣を勝ち取ったのが「アラブの春」であった。しかしその後が続かない。それはなぜだろうか。インターネットで呼びかければ世の中がかなり簡単に動くことは実証された。しかし世の中を動かすことは簡単であっても、世の中を変えることはたやすくない。

 

現状で見る限りアラブ世界では学生たち民主主義勢力の成果は部族勢力或いは宗教勢力が引き継いでいる。民主主義勢力は「成果を横取りされた」と嘆くが、それが現代アラブ・イスーラム世界の現実である。アラブ・イスラーム世界では部族という「血」の絆、そしてイスラームという「心」の絆は強く根を張っているが、民主主義に代表されるイデオロギーという「智」の絆が欠けている。イデオロギーは智(=頭脳)の産物であるが、中東にはそれが無いのである。だが「血」の絆、或いは「心」の絆では対立は解消されない。イデオロギーは必ずしも西欧流の民主主義である必要はないが、中東に何らかのイデオロギーが生まれなければ次なる平和への展望は開けないように思われる。

 

「アラブの春」以前の独裁政治の長い窮屈な時代が今よりも平和であったという庶民の声が聞こえる。現実の混乱状況(カオス)の前ではそれは確かに一面の真理を突いている。「自由な平和は短く、窮屈な平和は長続きする。」ということであろうか。皮肉なパラドックスである。

 

戦後70年、歴史は目まぐるしく変化した。変化の速さに慣れた現代人は、自分の生きている間に歴史が動くものと錯覚しているのかもしれない。その錯覚の先にあるのが永遠の平和であろう。中東の平和は見果てぬ夢なのであろうか? 夢で終わらせずいつか平和の女神から月桂冠を受け取る偉大な指導者が中東に現れることを願ってやまない。

 

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       荒葉一也

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2017年01月18日

エピローグ

 

2.増え続ける中東の難民

国家間の戦争或いは国内で内戦が勃発すると何の罪もない市民に多くの犠牲者が出る。それは戦火に巻き込まれる死者や負傷者という形だけではなく、戦火に追われて住み慣れた土地や家を失い異郷を彷徨う難民になる者も少なくない。

 

第二次大戦後の中東で難民が最初に発生したのはイスラエル独立戦争(第一次中東戦争)であった。彼らはパレスチナ難民と呼ばれ、イスラエル国内のパレスチナ自治区と周辺のヨルダン、レバノンに逃れた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に登録されたパレスチナ難民は450万人に達するとされる。レバノンには12の難民キャンプがあり45万人が劣悪な環境の中で暮らしている。

 

パレスチナ難民問題が解決しないまま、最近になってさらに大規模な難民が発生した。「アラブの春」を契機にシリアで政府軍と反政府軍が衝突、さらに過激なイスラーム原理主義組織が「イスラーム国」(IS)の樹立を宣言するに及んで、シリア、イラクにまたがる紛争地帯で大量の難民が生まれたのである。「難民」を「量」として十把一絡げにしてしまう「大量の難民」という言い方には良心の呵責を感じるがほかに適切な呼び方が無い。

 

シリア紛争で国外に逃れたシリア難民は約410万人、国内で避難生活を送っている人々は760万人に上ると言われる。実にシリアの総人口の約半数であり、世界の避難民総数の5分の1を占める規模に達している。シリアの内戦が泥沼状態になると共に国内避難民への救援物資は滞り、満足な栄養や医療が行き渡らなくなった。彼らはトルコ、レバノン、ヨルダン等の周辺国の難民キャンプを目指したが、キャンプ自体がすでに飽和状態である。

 

そこで彼らは陸路伝いに徒歩で西ヨーロッパ、中でも移民に優しいとされるドイツを目指す。シリア難民の多くは都会暮らしの中流階級出身である。彼らは故郷の街にいるころから西ヨーロッパの平和で豊かな生活を知悉しており、一方「イスラーム国」(IS)の野蛮で非文明的な行状をインターネットで見るにつけ、ISが自分たちの街を支配した場合の恐怖感に怯えた。だから彼らはISの足音が近づくと、一切合財の家財道具を投げ売りしてトルコに逃げ延び、そこから西ヨーロッパを目指したのである。


55難民
 

彼らは着の身着のままで地中海を渡ろうともがく貧しいアフリカ難民とは異なり、難民ではあっても無一物ではなかった。難民の定義づけではアフリカ難民は経済難民であり、これに対してシリア難民は政治難民である。そのシリア難民が命の次に大切にしたものがスマートフォンであった。徒歩で西に向かう彼らはスマートフォンで現在の居場所を確認するとともに、先を行く知人友人からどこの国境検問所が難民を受け入れそうか、或いは国境が閉鎖されている場合は無断越境が可能なルートを探る。さらにそれらの情報を自分たちの後を追っている友人や親戚に知らせる一方、すでにヨーロッパに移住している親族と連絡を取り合って落ち着き先を探す。スマートフォンはまさに命綱であった。

 

 

 しかしヨーロッパ各国の難民の受け入れも限界に近付いたようである。各国の経済負担の限界を超えたというよりもむしろ大量の移民がもたらす市民自身の失業に対する不安感或いはイスラームテロなどに対する政治的社会的恐怖心が蔓延してきた。すでに多くのアフリカ難民がヨーロッパの大都市周辺に定住し、そこで生まれ育った移民二世たちの失業率は高く、彼らのある者はイスラームの過激思想に染まり、自暴自棄に陥り都市での自爆テロに走るようになった。他方、白人たちの不安を掬い取るように極右勢力は移民排斥、イスラーム排斥を主張して国民の支持を集めている。

 

(続く)

 

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2017年01月11日

エピローグ

 

1.東と東の遭遇

イスラエルとの戦争でヨルダン川西岸のパレスチナの地を追われ東隣のヨルダンに逃げ延びたパレスチナ難民たちは、生活のため1960年代前後に石油ブームに沸くクウェイト、サウジアラビアなど豊かな湾岸諸国に出稼ぎ者として移り住んだ。そこはヨルダンからさらに東方であり、この時期パレスチナ難民は東へ東へと向かったことになる。彼らはもちろん湾岸の地を終の棲家にしようとしたわけではない。湾岸諸国は彼らの永住を認めなかったし、彼ら自身も石油の富を鼻にかけた無能で尊大なだけのベドウィンの国は我慢できなかった。パレスチナ人の多くは国際社会の仲介でイスラエルとパレスチナが平和協定を締結し二国家共存体制になれば祖国の地に帰還できると期待していた。

 

しかし度重なる中東戦争でパレスチナ独立の夢はむしろ遠のいた。それに追い打ちをかけたのが1990年のイラクによるクウェイト進攻であった。世界中がフセイン政権の暴挙を非難し、とりわけサウジアラビアなど湾岸の王制国家はクウェイトの次の餌食になるのではないかと強い危機感を抱いた。ところがヨルダン政府とPLO(パレスチナ解放機構)はイスラエル打倒を叫ぶフセインを支持したのである。その結果湾岸戦争の後、当然のことながらクウェイト及びサウジアラビア政府は出稼ぎのヨルダン人及びパレスチナ人全員を国外追放処分にした。

 

クウェイトとサウジアラビアの国境地帯で操業していた日本の石油開発会社で働く3人のアラブ人たちも決断を迫られた。ヨルダン人のカティーブはパレスチナ人のザハラを誘って、実家のあるアンマンに帰ることにした。出稼ぎ中に貯めた資金を元手にカティーブはアパート経営を、ザハラは自動車修理工場を立ち上げるつもりであった。残るもう一人のパレスチナ人シャティーラは米国で働く弟を頼って移り住むことにした。東へ東へと向かっていたパレスチナ人たちは、一転して西へと移動し始めた。

 

ある一夜、日本人の同僚が3人のために送別会を開いてくれた。日本人専用の社宅のためサウジアラビアでは御法度のアルコールもふるまわれ一同は思い出話にふけった。勤務年数は最も長いシャティーラで30年、カティーブでも21年に達し人生の壮年期を日本企業で働いたことになる。出稼ぎ者の彼らがこれほど長く一つの会社に勤めることは珍しい。普通のクウェイトやサウジの企業であれば、オーナーの気まぐれで首になったり、或いはオーナーの横暴に耐えかねて転職していたに違いない。しかし日本人の会社は落ち着いて働ける会社であり、職場環境は居心地が良かった。政府と会社の利権契約が2000年までであり、彼らはできればその時まで働き続けたいと思っていた。しかし歴史に振り回されてきたパレスチナ人たちは今回の国外追放も運命の一つとして淡々と受け入れたのであった。

 

彼らは温厚で誠実な日本の企業で働くことができたことに素直に感謝していた。そして第二次世界大戦に敗れ焦土と化したその国が奇跡的な復興を遂げ、今では自分たちの身の回りに自動車、テレビ、カセットレコーダー、冷蔵庫など日本製品があふれていることに驚異と称賛を惜しまなかった。さらに日本人たちが人種の差別なく平等に扱ってくれることがうれしかった。それはこの会社に入るまでには無かった経験であった。

 

会話が弾む中、背後のカセットレコーダーから聞き覚えのない澄んだ女性歌手の歌声が流れてきた。メロディーはどうも中国の歌曲のようである。シャティーラが隣席の日本人に聞くと、歌手は有名な台湾女性で歌曲名は「ホー・リー・チン・ツァイ・ライ(何日君再来)」と言うらしい。愛する人との別れを惜しみ、いつの日か再会できることを願う歌だそうだ。

 

人生難得幾回醉,不歡更何待!

(人生で幾度も酔えるものではない、ためらうことなく今を楽しみしましょう)

來、來、來,喝完了這杯再説吧。

(さあ、さあ、さあ、まずこの一杯を飲み干しましょう)

今宵離別後,何日君再来?

(今宵別れたら、君はいつまた来るの?)

 

パレスチナ人にとって「君」とは「平和の女神」であった。「平和」はいつも彼らのもとを足早に通り過ぎる。甘く切ないメロディーと歌声がアラブ音楽とはまた一味違う郷愁を呼び起こした。中東(Middle East)と極東(Far East)の名も無い人々の心が触れ合う一夜。それは東と東が遭遇するひと時であった。

 

パレスチナからヨルダンさらに湾岸諸国へと東に移動したシャティーラは今度は一足飛びに西半球の米国に移住したのであった。彼はそこで豊かとは言えないが、平和な生活を手に入れた。キリスト教国の米国でイスラーム教徒が生活することは決して楽なことではなかったが、米国はやはり平和と安全に守られた世界一の国であった。

54ラニア王妃
 

米国とヨルダンの間で手紙と電話が頻繁に交換された。遠く離れたヨルダンに住む両親やかつての同僚とはこれから先、顔を合わせることができるかどうかはわからない。それでも彼らの「血」の絆がゆらぐことはない。父親からの手紙でかつての隣人アル・ヤーシン家の娘ラニアがカイロ留学から戻り、ジャーナリストとして活躍している時、ハシミテ王家の皇太子に求婚され現代のシンデレラになったと知らされた。パレスチナ人の血とイスラームの始祖ムハンマドに連なる由緒ある家系ハシミテ家の血が一緒になったのである。それは新しい時代を予感させる出来事であった。

 

(続く)

 

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2017年01月04日

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

10.シリア情勢:敵の敵は味方か敵か?

シリア内戦は基本的にはアサド政府とその退陣を求める反政府組織の軍事闘争である。国際的な力学関係でみるとアサド政府を支援しているのがイランとロシア。イランはアサド一族がアラウィ派(シーア派の一派)であることが主な理由であり、ロシアはシリアに中東で唯一の軍港を保有している。ロシアにとって冬季に凍結するバルト海に比べ黒海からボスポラス海峡を抜けて地中海に至る航路は軍事的に重要な意味があるためアサド政権側に立っている。これに対して米国など西欧諸国は反政府組織を支援している。独裁政権を打倒し自由な民主主義政権を樹立することが反政府組織支援の大義名分である。またサウジアラビアなどのアラブ諸国とトルコも一致して反政府支援である。こちらはシーア派のアサド政権及びこれをバックアップするイランに対する対抗措置である。


53シリア勢力図
 

ところがシリアの反政府組織は一枚岩ではない。それどころか思想信条を異にする呉越同舟の集団である。構成メンバーの勢力の消長は激しいが、主なものとしてはクルド人民防衛隊(YPG)と複数のアラブ系反政府勢力から成るシリア民主軍(SDF)並びにヌスラ戦線がある。そして政府組織、反政府組織のいずれとも異なる第三勢力としてIS(イスラム国、別称ISILISIS、ダーイシュ)がある。

 

SDF内の有力な勢力であるYPGはシリア北東部に住むクルド人による軍事組織である。クルド人はシリア、トルコ、イラン、イラク4か国に分布しており民族独立を掲げてそれぞれの政府と対立している。シリア民主軍はスンニ派の世俗軍事勢力として米国、トルコ、サウジアラビアなどが支援しているが、トルコはクルド人の独立運動を警戒してYPGを排除しようとしている。

 

ヌスラ戦線(現ファトフ軍)は国際的テロ組織アル・カイダの流れを汲んでおり、イスラム原理主義、サラフィー主義を標榜する宗教的色彩の濃い勢力である。このヌスラ戦線から枝分かれしシリアとイラクにまたがる国家の建国を宣言したのがISである。当初「イラクのイスラム国(ISI)」を名乗ってテロ活動を展開していたが、2013年12月に米国オバマ大統領がイラク戦争の終結と駐留米軍撤退を宣言すると、活動をシリアにも広げ「イラクとシリアのイスラム国(ISIS)」と改称、さらに2014年には「イスラム国(IS)」として独立宣言するまでに強大化したのである。但し国家とはいってもその内情は残虐なテロ集団、夜盗集団であり、ISを国家として認めた国は皆無である。

 

これら多種多様な勢力に対して外国勢も肩入れの仕方が猫の目のように変わる。米国は反政府勢力の中のリベラル民主勢力であるシリア民主軍を応援するため武器を供給し軍事訓練を行おうとした。しかし西欧的民主主義イデオロギーが希薄な中東では、リベラル勢力はひ弱で武器や資金援助も結局砂漠に水を撒くように雲散霧消している。

 

サウジアラビアなど湾岸の世俗君主制国家もシリア民主軍に肩入れするが、こちらは消去法での支援選択である。つまりGCC諸国はヌスラ戦線やIS(イスラム国)のようなサラフィー主義(イスラム過激主義)は自分たちの体制を危うくするが、イランの支援を受けるシリア政府はもっと受け入れがたい。本音ではリベラル勢力を警戒しているが、欧米と歩調を合わせておけば絶対君主体制はひとまず安泰であるため、消去法の選択肢としてシリア民主軍に賭けているのである。しかし欧米の武器支援と湾岸諸国の経済支援を受けているにもかかわらずシリア民主軍の実戦能力は他の反政府勢力と比べて格段に劣っており、彼らは自分たちの身を守るだけで精一杯である。

 

イスラーム過激派勢力であるヌスラ戦線(現ファトフ軍)とイスラム国(IS)は宗教意識が強く自己犠牲をいとわないため戦闘能力は高い。しかし宗教をバックとする勢力は指導者次第であり簡単に分裂する。ISIL(イラクとシリアのイスラム国)の指導者バグダディはヌスラ戦線と袂を分かち中央政府に対する反政府活動ではなく、外国の支援に頼らない自らの国家「イスラム国」を樹立した。彼らは西欧勢力が植民地時代に線引きをした現在の国境(サイクス・ピコ協定)を認めない。彼らは理想のカリフ制イスラーム宗教国家を目指し、インターネットを利用して外国に住む若者を巧みに誘い、戦闘員に仕立て上げている。

 

独立自営型の「IS(イスラム国)」、アル・カイダのネットワークに頼るヌスラ戦線、クルド人兵士に支えられ欧米と湾岸諸国の援助に頼るシリア民主軍。これら乱立する反政府組織と対峙するのがロシアやイランに支えられるシリア政府軍。基本的にはアサド政権を支えるロシア・イランと反政府勢力をバックアップする中東及び欧米諸国という対立構造の中で諸勢力が群雄割拠してシリア情勢は混乱を極めている。

 

しかし最近になって諸外国の共通目標がIS(イスラム国)の壊滅に絞られた。これに対して劣勢に立ったIS(イスラム国)が欧米やロシアに住むムスリム(イスラーム教徒)に自爆テロを呼びかけている。さらにIS戦闘員が自国に戻ってテロ活動を行う恐れも大きい。前者はホームグローン・テロ、即ち「ご当地テロ」であり、後者は「里帰りテロ」ということになる。これら「ご当地テロ」と「里帰りテロ」を防ぐためにもできるだけ早くISを壊滅しなければならない。そのISに今対抗できるのはシリア政府の正規軍とシリア民主軍のクルド人部隊しかない。ただクルド人部隊は米露トルコいずれも支援する立場にない。

 

結局奇妙なことに米国など欧米諸国は空爆でIS(イスラム国)の拠点を叩くだけで、アサド政権退陣の要求はひとまず棚上げし、シリア政府とロシアの軍事行動を黙認することになる。シーア派のアサド政権が最大の敵であり、消去法で已む無くリベラル反政府勢力のシリア民主軍を応援してきたサウジアラビアなど湾岸諸国は米国からはしごを外された格好である。

 

敵の敵は味方か、それとも別の敵か? 混迷深まるシリア情勢は先の見えない中東情勢そのものと言えよう。

 

(続く)

 

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2016年12月28日

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

9.混迷深まる中東
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  第二次大戦後の中東はアラブとイスラエルが対立する世界であった。そこでは敵と味方の区別が明らかであり、民族も文化も異なるが宗教(イスラーム)が同じであるアラブ、イラン、トルコの敵はイスラエルのみであり、お互いは味方同士であった。そして米国はイスラエル(敵)の味方であるため、アラブ・イスラ-ム圏は米国を敵とみなした。即ち敵の味方は敵なのである。但し米国は遠く離れているため、シャー体制のイランのように中東一の親米国となる国がある一方、ナセル体制のエジプトはソ連になびいた。

 

敵、味方の構図を一変させたのが四次にわたる中東戦争におけるイスラエルの圧勝であり、さらにその後のイラン・イスラム革命であった。イスラエルの圧勝によりアラブ諸国内にはエジプト、イラクなどの世俗軍事国家とサウジアラビアなど専制君主国家との間に緊張が生まれた。さらにイラン革命でホメイニ体制のシーア派の政教一致国家が生まれると、スンニ派が実権を掌握するイラク及び湾岸諸国とシーア派のイラン及びシリアとの宗派対立が表面化した。問題を複雑にしたのがイラク及び湾岸王制国家のバハレーンでは少数派のスンニ派が多数を占めるシーア派住民を支配していることであり、他方シリアでは少数派のシーア派アラウィ教徒のアサド(父子)がスンニ派とクルド民族を抑え込んで実権を握るという少数派と多数派の逆転現象が発生したことである。

 

その結果イラン・イラク戦争はアラブ人対ペルシャ人(イラン)という因縁の民族的対立に加えシーア派対スンニ派という宗派対立の構図が炙り出され、君主制の湾岸諸国が世俗国家イラクを後押しする羽目になった。これに対してイランはシリアを側面支援してレバノンを舞台にシリアとイスラエルの代理戦争を演出、さらにイラク及び湾岸諸国のシーア派住民を使嗾して各国の体制に揺さぶりをかけたのであった。加えてホメイニ憎しの米国は民主主義の理念を棚上げして独裁国家イラクを支援した。

 

こうして中東地域ではイランとイラクが直接敵対する関係になり、湾岸諸国にとって味方(イラク)の敵(イラン)は敵という訳であり、中東イスラームという一つの地域の中に敵と味方が混在する構図となったのである。かつてのイスラーム諸国対イスラエルという単純な二項対立が宗派を介して複雑化した。逆の立場のイランにとっても同じことがいえる。即ち味方(シリア)の敵(イスラエル)は敵であり、敵(イラク)の味方(サウジアラビアなどの湾岸諸国)は敵である。そして奇妙なことにサウジアラビアにとってイラン、シリアの敵であるイスラエルはこれまで通りやはり敵なのである。

 

中東戦争まではアラブ・イスラーム対イスラエルの2項対立であったものが、イラン・イラク戦争時代には3項或いは4項対立の様相を呈した。敵の敵が味方か敵か、はたまた敵の味方が敵か味方か、判然としなくなったのである。但し対立は重層化したものの、敵か味方かの区別は国家単位であり、それぞれにとって誰が味方で誰が敵かははっきりしていた。

 

しかし対立が一つの国家内での政府と反政府組織の軍事的対立となったとき、他国がどちらに肩入れするかで敵と味方の区別がつきにくくなる。まして反政府組織が分裂したり、同床異夢の寄り合い所帯であったりすると問題が複雑になる。IS(イスラム国)が従来の国境を無視して国家樹立を一方的に宣言し、加えて超大国の米露や地域の大国であるイラン、トルコ或いはサウジアラビアがそれぞれの思惑で政府或いは反政府組織に介入すると問題は多項方程式を解くように際限もなく複雑化する。それこそが現在のシリアなのである。

 

(続く)

 

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