Bahrain

2006年08月30日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
(第6回) 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
(第7回) 経済の課題(対米FTAのつまづきとGCC回帰)


(第8回) 女性の活躍 (国際舞台で活躍するハリーファ家の女性他)
 イスラム教を国家の精神的支柱とし女性に対する制約が強い湾岸君主制国家の中で、バハレーンはクウェイトと並び女性の社会進出が進んでいる。その象徴が4人の女性、即ちハマド国王の王妃サビーカ妃、外交経験が豊富で今年9月から国連総会の議長を務めるハヤ女史、そして二人の女性閣僚ナダー保健相とファーティマ社会問題相、である。このうちサビーカ妃とハヤ女史はハリーファ王家の王族である。そしてナダー保健相はテクノクラートであると同時に同国の多数派であるシーア派出身であり、ファーティマ保健相の前職はバハレーン大学の教授である。

この4人の女性は現在数少ない湾岸首長国の女性要人の出身階層の特徴を典型的に示している。それは(1)王族であるか、または(2)教育・医療部門のテクノクラートとして名をなした女性であり、或いは(3)海外留学の経験がある、ことである。以下に4人の背景を紹介することにより女性の社会進出の条件の分析を試みる。

まずサビーカ王妃について。王妃は1948年生まれであり、従ってハマド国王より2歳年上である。国王の曽祖父ハマド一世(治世:1932-42年)と王妃の祖父ムハンマドが兄弟(イーサ第6代首長の次男と四男)と言う縁戚関係にある。彼女は1968年に当時皇太子のハマドと結婚し、1969年に長男サルマン(現皇太子)を生み、彼を含めて息子3人、娘1人の母親である。

 サビーカ王妃は現在「アラブ女性連合最高評議会(The Supreme Council of the Arab Women’s Organisation, AWO)」の議長を務めている。このAWOには、エジプト大統領夫人、ヨルダン王妃などアラブ諸国のファースト・レディが名を連ね、世界に向けて積極的な発言を行っている。今年6月にサビーカ王妃が議長となり、バハレーンで第2回アラブ女性サミットが開催されている。この女性サミットには、スザンナ・エジプト大統領夫人、ラニア・ヨルダン王妃、アスマ・シリア大統領夫人のほか、UAE、リビア、パレスチナ、アルジェリアなど各国のトップ・レディが参加している。

 最近注目されるのは、去る8月4日にサビーカ妃を含むAWOの9人のメンバーが、イスラエルのレバノン侵攻に対してイスラエルを非難し、即時停戦を求める声明を発表したことである。アラブの女性がこのように直接的な外交手段に訴えることはこれまでになかったことであり、特に湾岸首長国のトップ・レディとしては画期的な出来事であろう。

 サビーカ妃は女性の地位向上のため内外で積極的な発言を行っており、例えば昨年9月には英国ケンブリッジ大学で講演し、アラブ諸国は女性の役割を認識すべきである、と主張、さらに外国人と結婚したバハレーン女性の子供に国籍を与える用意がある、とまで発言している。王妃のこのような大胆な発言は、米国の留学経験があり、開明的な思想を持つ夫のハマド国王の影響によるものと思われる。ハリーファ家の王族女性の一員として教育された王妃が革命的な思想を持っているとは思えないが、彼女の言動が宗教界或いは女性を含めた一般市民の保守層の反発を招かないかが危惧されるほどである。

shaikhahaya.jpg 同じ王族の女性ではあるが、サビーカ王妃の又従姉妹であるハヤ女史(1952年生)はクウェイト大学を卒業した後、フランスのソルボンヌ大学、エジプトのアレキサンドリア大学など30歳過ぎまで外国の大学で法律を学んだ国際経験豊かな女性である。彼女は中央官庁に就職、法律事務所のコンサルタントを経て、その後再び海外に転じて世界知的所有権機関(WIPO)調停委員会に勤務し、2000年には駐仏大使となった。現在はRoyal Court法律顧問であり、9月12日に始まる第61回国連総会の議長に選任されている。国連の女性議長は彼女で3人目であり、もちろんアラブ女性としては初めてである。このことからも彼女の能力が並々ならぬものであることがわかる。なお隣国カタルは現在国連安全保障理事会の非常任理事国である。レバノン南部へのイスラエル侵攻とそれに続く国連軍派遣、イラン制裁など中東の諸問題が山積しており、バハレーンとカタル両国が国連の枠組みの中でどのような活躍を見せるか非常に興味深い。

 2004年4月にバハレーン初の女性閣僚として保健相に任命されたナダ女史は医学博士である。ナダ保健相はエジプトとアイルランドで薬学を学び、帰国後保健省に入省した。彼女はバハレーンの多数派であるシーア派教徒である。前任者が医療改革に手を付けようとして医師団体の反対に会い失脚したために、彼女は妥協の産物として抜擢されたと言われているが、女権拡張論者として活発な活動も行っている。

 ナダ保健相に次ぎ昨年1月の新内閣で二人目の女性閣僚としてファーティマ社会問題相が誕生した。前職はバハレーン大学の教育学部長であり、彼女は18歳を筆頭とする3男1女の母親でもある。女子教育のパイオニアとしてアカデミズムの分野からサビーカ王妃の活動を支えてきており、今回の人事には王妃の後ろ盾があったことは間違いないであろう。
 以上4人のトップレディに見られる特徴は、高貴な家柄或いは高い学歴である。ハマド国王の妃となったサビーカ妃は別格として、その他の3人は海外留学を含む大卒である(ファーティマ社会問題相の経歴は不明であるが、前歴から推測して海外留学の経験があることは間違いない)。彼女たちの年齢の女性で大学卒は極めて稀で、まして海外留学できるのは名門の家系であることを示している。

 アラブ諸国は男性絶対優位の社会であるため、高学歴の女性が社会進出できる分野は自ずから限られている。それは自国を離れ、男女平等の国際社会で働くか(ハヤ女史の例。ただし彼女がフランス大使になれたのは王族であったからである)、或いは学校教育、病院など男女が分離されているが故に教職或いは女医として働くか(ナダ及びファーティマ両女史の例)、のいずれかである。現在のところ技術系や経営系の分野は女性に対する門戸が閉じられているのが実情である。

バハレーン以外のGCCのトップ・レディを見ると、サビーカ王妃ほど活発に活動しているのは、カタルのモーザ王妃くらいである。また女性閣僚が二人いるのもバハレーンだけで、クウェイト、カタル、UAEなどは1名にとどまっている。バハレーンにおける女性の社会進出は欧米先進国の基準から見ると未だ不十分であろう。しかし他の湾岸諸国に比べてかなり進んでいることに異論の余地はない。

(第8回 完)

(今後の予定)
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 08:52 

2006年08月28日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
(第6回) 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)


(第7回) 経済の課題(対米FTAのつまづきとGCC回帰)
 バハレーンはGCC6ヶ国の中で最も古い歴史を持っており、古代バビロニア、アッシリア時代にはディルムーンと呼ばれる貿易中継地として、また中世には天然真珠の産地として栄えた。しかし1869年のスエズ運河の開通によりヨーロッパとアジアの通商ルートは紅海に移り、アラビア湾の海運は衰退した。また真珠採りも日本の養殖真珠により壊滅的打撃を受け、バハレーンの経済は傾いた。

 20世紀半ばの石油開発ブームによりクウェイトに次いでバハレーンでも石油が発見されたが、すぐに対岸のサウジアラビアでガワール油田など巨大油田の生産が始まり、バハレーンの石油ブームは短期間で終息した。

バハレーン経済が息を吹き返したのは1970年代の二度のオイルショック及びレバノン内戦であった。湾岸産油国では豊かなオイル・マネーによる道路・港湾・空港などインフラ整備のための巨大プロジェクトが目白押しとなり、それでも使い切れない余剰マネーの運用を目指して欧米先進国の金融機関が群がった。その頃、中東の金融の中心であったレバノンのベイルートが内戦で破壊され、金融機関はその拠点をバハレーンに移した。これにより同国は金融を中心に活況を呈した。

しかし湾岸各国のインフラ整備が一段落し、また金融の世界的なオン・ライン化によりバハレーンのオフショア金融センターとしての重要性が低下したことにより、この活況も終わりを告げた。さらにドバイが近代的な港湾・空港及び巨大なフリー・トレード・ゾーン(自由貿易地域)を建設して、中継貿易の地位をバハレーンから奪った。

このようにバハレーン経済は激しい浮沈を繰り返し、現在は低迷状態を続けているのである。例えばGDPを見ると1989年にはバハレーンはGCC全体の2.7%を占めていたが(GOIC資料による)、2005年には2.2%となり、GCCの中でバハレーンの地位が低下していることがわかる。

バハレーンは長期に低迷している経済を回復するために様々な手を打ってきた。1995年にはクウェイトと共にGCCでは最も早くWTOに加盟したが、これはサウジアラビアより10年早かったのである。そしてバハレーンは2004年にGCCで最初に米国とFTA(自由貿易協定)を締結した。

 米国とのFTA締結は、GCCの中で自国の立場を強化したいとするバハレーンの思惑と、一方では湾岸君主制国家の民主化を促そうとする米国の思惑が一致したからである。米国にとってバハレーンは湾岸での民主化(それがたとえ君主制のもとでの限定的な民主化、即ち「コスメティック・デモクラシー」であったとしてもである)を実現するショーウィンドウであると考えられる。そして米国の真意はUAE、カタルが持つ豊富な石油及び天然ガスであり、さらに究極的な目標として世界最大の石油埋蔵量を持つサウジアラビアを米国主導の経済体制に組み込むことであろう。その意味でバハレーンとのFTA締結は、これら産油・ガス国を取り込むための足がかりでしかないと思われる。そうでなければ米国が、年間貿易額わずか7.8億ドル(2005年)に過ぎないバハレーンとFTAを締結する理由が理解できないからである。

バハレーンとしては米国の思惑が何であれ、FTA締結はGCC内での自国の立場を強化するものであり、国内はFTA締結を歓迎し、景気浮揚に対する期待が高まった。このバハレーンの期待ムードに水を差したのがGCCの盟主を任じるサウジアラビアであった。

既に書いたとおりGCCはそもそも湾岸の弱小君主制国家がイラン、イラクの脅威から体制を守るための政治・軍事同盟であった。しかし1990年のイラクによるクウェイト侵攻及び翌年の湾岸戦争によるクウェイト解放において、GCCは政治・軍事同盟として殆ど無力であることを曝け出した。それ以降、GCCはその性格を経済同盟に変えつつある。6カ国は話し合いを重ねた結果、2003年に関税を統一、2010年には通貨統合を目指している。

そのようなブロック経済体制の中に米国との二国間FTAを持ち込むことは加盟国間の利益相反となる恐れが強い。GCCが経済同盟に変貌してもなお盟主の座を確保しようとするサウジアラビアにとって、バハレーンの抜け駆け的行動はGCCの団結を乱すものと映った。しかしバハレーンはサウジアラビアの反対を無視して米国とのFTAを推進した。そのため2003年末にバハレーンでGCCサミットが開催された際、サウジアラビアのアブダッラー皇太子(当時、ファハド国王が病気のため実質的なトップとして毎年サミットに参加)は自らは欠席してバハレーンに対する不快の念を表し、代理出席したサウド外相は会議でバハレーンと激しくやりあったのである。

ただ会議に出席したUAEなど他のGCC首脳がサウジアラビアを支持することはなかった。世界の趨勢は多国間のWTOから二国間のFTAの枠組みへと変わりつつあり、しかもUAE,カタル、オマーンなどは米国とFTA交渉を始めていたからである。これらの国々は、経済同盟としてのGCCにも限界を見ていたのである。即ちGCCは総人口が2,500万人程度(しかもそのうち約4割が出稼ぎ外国人)であり、しかも産業構造は石油モノカルチャーである。加盟国相互間の経済的な補完関係も無く、経済同盟として存立する必然性が乏しいのである。実際GCCの関税統一は未だ完成しているとは言えず、2010年の通貨統合に至っては、西欧の専門家から疑問符を投げかけられる有様である。バハレーンはサウジアラビアに対して強気の姿勢を崩さず、2004年にはついに米国とFTAを締結した。

しかし2003年の9.11同時多発テロを契機に米国の態度が急変し、他のアラブ諸国と同様GCC各国に対しても厳しい姿勢を示すようになった。そのことは逆に各国の一般国民の中に強い反米感情を生み出し、為政者としては米国寄りの姿勢を強調することがはばかられるようになった。そのためバハレーンのハマド国王もFTAで自国の地位を強化しようとする戦略は変更せざるを得なくなったのである。

まして2004年以降石油価格が急騰し、GCC各国にはオイル・マネーがあふれ出した。石油で外貨を稼ぐことのできないバハレーンにとっては、金融或いは観光立国を目指してGCCの産油・ガス国のオイル・マネーを吸収することが必要であった。こうしてバハレーンはGCC回帰を模索し始めた。サウジアラビアへの従属を嫌うバハレーンが足場を固めるために選んだ相手は、GCCの中で国土面積、人口が共に小さいが、天然ガスの輸出で一人当たりGDPが今や6か国中で最も大きくなったカタルである。かつてはカタルを支配下に置いたこともあるバハレーンが、長期低迷する自国経済の建て直しのためカタルの経済力を頼りにしているのである。

(第7回 完)


(今後の予定)
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 11:43 

2006年08月25日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)


第6回 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
 バハレーンはかつて英国の保護領であったが、1971年の独立後はアラブ連盟、国連など国際的な枠組みの中で自国の安全を図ろうとした。しかし、国内ではスンニ派のハリーファ家と多数派のシーア派が対立、不安定な状態が続いた。そして1978年のイラン革命でホメイニ政権が誕生すると、翌年にはイランの扇動によるとみられる大規模な反政府運動が発生し、その後1980年代には度々政府転覆の陰謀が発覚した。

 イランのホメイニ師は湾岸君主制国家に対する体制批判を強め、各国のシーア派住民がこれに呼応して反政府暴動を起こしたため、イランの脅威に危機感を抱いたバハレーンを含む湾岸6カ国は1981年に「湾岸協力機構(GCC)」を結成した。GCCは君主制を維持するための相互扶助を目的とした政治・軍事同盟と言える。そして1983年に勃発したイラン・イラク戦争により差し迫る危機に備えて弱小国同士のGCC6カ国は「砂漠の盾」と名づける合同軍事演習を度々行ったのである。
(GCC旗)
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 しかし6カ国の軍事カは、オイルマネーを湯水のごとく使い欧米の最新鋭戦闘機、ミサイルなどの近代兵器を購入するなど装備こそ超一流であったが、兵力では予備役を含め100万人以上の兵員がいると見られるイランやイラクに比べ圧倒的に劣勢であった。さらに各国はいずれも平坦な砂漠の長い国境線を有しているため他国の侵略を防ぐことはほとんど不可能だった。これは後にイラクがクウェイトに侵攻した「湾岸戦争」で現実のものとなったのである。

このような状況の中でバハレーンがとった外交方針は域外の大国と満遍なく国交や条約を結ぶ「全方位外交」であった。同国は1989年及び1990年に中国及びソ連(当時)と相次いで国交を樹立、その一方で1991年には米国と防衛協定を締結し、米国にバハレーン国内での軍備品貯蔵や港湾使用を認めた。このようにバハレーンは自国の安全を確保するために、イデオロギーや政治、経済の体制を超えて全ての大国と外交関係を持ったのである。しかし国交樹立直後の1991年にソ連が崩壊し米国一強時代が到来したため、従来の超大国間の力の均衡を前提とした「全方位外交」は役に立たなくなった。

一方、ハリーファ家にとって脅威はイラン、イラクなどの外敵だけではなく、国内のシーア派もその一つであった。シーア派住民による反政府暴動は時としてバハレーン治安当局の手に余ることもあり、そのため1995年にはサウジアラビアの支援を得て漸く暴動を鎮圧したほどである。さらに同じ年にはカタルとの間でハワール島の領有をめぐり一触即発の衝突の危機が発生しており、バハレーンはGCCの盟主であるサウジアラビアとの関係を最重要視した。こうしてバハレーン外交は、イラン、イラクなど中東の広域的な問題については米国に依存し、国内或いはGCCの問題についてはサウジアラビアに依存する、と言う二つの側面を見せることになった。

しかし湾岸戦争でクウェイトを解放した主力部隊は、米英を中心とする西欧の多国籍軍であり、GCC合同軍は殆ど貢献するところがなく、バハレーンはGCCの軍事同盟としての無力さを思い知らされた。またGCC6カ国の中で人口、国土面積、資源のいずれもが最も小さいバハレーンとしては、GCC依存はサウジアラビアに対する従属関係がますます顕著になることを意味する。歴史的に見てサウジアラビアより文化的な先進国である、と自認するバハレーンにとって、そのような状況は耐え難いものであったはずである。

こうしてバハレーンは対米追随外交の道を選んだのである。それは1999年に首長がイーサからハマドに替わり、また米国のブッシュ政権が「新中東民主化政策」を打ち出した時期と重なったからでもあった。米国で教育を受けた進歩的なハマド首長(現国王)は、皇太子時代からサウジアラビアの専横を苦々しく思い、サウジ離れを模索していた。一方、米国は恒久的な中東和平 - イスラエルとアラブ諸国が平和裏に共存する中東 - を構築するためにはアラブ諸国を民主化することが不可欠であると確信していた。そして2003年にイラクのサダム政権を倒したことで、米国は湾岸諸国の民主化を推進する好機ととらえ、その手始めとして外交関係が良好なバハレーンに的を絞ったのである。

バハレーン(ハリーファ家)と米国(ブッシュ政権)の思惑は一致し、バハレーンは恒久憲法制定、議会再開、立憲王制国家への転換、と民主化路線を明確に打ち出した。同国の民主化は「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主化)」の域を出るものではないが、米国としては他のGCC諸国の追随を促すものとしてバハレーンの民主化を強力に後押しした。2003年のイラク戦争終結直後、ブッシュ大統領が最初に会談したアラブの首脳がハマド国王であったことは、米国のバハレーンに対する期待を何よりも雄弁に物語っている。

さらに米国は、バハレーンをGCCで最初のFTA(自由貿易協定)相手国に選んだ。FTA問題については次回に改めて詳しく触れるが、米国がアラブ諸国とFTAを締結するのは、ヨルダン、モロッコについでバハレーンが3番目である。米国がGCC6ヶ国の中で産油国とは言えないバハレーンを敢えて最初のFTA調印国としたことは非常に興味深い。FTAと言う二国間協定を本来の経済的効果で評価するなら、米国がバハレーンを相手にすることは全く合理性にかけるはずである。米国がバハレーンとFTAを締結する理由は、純粋な経済問題ではなく中東民主化路線に沿った外交戦略と考えるのが妥当であろう。

しかし皮肉にもバハレーンが米国とFTAを調印した2004年後半から、米国の中東民主化政策が破綻の兆しを見せた。それは中東民主化のモデルに位置づけようとしたイラクの政情がますます混迷を深め、また民主化の象徴といえるパレスチナやレバノンの自由選挙で急進的なイスラム政党が躍進したことである。米国は急速な民主化の浸透がむしろ反米勢力の伸張を招いたことを思い知らされ、「中東民主化政策」の旗を目立たないように引っ込め始めた。この結果、対米関係ではGCCの中で一歩先んじていると考えていたバハレーンは、米国にはしごをはずされた状態になった。

 米国の後ろ盾と形ばかりの民主化政策で体制の安泰を図ることができると踏んでいたハリーファ家にとっては大きな見込み違いであった。国内では以前にも増して反米感情が高まっており、米国追随外交はハリーファ家にとって命取りになりかねない。

 そこでバハレーン(ハリーファ家)は再びGCCの一員であることを強調しようとしている。ただ従来のままではサウジアラビアに対する従属関係が再現するだけである。それを避けたいと考えるハマド国王はGCCの中の新興国カタルとの連携を目指しているように見受けられる。両国はハワル島領有権問題が解決した2001年にトップレベルの定期協議機関「相互協力合同最高会議(The Joint Higher Committee for Mutual Co-operation between Qatar and Bahrain)」を設置、毎年協議を重ねている。その結果、バハレーンとカタル間に海上橋を建設する計画など多くの具体的案件が実現に向かっている。人口及び国土面積が6カ国中で最も小さい2カ国が結束強化を図ろうとしているのである。

(第6回 完)

(今後の予定)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 15:45 

2006年08月19日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王


第4回 内閣と王族閣僚
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 現在のハリーファ内閣は昨年3月に成立した。閣僚の総数は首相以下23名である。この閣僚の人数は、同じGCC諸国であるクウェイトの16名、カタルの22名より多く、UAEと同数である。バハレーンはこれら3カ国と比較して人口は最も少なくUAEの6分の1以下であり、GDPでもUAEの10分の1、カタルの3分の1である。国の規模の割に閣僚の人数が多すぎる感は否めない。

 その理由は二つある。一つはハリーファ家王族の処遇のためであり、もう一つは国内人口の70%を占めるシーア派の処遇のためである。少数のスンニ派であるハリーファ家が多数派のシーア派を支配するバハレーンでは、君主制を守るために主要ポストを一族で固める一方、シーア派有力者を閣僚に登用して彼らの不満を和らげる勢力均衡(バランス・オブ・パワー)政策が必要となる。それが内閣の肥大化を招いていると言えよう。さらに民主主義を誇示するために女性の大臣登用に配慮していることも肥大化を助長している。

 23名の閣僚の内訳は、王族が全体の半分以上の12名を占め、非王族閣僚は11名であり、そのうちシーア派出身者が4名いる。また女性閣僚は2名であるが、他のGCC各国では女性閣僚がいないか(サウジアラビア)、1名止まり(クウェイト、UAEなど)であることに比べて、女性の登用が進んでいることを示している。

 シーア派及び女性の閣僚登用については、第5回「内政の課題(シーア派対策)」及び第8回「女性の活躍」で改めて触れるので、本章ではハリーファ家の王族閣僚について解説する。
 ハリーファ内閣の王族閣僚は以下の12名である。

肩書       氏名
首相 シェイク・ハリーファ・ビン・サルマン・アル・ハリーファ(ハマド国王の叔父)

(以下、冒頭の敬称「シェイク」及び一族名を表す末尾の「アル・ハリーファ」は省略)

副首相兼イスラム問題相 アブダッラー・ビン・ハーリド
副首相 モハンマド・ビン・ムバーラク
副首相兼通信相 アリ・ビン・ハリーファ(*)
国王府担当相 アリ・ビン・イーサ(ハマド国王実弟)
国防相 ハリーファ・ビン・アハマド
電気・水相 アブダッラー・ビン・サルマン
財政・国家経済相 アハマド・ビン・モハンマド
外相 ハーリド・ビン・アハマド
内相 ラーシド・ビン・アブダッラー
石油相 イーサ・ビン・アリ
運輸相 アリ・ビン・ハリーファ(ハマド国王従兄弟)(*)

(*)同姓同名であるが運輸相は首相の息子で両者は別人。

 肩書を見て解るとおり、ハリーファ家王族は閣僚の重要ポストを独占している。首相はもとより、国防相、外相、内相、財政・国家経済相、石油相などがそれである。そして副首相3名はすべて王族である。バハレーンに限らずGCC各国では、支配王家(或いは首長家)の王族が、首相、国防相、外相など主要閣僚ポストを独占しているが、複数の副首相を置く場合、少なくとも1名は非王族であり、また財務相、石油相などは民間テクノクラートであることが多い。バハレーンのように主要閣僚ポストのほぼ全てを王族が独占している例は他にない。

 またこれら王族をハリーファ家の系図の面でハマド現国王との関係を調べると(上図参照。なお詳細な家系図はMENA Informant「GCCの王家・首長家の系図」参照)、国王の近親者(4親等以内)は叔父のハリーファ首相、実弟のアリ国王府担当相及び従兄弟のアリ運輸相のみであり、国防相、内相、外相、財務相などはハリーファ家の一族と言えどもハマド現首長とはかなり遠縁の王族である。他のGCC諸国の場合、国王(首長)・首相と他の閣僚の関係は、同腹または異腹の兄弟、或いは従兄弟関係など比較的近縁(3乃至4親等)であることが多い。GCC王家(首長家)の多くは王族の裾野が広いが(サウジアラビアのサウド家は俗に王族数千人と言われている)、政治の中枢である閣僚に抜擢される王族は近親者の場合が多く、その点ではバハレーンのハリーファ家は特異なケースである。

 このようにバハレーンの内閣に王族の閣僚が多く、しかも彼らの血縁の裾野が広い理由の一つに同国の国家経済の規模が小さいことがあげられる。つまり石油収入が多く、それに伴って国・公営企業が多数あれば、王族の生活は石油収入で賄われるか、或いは省庁または国・公営企業の幹部として高給をとることができる。更には民間企業の最高幹部(その多くは名目的な地位にとどまっているが)として安定した地位と収入を得る道もある。事実、湾岸産油国ではこのような形で王族の名誉と生活が保証されていることが多いのである。しかし石油資源が乏しく経済規模の小さいバハレーンでは、王族に割り当てることのできるポスト(幹部であるが、いざと言うときに責任が波及しないポスト)は少なく、また王族達が自立する道も限られている。その結果、閣僚級ポストに登用することが、その王族自身の適正な処遇と彼の家族及び親族の扶養手段を保証することになる、と言えるのではないだろうか。

 もしこのような現状であるとすれば、王族としての特権的地位は単なる名誉だけではなく、生活がかかった重大な問題ですらある。従ってハマド国王本人が立憲君主制のもとで民主化を推進し社会の透明性を増すことは、他の王族にとっては死活問題になる可能性がある。他のGCC諸国のような豊かな石油収入を持たないバハレーンにとって王族の経済問題は今後深刻さを増すものと思われ、その結果王族内部で国王の近代化政策に強くブレーキをかける動きが出ないとは限らないのである。特権階級とは常に特権が剥奪されることに強い恐怖心と危機感を持つからである。ハリーファ家の裾野の広さが「獅子身中の虫」となってハマド国王の足かせになることが懸念される。
 
(第4回完)

(今後の予定)
5. 内政の課題(シーア派対策)
6. 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界



at 15:06 

2006年08月17日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史

第3回 民主化をめざすハマド国王

king-hamad.jpg1999年、イーサ第9代首長が心臓発作のため亡くなり、長男で皇太子のハマドが第10代首長に即位した(「ハマド首長」はその後2002年にバハレーンが立憲君主制に移行したことに伴い初代国王に即位したため、以下「ハマド国王」と記す)。

ハマド国王は1950年生まれであり、従って即位当時49歳であった。当時の湾岸諸国はUAEのザーイド大統領の81歳を筆頭に、サウジアラビア、クウェイトなど君主の多くは高齢であり、40歳台の若い君主は国王と同名のハマド・カタール首長(1952年生。1995年に父親カリーファ前首長の外遊中に王室クーデタで新首長に即位)だけであった。

ハマド国王は国内でイスラムの基礎教育を受けた後、英国及び米国の大学に留学した。湾岸諸国の王家は次世代の王子を米英に留学させるのが普通である。彼らは留学先で大切に扱われ、その国の将来のエリート達と親交を深める。そのため王子達は概して親西欧的である。ハマド国王は各国の君主の中で最も親米的であり、また民主化に熱心であるが、それは彼が米国に留学経験のあるGCC最初の君主だったことが大きな理由であろう。

ハマド首長(当時)は1999年の即位後、直ちにバハレーンの政治制度の改革に着手した。そして翌2000年に国民行動憲章(National Action Charter)の作成を目指して高等国民委員会を設置、さらに二院制議会を設立する勅令を下した。同国は独立後の1973年に暫定憲法を制定し、選挙による国家評議会(議会)が開かれている。しかしシーア派の反政府勢力が多数を占める議会と、ハリーファ家を中核とする内閣が激しく対立したため、わずか2年後に暫定憲法及び議会は停止され、30年近くの間、その状態が続いていたのである。

国民行動憲章は2001年の国民投票で圧倒的多数で承認されバハレーンの恒久憲法となった。
これと同時にハマド首長(当時)は全政治犯を釈放し、国家治安法を廃案とした。そして翌2002年2月にバハレーンは立憲王制国家となり、ハマドは初代国王に即位した。さらに同年5月には地方諮問評議会の選挙が行われ、10月には下院議員の総選挙が行われ、議会は27年ぶりに再開されたのである。こうしてハマド国王は首長即位後わずか3年の間にバハレーンの政治制度を議会制民主主義国家に衣替えしたのである。

 但し後ほど述べるようにこれらの制度改革には、なお多くの国王の権力が留保されている。例えば憲法第33条では首相及び閣僚の任免権は国王にあり、上院議員も全員国王が指名する、と規定されるなど西欧流の完全な民主主義とはいえない。つまり王権に対する多くの「セーフティ・ネット」が設けられているのである。少数派のハリーファ家(イスラム教スンニ派)が多数派の国民(シーア派)を支配しており、現在もデモその他の政治活動が活発である。このため国王としては民主化の行き過ぎを抑え、同時にハリーファ家による君主体制を維持する「セーフティ・ネット」を制度に組み込んだのである。

 バハレーンの民主化は下院で男女平等の普通選挙が実施されていること一つを取り上げてもクウェイトと並びGCC諸国の中では最も進んでいることは間違いない。サウジアラビア、オマーンなど他のGCC諸国の諮問議会は君主による官選議員のみで構成され、法案に対する議決拒否権がないことに比べると、バハレーンの民主化の度合いはGCCの中で群を抜いている。

 しかしその実態を見ると、いわゆる「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主主義)」とも言える制度なのである。これは現在のように、ハリーファ家一族が国家権力を独占的に保持することを前提とする限り当然の帰結とも言えよう。歴史を見ても権力者が自らの意思で自己の権力に制限を設けるなどと言うようなことはあり得ない。それはたとえ社会主義、民主主義、共和制など如何なる名称を用いようとも、独裁的な権力者あるいは権力集団が支配する国家における宿命とも言えるであろう。

バハレーンにおいても「立憲君主制」とは、憲法が「君主制を保証している」のではなく、「君主制を保証するため」に憲法がある、と言えよう。バハレーンの内閣は次章に述べる如く、首相を初め、国防相、内相、外相などの主要ポストはハリーファ家が独占している。そして体制維持に影響の少ない大臣ポストのいくつかにシーア派を起用し、或いは女性閣僚を任命している。シーア派の起用は国内対策であり、一方、女性閣僚の任命は対外的なアピール、特に同じGCC諸国に対する先進性の誇示或いは中東民主化政策を推進する米国に対する迎合的な匂いが強いように思われるのである。

(第3回完)


(今後の予定)
4. 内閣と王族閣僚
5. 内政の課題(シーア派対策)
6. 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 15:00 
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