Bahrain

2006年08月12日

(これまでの内容)
第1回 はじめに

a26.gif

(第2回)バハレーン及びハリーファ家の歴史
 バハレーンは1521年から1601年までポルトガルに占領され、さらに1602年から1782年まではイラン人の支配下にあった。アラビア半島から移住した現在のハリーファ王家の始祖であるアハマドがバハレーン島の支配を確立したのは1783年のことであった。支配者のハリーファ家も先住民のイラン人も共にイスラム教徒であるが、前者はスンニ派、後者はシーア派と宗派が異なる。少数派のスンニ派が多数派のシーア派を支配するこの構図は、今もバハレーン国内の政情不安の最大の要因である。

19世紀に入るとヨーロッパの列強が湾岸地域に食指を伸ばし始めた。その中で英国は1861年にバハレーンを保護下に置き、そして1880年及び1892年にバハレーンとの間で、英国以外に国土を割譲或いは放棄せず、また同国の同意なしに他国と外交関係を持たない旨の条約を締結したのである。さらに1913年には英国とオスマン・トルコの間でバハレーンの独立を認める協定が調印され、バハレーンは英国の庇護のもとで独立国家となった。

ハリーファ家は初代首長アハマド(在位1783-96年)から現在に至るまで途切れることなくバハレーンを支配し続けている。第6代イーサ首長(在位1869-1932年)以降は、親子或いは兄弟による血なまぐさいお家騒動もなく首長位は平穏に継承され、特に第7代ハマド一世(在位1932-42年)から現在の第10代ハマド二世(1999-2002年首長、2002年の立憲君主制移行により現在は国王)まで、全て前首長の死後、長男が首長位を継承(長子相続)している。このようにハリーファ家は長い歴史を持ち、同時に平和裏に首長位が継承されてきている。他のGCC諸国では、例えばサウジアラビアの場合、現サウド王朝の始まりは1902年と比較的歴史が浅く、或いはアブダビのナヒヤーン家では兄弟間の骨肉の承継争いが続き、またカタルでは現首長が父親の先代首長をクーデターで追放するなどごく最近まで君主制が不安定であったことに比べると、首長位継承に関する限りハリーファ家の安定性は大きな特徴である。

 第二次大戦後の第8代サルマン首長(在位1942-61年)及び第9代イーサ首長(在位1961-99年)の時代に、国内の社会事業や公共事業が大規模に推進され、また他の湾岸諸国に先駆けて教育及び医療の無料化に踏み切った。さらに1970年には大規模な政治改革を断行、12名からなる国家評議会が設置された。このように当時のバハレーンは湾岸諸国の中で政治・社会制度の近代化が最も進んだ国だったのである。但しこれが逆に少数派が多数派を支配するバハレーン社会の不安定さを助長することになったのも事実である。

スエズ紛争で実質的に敗北した英国が1971年末までに「スエズ以東」から撤退することを宣言、これにより1960年代後半には湾岸諸国に独立の機運が高まった。1970年、国連がバハレーンで行った同国の将来に対する住民の意見調査では、圧倒的多数がイラン帰属よりも独立を望んでいることが判明した。このため当初バハレーンは他の湾岸首長国との連邦結成に参加する意向であった。しかし石油など潜在的富でまさっていても発展の遅れている他の首長国の意見と一致せず、結局バハレーンは1971年8月に単独で独立したのである。このようにバハレーンはイラン系のシーア派住民が多数であるにもかかわらずイランとは一線を画し、また他の湾岸各国に対しては先進国としての優越意識が濃厚である。つまりバハレーンは独立志向が強く、そして誇りの高い国なのである。このことは現在のバハレーンの外交姿勢を理解する上での重要なポイントであろう。

その後、同国はアラブ連盟、次いで国連に加盟し、1973年12月には暫定憲法の施行及び国民議会選挙が行われた。しかし議会ではハリーファ家を中核とする政府とシーア派の強い反政府勢力が度々衝突、遂に1975年、政府は国民議会を解散、憲法も停止したのである。

1979年にイランでイスラム革命が発生、ホメイニ師が最高権力者になると、イランはバハレーンのシーア派を扇動してスンニ派のハリーファ家に対する首長制打倒運動を展開させた。そして1981年12月にはバハレーン政府転覆計画が発覚、60名近くが逮捕される事件が発生した。イランの陰謀と見られる政府転覆計画は1985年にも発覚しており、このため現在もハリーファ家のイランに対する警戒感は変わっていない。

独立により英国の保護下を離れたバハレーンではあったが、イラン革命後もイラン・イラク戦争(1983-88年)、湾岸戦争(1990-91年)と周辺国の政情が安定することはなかった。このため同国は超大国の後ろ盾の必要性を痛感、1991年には米国と防衛協定を締結して海軍基地を提供、さらに1994年には米英両国と軍事協力の覚書を交換して地域の政情不安に備えている。米国との関係は、ハマド現国王の時代に入ると、FTA(自由貿易協定)締結に見られるように、軍事面から経済面に重点が移りつつあるが、対米追随外交の姿勢に大きな変化は無い。

1981年にサウジアラビアを中心として結成されたGCC(湾岸協力機構)にバハレーンが参加した背景には、同国の対イラン及び対シーア派問題があった。サウジアラビアも同国東海岸(アル・ハサ地方)に多数のシーア派住民を抱えており、バハレーンの問題を対岸の火事と見過ごすことができず、実際1995年にはサウジアラビアがバハレーンの暴動鎮圧のために支援部隊を派遣したほどである。またサウジアラビアは1996年には両国の領海にまたがるアブ・サファ油田の取り分をバハレーンに無償供与すると発表している。このような二カ国にまたがる資源は両国が折半することが国際法の慣例で、サウジアラビアの無償供与は極めて異例のことである。石油資源が枯渇し経済的に苦しいバハレーン、なかんずくシーア派対策に悩むカリーファ家にとってサウジアラビアの物心両面にわたる支援は何よりの支えであったと思われる。

第9代イーサ首長はその統治期間中(1961-99年)、内政で試練に晒されたため、サウジアラビアとの関係を最重要視した。しかし1999年にイーサ首長が亡くなり、新首長に長男のハマド二世が即位すると、バハレーンとサウジアラビアの関係は微妙に変化し始めたのである。

(第2回完)

(今後の予定)
3. 民主化をめざすハマド国王
4. 内閣と王族閣僚
5. 内政の課題(シーア派対策)
6. 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 20:50 

2006年08月08日

(第1回) はじめに

map.gif バハレーンはアラビア(ペルシャ)湾のほぼ中央部のアラビア半島寄り、サウジアラビアとカタルに囲まれたバハレーン湾に浮かぶ面積709平方キロメートル、奄美大島とほぼ同じ広さの小さな島国である。面積はGCC6カ国の中で最も小さく、二番目に狭いカタルの10分の1以下であり、サウジアラビアの225万平方キロメートルに比べると雲泥の差がある。人口もGCC中で最も少ない71万人(2004年、GOIC “Gulf Statistical Profile”による)であり、カタル(74万人)とほぼ肩を並べる小国である。

 しかしながらバハレ-ンはGCCの中で最も古い歴史を持っており、古代バビロニア、アッシリア時代にはディルムーンと呼ばれる貿易中継地であり、また中世には真珠の産地として栄えた。この地は長らくイランが支配していたためイスラム教シーア派の国民が人口の70%程度を占めている。因みにバハレーンを統治するハリーファ家はアラビア半島から移住したスンニ派である。このため後に述べるとおりバハレーンではスンニ派住民による反政府暴動が頻繁に発生し、その対策はハリーファ家の最大の内政課題となっている。

 現在の統治者はハマド国王であり、彼は1999年に実父イーサの死去に伴い新首長となったが、2002年2月、同国は立憲君主制のバハレーン王国となり、これに伴いハマドは初代国王に即位した。

 バハレーンはアラビア湾内の交易の中心であったことから、近代的な商業・金融制度が最も早く整備された。しかしGCCの他の5カ国(サウジアラビア、クウェイト、UAE、カタル、オマーン)に比べて石油・天然ガス資源が乏しいため経済規模は小さく、また有力な産業が少なく経済は低迷状態が続いている。

 ハマド国王は政治・経済全般にわたる大胆な改革を目指し、2002年秋には女性にも参政権を与える画期的な普通選挙を実施し、その後、女性閣僚を登用するなど、国内の民主化を進めている。また、経済面ではGCCの中で先頭を切って米国とFTA(自由貿易協定)を締結し、米国の「中東民主化構想」の忠実な実践者になろうとしている。そこには米国の後ろ盾によりハリーファ王家の維持を図ろうとするハマド国王の意図が見受けられる。

 しかし民主化推進と米国追随外交は、国内シーア派の台頭を許し、或いはGCCや他のアラブ諸国の反発を買う恐れがあり、王家の弱体化を招く諸刃の剣の危険性を秘めている。このようにハリーファ王家は現在非常に難しい立場に立たされている。


 本シリーズは9回にわたって連載の予定ですが、まずカリーファ王家の成り立ち及びハマド現国王の民主化政策を概観し、さらにカリーファ家王族が中核を成している内閣について述べます。そして現在のバハレーンが抱える内政、外交及び経済それぞれの課題を解説すると共に、同国の民主化のシンボルとも言える女性の活躍の状況について具体例を取り上げます。最後に同国の民主化が果たして「真の」民主化なのか、それとも米国を初めとする国際社会の歓心を買うためだけのいわゆる「コスメティック・デモクラシー」なのか、同国の民主化政策についても私論を述べたいと思います。

*「コスメティック・デモクラシー」即ち「化粧顔の民主主義」とは、「見せ掛け」或いは「うわべだけの」民主主義の意味ですが、辛辣に言えば「いかがわしい」民主主義とも言えます。

(その1完)

(今後の予定)
2. ハリーファ家の歴史
3. 民主化をめざすハマド国王
4. 内閣と王族閣僚
5. 内政の課題(シーア派対策)
6. 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 09:09 

2006年06月10日

6/10 Gulf Daily News (Bahrain)
 バーレーンの女性法律家Haya bint Rashid Al Khalifa女史が、9月21日から始まる第61回国連総会議長に選出された。女性議長は1953年のインド、1969年のリベリアに次ぐ3人目である。
 Haya女史は53歳、前駐仏大使で現在はバーレーンのRoyal Courtの法律顧問。

at 15:36 

2006年01月14日

1/14 Gulf Daily News (Bahrain)
 バーレーン国王の子息Faisal王子(15歳)が交通事故のため死亡。葬儀にエジプト・ムバラク大統領、バシャール・シリア大統領などが列席した。


at 11:28 

2005年12月12日

12/12 Gulf Daily News (Bahrain)
 バーレーンで開催された第12回世界イスラム銀行年次総会で、バーレーン通貨庁(BMA)総裁は、イスラム金融界は合併或いは資本増強を図るべきであると述べた。総裁は演説の中で、世界の上位千行のうち上位25行が資産総額の40%を占めており、またイスラム銀行トップは世界トップのわずか百分の一の規模でしかないと指摘した。但し総裁は金融当局は銀行の合併を強制すべきではなく、強い法的な枠組みを作ることが必要であると述べた。
 各国首脳は会議前日にMcKinseyから提出されたレポートに基づいて非公開で討議した。会議全体では30カ国から700人以上の代表が参加した。


at 12:57 
記事検索
月別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ