Kuwait
2008年01月30日
(第2回)イラクのクウェイト侵攻がもたらしたもの
五輪ハンドボール予選騒ぎの中心人物でアジアハンドボール連盟会長アハマド殿下(Shaikh Ahmad、写真左)は、クウェイトを支配するサバーハ首長家の有力王族である(サバーハ家 家系図参照)。クウェイトはUAE(アラブ首長国連邦)やカタルと同じ首長制国家であり、男子王族にはShaikhの尊称が与えられる。本稿ではShaikhを「殿下」と訳することとする。
アハマド殿下は1961年8月生まれで今年47歳である。彼の父親ファハド殿下(故人)はサバーハ現首長及びナワーフ皇太子と兄弟である。ちなみにナーセル現首相の父親(故人)も兄弟の一人である。従ってアハマド殿下は首長及び皇太子の甥であり、首相とは従兄弟関係ということになる。但しこれら四人の兄弟はそれぞれ母親の異なる異母兄弟である。かれらはサバーハ家の中で「ジャービル系」と言われる系統に属しているが、このジャービル系は2年前の後継者争いでもう一つの有力な系統である「サーリム系」を退け、それまで両系統で二分していた首長と皇太子のポストを独占してサバーハ家内部での主導権を確立した。
アハマド殿下はこのようにサバーハ家の中でも主流派でしかも首長、皇太子、首相など王族トップと非常に近い関係にある。但し先にも述べたとおりアハマドは彼らとは母系が異なる甥または従兄弟の関係である。このような関係はサバーハ家の中でサーリム系のような異なる系統に対しては団結するが、一方で近親者同士の利害が相反する場合は互いに反目する、という複雑な関係となることに注目する必要がある。
アハマド殿下の父親ファハドは生粋の軍人王族であった。彼はヨルダンの士官学校を卒業後、クウェイト陸軍に勤務、1967年の第三次中東戦争ではイスラエルの捕虜となった。帰国後近衛隊長等の軍歴を重ねる一方、クウェイト・オリンピック委員会委員長などスポーツ団体のトップを兼任した。彼の運命が暗転したのは1990年8月にイラクのフセイン大統領(当時)がクウェイトに侵攻したことである。
当時イラク軍はクウェイト国境に集結していたが、サバーハ政府はフセイン大統領がまさか自国を侵略するとは夢にも考えていなかった。(最近、「1993年の湾岸戦争でまさか米軍がイラク領土に侵攻するとは思っていなかった」というフセイン大統領の言葉が報道されたが、非常に皮肉なめぐり合わせといえよう。)8月2日、イラク軍がクウェイト国境を突破すると、首長以下全ての王族は慌てふためき、一般国民を置き去りにして南のサウジアラビアへ逃げたのである。このとき王族の中でただ一人イラク軍と戦って戦死したのがファハドであった。
もともと権力基盤が弱く不人気であったサバーハ家に対する国民の信頼は地に落ちた。その中で戦死したただ一人の王族ファハドの遺児アハマド殿下が、翌年の湾岸戦争によるクウェイト解放後、特別な評価と待遇を受けることになったのは当然の成り行きであった。彼は2001年には40歳で情報相に就任、さらに2003年には石油(後にエネルギー)相の要職に就いたのである。そしてエネルギー相在職中の2005年にはOPEC議長も務めている。この頃がアハマドの得意絶頂の時代であったと思われる。
OPEC議長は任期1年間の加盟国の持ち回りであり、従ってアハマドが議長となったのは単なるめぐり合わせであるが、この1年間、彼は世界のメディアに露出するなどかなり派手なパフォーマンスを行っており、任期満了直前の2005年末には世界の石油市場のキープレーヤーである中国とロシアを訪問している。また国内では10年来の懸案であった北部イラク国境付近の油田開発、いわゆる「プロジェクト・クウェイト」を外国企業に発注することに情熱を傾け、これに反対する国会と対立していた。当時のクウェイトの新聞を見ると石油相或いはOPEC議長としての彼の行動が頻繁に報道されており、自己の人気浮揚を図る野心が垣間見られる。
しかし翌年には彼は情報相就任以来5年にわたる大臣在任中の汚職と職権乱用の疑いで議会から糾弾され、また総選挙では野党の攻撃の的になった。そして遂に6月にエネルギー相を辞任したのである 。その後、彼は国家保安局(National Security Bureau)長官に就任し、今日に至っている。なおアハマド殿下はオリンピック委員会委員、ハンドボールアジア連盟会長などのスポーツ団体の要職を父親ファハドから受け継いでおり、同国のスポーツ団体を牛耳るとともにアジアのスポーツ界でも強い影響力を持っている。その影響力の源泉は、湾岸危機の英雄である父親の威光、彼自身の自己顕示欲、そしてサバーハ家王族としての財力、にあると見るのが妥当ではなかろうか。
(第2回完)
これまでの内容:
(第1回)五輪ハンドボール予選騒ぎ
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maedat@r6.dion.ne.jp

アハマド殿下は1961年8月生まれで今年47歳である。彼の父親ファハド殿下(故人)はサバーハ現首長及びナワーフ皇太子と兄弟である。ちなみにナーセル現首相の父親(故人)も兄弟の一人である。従ってアハマド殿下は首長及び皇太子の甥であり、首相とは従兄弟関係ということになる。但しこれら四人の兄弟はそれぞれ母親の異なる異母兄弟である。かれらはサバーハ家の中で「ジャービル系」と言われる系統に属しているが、このジャービル系は2年前の後継者争いでもう一つの有力な系統である「サーリム系」を退け、それまで両系統で二分していた首長と皇太子のポストを独占してサバーハ家内部での主導権を確立した。
アハマド殿下はこのようにサバーハ家の中でも主流派でしかも首長、皇太子、首相など王族トップと非常に近い関係にある。但し先にも述べたとおりアハマドは彼らとは母系が異なる甥または従兄弟の関係である。このような関係はサバーハ家の中でサーリム系のような異なる系統に対しては団結するが、一方で近親者同士の利害が相反する場合は互いに反目する、という複雑な関係となることに注目する必要がある。
アハマド殿下の父親ファハドは生粋の軍人王族であった。彼はヨルダンの士官学校を卒業後、クウェイト陸軍に勤務、1967年の第三次中東戦争ではイスラエルの捕虜となった。帰国後近衛隊長等の軍歴を重ねる一方、クウェイト・オリンピック委員会委員長などスポーツ団体のトップを兼任した。彼の運命が暗転したのは1990年8月にイラクのフセイン大統領(当時)がクウェイトに侵攻したことである。
当時イラク軍はクウェイト国境に集結していたが、サバーハ政府はフセイン大統領がまさか自国を侵略するとは夢にも考えていなかった。(最近、「1993年の湾岸戦争でまさか米軍がイラク領土に侵攻するとは思っていなかった」というフセイン大統領の言葉が報道されたが、非常に皮肉なめぐり合わせといえよう。)8月2日、イラク軍がクウェイト国境を突破すると、首長以下全ての王族は慌てふためき、一般国民を置き去りにして南のサウジアラビアへ逃げたのである。このとき王族の中でただ一人イラク軍と戦って戦死したのがファハドであった。
もともと権力基盤が弱く不人気であったサバーハ家に対する国民の信頼は地に落ちた。その中で戦死したただ一人の王族ファハドの遺児アハマド殿下が、翌年の湾岸戦争によるクウェイト解放後、特別な評価と待遇を受けることになったのは当然の成り行きであった。彼は2001年には40歳で情報相に就任、さらに2003年には石油(後にエネルギー)相の要職に就いたのである。そしてエネルギー相在職中の2005年にはOPEC議長も務めている。この頃がアハマドの得意絶頂の時代であったと思われる。
OPEC議長は任期1年間の加盟国の持ち回りであり、従ってアハマドが議長となったのは単なるめぐり合わせであるが、この1年間、彼は世界のメディアに露出するなどかなり派手なパフォーマンスを行っており、任期満了直前の2005年末には世界の石油市場のキープレーヤーである中国とロシアを訪問している。また国内では10年来の懸案であった北部イラク国境付近の油田開発、いわゆる「プロジェクト・クウェイト」を外国企業に発注することに情熱を傾け、これに反対する国会と対立していた。当時のクウェイトの新聞を見ると石油相或いはOPEC議長としての彼の行動が頻繁に報道されており、自己の人気浮揚を図る野心が垣間見られる。
しかし翌年には彼は情報相就任以来5年にわたる大臣在任中の汚職と職権乱用の疑いで議会から糾弾され、また総選挙では野党の攻撃の的になった。そして遂に6月にエネルギー相を辞任したのである 。その後、彼は国家保安局(National Security Bureau)長官に就任し、今日に至っている。なおアハマド殿下はオリンピック委員会委員、ハンドボールアジア連盟会長などのスポーツ団体の要職を父親ファハドから受け継いでおり、同国のスポーツ団体を牛耳るとともにアジアのスポーツ界でも強い影響力を持っている。その影響力の源泉は、湾岸危機の英雄である父親の威光、彼自身の自己顕示欲、そしてサバーハ家王族としての財力、にあると見るのが妥当ではなかろうか。
(第2回完)
これまでの内容:
(第1回)五輪ハンドボール予選騒ぎ
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at 14:55
2008年01月27日
(第1回)五輪ハンドボール予選騒ぎ
ハンドボールのアジア地区五輪予選がやり直されることになった。クウェイトと韓国及び日本の試合で、審判がクウェイトに一方的に有利な判定を再三繰り返したことが発端である。これまでもクウェイトがからむ国際大会では対戦相手に不利な判定が下され、関係者の間で「中東の笛」として問題視されてきた。(左図は国際ハンドボール連盟の徽章)
問題の中心人物はアジアハンドボール連盟の会長、クウェイトのアハマド殿下である。彼は同国を支配するサバーハ家の一員であり、現首長及び皇太子の甥、首相とは従兄弟同士の関係にある。彼自身もかつて石油相(エネルギー相)など閣僚を歴任したことがあり、サバーハ家を代表する有力な王族の一人である。(サバーハ家 家系図参照)
今回の「中東の笛」はアハマド殿下が指示したものであることを疑う者はいないであろうが、スポーツのフェア精神を踏みにじるこのような暴挙がなぜまかり通るのか。クウェイトが五輪出場のためなりふり構わずにごり押ししており、それを可能ならしめているのが同国のオイルマネーである、と見るのが日本国内の大半の認識であろう。
筆者も実際そのとおりであると思う。しかしこの問題をもう一歩掘り下げてみると、そこにはクウェイトが抱える深い傷口が見えるのである。現在のクウェイトはまさに出口の無い混乱の真っ只中にある。サバーハ家内部の暗闘、サバーハ家が権力を握る政府と反サバーハ家が多数派を占める国会との果てしない泥仕合。その一方でサバーハ家は石油価格高騰による膨大なオイルマネーを支配し、かたやクウェイトの民間経済界は、米軍がイラクから撤退できないため、今も戦争特需に酔いしれる、という状況である。
サウジアラビア、UAE(アブダビ、ドバイ)、カタルなど他の湾岸産油国がオイルマネーを梃子に野心的な計画を次々と打ち出している中で、クウェイトはオイルマネーを持ちあぐね、日々ただ無為無策に過ごしている。一部の良識あるクウェイト人、特にインテリ女性層は同国の危機を深刻に捉えているが、王族はもとより一般国民はと言えば、エリート層は政争に明け暮れ、ビジネスマンや金持ちは資産を海外に逃避、その他の一般市民も給与の増額や個人負債の棒引きを求めるなど国民全体が我利我利亡者の様相を呈しているといって過言ではない。国の将来を憂い強力なリーダーシップを発揮する指導者が現れる気配はないのが現状である。
クウェイトがこのようなカオス(混乱状況)に陥った最大の要因は1990年のイラクによる侵略とその翌年の湾岸戦争であることは間違いない。もともと権力基盤が弱かったサバーハ家の権威はこの事件によって失墜し、国民の心は首長家から離反した。ただ王族も国民もそれに先立つ1980年代のオイルブームの中で心身ともに堕落し、世界一傲慢な国民として世界中から顰蹙を買っていたのであるが、クウェイト自身がそれを自覚することはなかった。
そしてそのまま現在の第二次オイルブームとイラク特需の時代が訪れた。オイルブームに湧くクウェイトの経済は好調そのものであり、表面的に同国は何の問題も無いように見える。しかしアハマド殿下によるハンドボール予選問題はクウェイトが抱える深い傷口の一端を見せたに過ぎない。それは彼個人の問題にとどまらず、サバーハ家の王族達、そしてクウェイト国民全体の資質の問題といって間違いないのではないか。このシリーズ「愚者の笛」は、そのような問題意識で筆者の考えをまとめたものである。
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
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問題の中心人物はアジアハンドボール連盟の会長、クウェイトのアハマド殿下である。彼は同国を支配するサバーハ家の一員であり、現首長及び皇太子の甥、首相とは従兄弟同士の関係にある。彼自身もかつて石油相(エネルギー相)など閣僚を歴任したことがあり、サバーハ家を代表する有力な王族の一人である。(サバーハ家 家系図参照)
今回の「中東の笛」はアハマド殿下が指示したものであることを疑う者はいないであろうが、スポーツのフェア精神を踏みにじるこのような暴挙がなぜまかり通るのか。クウェイトが五輪出場のためなりふり構わずにごり押ししており、それを可能ならしめているのが同国のオイルマネーである、と見るのが日本国内の大半の認識であろう。
筆者も実際そのとおりであると思う。しかしこの問題をもう一歩掘り下げてみると、そこにはクウェイトが抱える深い傷口が見えるのである。現在のクウェイトはまさに出口の無い混乱の真っ只中にある。サバーハ家内部の暗闘、サバーハ家が権力を握る政府と反サバーハ家が多数派を占める国会との果てしない泥仕合。その一方でサバーハ家は石油価格高騰による膨大なオイルマネーを支配し、かたやクウェイトの民間経済界は、米軍がイラクから撤退できないため、今も戦争特需に酔いしれる、という状況である。
サウジアラビア、UAE(アブダビ、ドバイ)、カタルなど他の湾岸産油国がオイルマネーを梃子に野心的な計画を次々と打ち出している中で、クウェイトはオイルマネーを持ちあぐね、日々ただ無為無策に過ごしている。一部の良識あるクウェイト人、特にインテリ女性層は同国の危機を深刻に捉えているが、王族はもとより一般国民はと言えば、エリート層は政争に明け暮れ、ビジネスマンや金持ちは資産を海外に逃避、その他の一般市民も給与の増額や個人負債の棒引きを求めるなど国民全体が我利我利亡者の様相を呈しているといって過言ではない。国の将来を憂い強力なリーダーシップを発揮する指導者が現れる気配はないのが現状である。
クウェイトがこのようなカオス(混乱状況)に陥った最大の要因は1990年のイラクによる侵略とその翌年の湾岸戦争であることは間違いない。もともと権力基盤が弱かったサバーハ家の権威はこの事件によって失墜し、国民の心は首長家から離反した。ただ王族も国民もそれに先立つ1980年代のオイルブームの中で心身ともに堕落し、世界一傲慢な国民として世界中から顰蹙を買っていたのであるが、クウェイト自身がそれを自覚することはなかった。
そしてそのまま現在の第二次オイルブームとイラク特需の時代が訪れた。オイルブームに湧くクウェイトの経済は好調そのものであり、表面的に同国は何の問題も無いように見える。しかしアハマド殿下によるハンドボール予選問題はクウェイトが抱える深い傷口の一端を見せたに過ぎない。それは彼個人の問題にとどまらず、サバーハ家の王族達、そしてクウェイト国民全体の資質の問題といって間違いないのではないか。このシリーズ「愚者の笛」は、そのような問題意識で筆者の考えをまとめたものである。
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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at 10:44
2007年12月10日
3.クウェイトの政府系ファンド(SWF):クウェイト投資庁
(1)クウェイト投資庁(KIA)成立の歴史的背景
クウェイトはGCCの中で最も早く石油が発見された国である。「石油に浮かぶ島」と称されるほど豊かな石油資源に恵まれた同国は第二次大戦後に本格的な石油の生産を始めたが、人口が少ないこともあり早くから石油の富が蓄積された。そして独立前の1953年、ロンドンに「クウェイト投資事務所(Kuwait Investment Office, KIO)」を設立している。現在のクウェイト投資庁(Kuwait Investment Authority, KIA)は1984年に設立されたものであり、それ以降KIOはKIAのロンドン事務所として位置づけられている。
(2)KIAの概要
このようにKIAはGCCのSWFの中では最も古い歴史を有しており、また情報開示についてもインターネットのホームページ(http://www.kia.gov.kw/kia)は他のGCC諸国に比較してかなり充実している。但し資産規模、投資先、運用実績などの数値情報が全く開示されていないのは他の湾岸産油国のSWFと同じである。
KIAの取締役会は9名で構成され議長は財務相である。その他エネルギー相、クウェイト中央銀行総裁、財務省次官のほか、5名の取締役(全員クウェイト人)が任命されている。なお現在の財務相、エネルギー相、中央銀行総裁等はいずれもサバーハ首長家の王族ではない。このように国富の運用機関に王族が直接関与していないことは他の湾岸諸国のSWFに比べて極めて特異な点である。これはクウェイトの成り立ちが他のGCC各国と異なり、サバーハ首長家の権力基盤が弱いためと考えられる。即ちサバーハ家はもともとクウェイトの有力マーチャント・ファミリー(商業財閥)の一つにすぎず、GCCの他の王制(或いは首長制)国家が武力で国家を樹立したことに比べるとlegitimacy(統治の正当性)の権威に欠けるからである。
サバーハ首長家は外交、国防など政府の中枢部を握っているが、非サバーハ家の他部族が多数を占める国会との対立が続いており、SWFについても首長家が恣意的或いは独断的に運用することを妨げている。皮肉にもこのことによってクウェイトではSWF運用にある程度の中立性や透明性が確保されているようである。
(3)運用資産の推定額と運用実績
KIOは運用資産残高を公表していない。各種メディアや調査機関による推定額は700~2,130億ドルまで幅がある。最も少ないのは700億ドル(国際金融情報センター、07/12/1付け朝日新聞)であり、その他1,000億ドル(サウジ日刊紙Arab News)、1,500-2,000億ドル(07/9/8付け日本経済新聞)、2,130億ドル(MEED, 9-15.Nov.07号)などの数値が見受けられる。なお米国の国際金融研究所(IIF)はクウェイトの在外資産を4千億ドルと推定している(同MEED)。
また07/6/20付けのクウェイト・タイムズ紙に国会がKIAの資産運用実態について政府を追及する記事が見られるが、これによるとKIA資産は2千億ドル以上、過去4年間のRFFG及びGRF(下記参照)の資産の運用利益は各々160億KD(約540億ドル)、80億KD(約270億ドル)であったと報じている。
(3)二つのファンド:GRFとRFFG
KIAは当初「General Reserve Fund(GRF)」と呼ばれるファンドのみを運用していたが、1976年にGRFの資産の50%を移管して「Reserve Fund for Future Generation (RFFG、次世代準備基金)」が設立された。これは将来の石油資源の枯渇に備える基金であり、毎年石油収入の10%を基金に繰り入れることが法律で義務付けられている。これに基づいて来年度予算では8.32億KD(約28億ドル)の繰り入れが予定されている。2007年3月末現在の資産は500億KD(約1,700億ドル)である。
(4)KIAのファンド運用戦略
従来のKIAによるファンド運用は米国政府債への投資、欧米金融機関への預金等、極めて保守的であった。それは恐らく当初の資産運用が英国の指導のもと、ロンドンで設立されたクウェイト投資事務所(KIO)で行われていた名残りと考えられ、またサバーハ首長家の権力基盤が弱いため、リスクを冒して投資するという姿勢がなかったからであろう。
しかしKIO時代から通算すれば50年以上の運用経験を積み重ね、またKIA内部にクウェイト人の金融専門家が育ってきたことにより、最近では積極的な運用戦略を目指しているようである。即ち2004年8月、KIAはコンサルタントの勧告により上場株や公的債権への投資という伝統的な資産運用から、非上場の株式(private equity)や不動産への投資を増加させる戦略に転換した。
そして2005年の取締役会では「戦略的分散投資」に踏み切り、投資の見返り目標値(Target Rate of Return, ROR)の設定、ROR向上のため新興市場への参入により10年間で資産倍増を目指す等の方針を決定している。
このような戦略に基づきKIAは旧ダイムラー・クライスラー社の株式6.9%を取得し、またIndustrial & Commercial Bank of China株式(7.2億ドル)、トルコHalkbank株式などを取得している。
(その2:完)
(これまでの内容)
その2:カタルの政府系ファンド(SWF):カタル投資庁
その1:はじめに
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
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(1)クウェイト投資庁(KIA)成立の歴史的背景
クウェイトはGCCの中で最も早く石油が発見された国である。「石油に浮かぶ島」と称されるほど豊かな石油資源に恵まれた同国は第二次大戦後に本格的な石油の生産を始めたが、人口が少ないこともあり早くから石油の富が蓄積された。そして独立前の1953年、ロンドンに「クウェイト投資事務所(Kuwait Investment Office, KIO)」を設立している。現在のクウェイト投資庁(Kuwait Investment Authority, KIA)は1984年に設立されたものであり、それ以降KIOはKIAのロンドン事務所として位置づけられている。
(2)KIAの概要
このようにKIAはGCCのSWFの中では最も古い歴史を有しており、また情報開示についてもインターネットのホームページ(http://www.kia.gov.kw/kia)は他のGCC諸国に比較してかなり充実している。但し資産規模、投資先、運用実績などの数値情報が全く開示されていないのは他の湾岸産油国のSWFと同じである。
KIAの取締役会は9名で構成され議長は財務相である。その他エネルギー相、クウェイト中央銀行総裁、財務省次官のほか、5名の取締役(全員クウェイト人)が任命されている。なお現在の財務相、エネルギー相、中央銀行総裁等はいずれもサバーハ首長家の王族ではない。このように国富の運用機関に王族が直接関与していないことは他の湾岸諸国のSWFに比べて極めて特異な点である。これはクウェイトの成り立ちが他のGCC各国と異なり、サバーハ首長家の権力基盤が弱いためと考えられる。即ちサバーハ家はもともとクウェイトの有力マーチャント・ファミリー(商業財閥)の一つにすぎず、GCCの他の王制(或いは首長制)国家が武力で国家を樹立したことに比べるとlegitimacy(統治の正当性)の権威に欠けるからである。
サバーハ首長家は外交、国防など政府の中枢部を握っているが、非サバーハ家の他部族が多数を占める国会との対立が続いており、SWFについても首長家が恣意的或いは独断的に運用することを妨げている。皮肉にもこのことによってクウェイトではSWF運用にある程度の中立性や透明性が確保されているようである。
(3)運用資産の推定額と運用実績
KIOは運用資産残高を公表していない。各種メディアや調査機関による推定額は700~2,130億ドルまで幅がある。最も少ないのは700億ドル(国際金融情報センター、07/12/1付け朝日新聞)であり、その他1,000億ドル(サウジ日刊紙Arab News)、1,500-2,000億ドル(07/9/8付け日本経済新聞)、2,130億ドル(MEED, 9-15.Nov.07号)などの数値が見受けられる。なお米国の国際金融研究所(IIF)はクウェイトの在外資産を4千億ドルと推定している(同MEED)。
また07/6/20付けのクウェイト・タイムズ紙に国会がKIAの資産運用実態について政府を追及する記事が見られるが、これによるとKIA資産は2千億ドル以上、過去4年間のRFFG及びGRF(下記参照)の資産の運用利益は各々160億KD(約540億ドル)、80億KD(約270億ドル)であったと報じている。
(3)二つのファンド:GRFとRFFG
KIAは当初「General Reserve Fund(GRF)」と呼ばれるファンドのみを運用していたが、1976年にGRFの資産の50%を移管して「Reserve Fund for Future Generation (RFFG、次世代準備基金)」が設立された。これは将来の石油資源の枯渇に備える基金であり、毎年石油収入の10%を基金に繰り入れることが法律で義務付けられている。これに基づいて来年度予算では8.32億KD(約28億ドル)の繰り入れが予定されている。2007年3月末現在の資産は500億KD(約1,700億ドル)である。
(4)KIAのファンド運用戦略
従来のKIAによるファンド運用は米国政府債への投資、欧米金融機関への預金等、極めて保守的であった。それは恐らく当初の資産運用が英国の指導のもと、ロンドンで設立されたクウェイト投資事務所(KIO)で行われていた名残りと考えられ、またサバーハ首長家の権力基盤が弱いため、リスクを冒して投資するという姿勢がなかったからであろう。
しかしKIO時代から通算すれば50年以上の運用経験を積み重ね、またKIA内部にクウェイト人の金融専門家が育ってきたことにより、最近では積極的な運用戦略を目指しているようである。即ち2004年8月、KIAはコンサルタントの勧告により上場株や公的債権への投資という伝統的な資産運用から、非上場の株式(private equity)や不動産への投資を増加させる戦略に転換した。
そして2005年の取締役会では「戦略的分散投資」に踏み切り、投資の見返り目標値(Target Rate of Return, ROR)の設定、ROR向上のため新興市場への参入により10年間で資産倍増を目指す等の方針を決定している。
このような戦略に基づきKIAは旧ダイムラー・クライスラー社の株式6.9%を取得し、またIndustrial & Commercial Bank of China株式(7.2億ドル)、トルコHalkbank株式などを取得している。
(その2:完)
(これまでの内容)
その2:カタルの政府系ファンド(SWF):カタル投資庁
その1:はじめに
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
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at 08:56
2007年03月27日
アハマド・サバーハ保健相に対する不信任問題に端を発し、3月4日に総辞職したナーセル内閣は、閣僚の人選に難航し、これまでに例を見ない3週間以上と言う空白期間の後、26日に漸く組閣を完了した。
閣僚の人数はこれまでと同様の16人であるが6名が交代した。首相、国防相、内相、外相などの主要ポストはサバーハ家王族閣僚が留任したが、保健相が閣外に去ったため、王族閣僚の人数はこれまでの6人から1人減り5人となった。なお前エネルギー相のアリ・ジャラーラはエネルギー省が石油省と水・電力省に分割され、石油相に就任した。
通信相から保健相に横滑りしたマスーマ女史に加え、教育・高等教育相にヌリヤ女史が就任したことにより、クウェイトの女性閣僚は2名となった。また現職国会議員の閣僚は、憲法の規定で最低1名が任命されることになっているが、ファラーハ商工業相が留任したほか、住宅問題担当相にアブドルワーヘド議員が新たに指名されたため、国会議員からの閣僚登用も2名となっている。
16名の閣僚は以下の通りである。
首相:ナーセル・アル・サバーハ(留任)
第一副首相兼内相兼国防相:ジャービル・アル・サバーハ(留任)
副首相兼官房長官:ファイサル・アル・ハッジ(新任)
副首相兼外相:モハンマド・アル・サバーハ(留任)
保健相:マスーマ・アル・ムバラク(留任、通信相より横滑り)
石油相:アリ・ジャラーラ・アル・サバーハ(留任、前エネルギー相)
社会問題・労働相:サバーハ・アル・サバーハ(留任)
通信相兼国会担当国務相:シャリーダ・アル・モシェルジ(新任)
住宅問題担当国務相:アブドルワーヘド・アル・アワディ(新任)
教育・高等教育相:ヌリヤ・アル・セビ(新任)
商工業相:ファラーハ・アル・ハジュリ(留任)
司法相兼イスラム問題担当相:アブダッラー・アル・マートク(留任)
情報相:アブダッラー・アル・ムハイブリ(留任、自治担当国務相より横滑り)
財務相・バデル・アル・フマイディ(留任)
公共事業相兼自治相:ムーサ・アル・サラフ(新任)
電気・水相:ムハンマド・アル・オライム(新任)
以上
閣僚の人数はこれまでと同様の16人であるが6名が交代した。首相、国防相、内相、外相などの主要ポストはサバーハ家王族閣僚が留任したが、保健相が閣外に去ったため、王族閣僚の人数はこれまでの6人から1人減り5人となった。なお前エネルギー相のアリ・ジャラーラはエネルギー省が石油省と水・電力省に分割され、石油相に就任した。
通信相から保健相に横滑りしたマスーマ女史に加え、教育・高等教育相にヌリヤ女史が就任したことにより、クウェイトの女性閣僚は2名となった。また現職国会議員の閣僚は、憲法の規定で最低1名が任命されることになっているが、ファラーハ商工業相が留任したほか、住宅問題担当相にアブドルワーヘド議員が新たに指名されたため、国会議員からの閣僚登用も2名となっている。
16名の閣僚は以下の通りである。
首相:ナーセル・アル・サバーハ(留任)
第一副首相兼内相兼国防相:ジャービル・アル・サバーハ(留任)
副首相兼官房長官:ファイサル・アル・ハッジ(新任)
副首相兼外相:モハンマド・アル・サバーハ(留任)
保健相:マスーマ・アル・ムバラク(留任、通信相より横滑り)
石油相:アリ・ジャラーラ・アル・サバーハ(留任、前エネルギー相)
社会問題・労働相:サバーハ・アル・サバーハ(留任)
通信相兼国会担当国務相:シャリーダ・アル・モシェルジ(新任)
住宅問題担当国務相:アブドルワーヘド・アル・アワディ(新任)
教育・高等教育相:ヌリヤ・アル・セビ(新任)
商工業相:ファラーハ・アル・ハジュリ(留任)
司法相兼イスラム問題担当相:アブダッラー・アル・マートク(留任)
情報相:アブダッラー・アル・ムハイブリ(留任、自治担当国務相より横滑り)
財務相・バデル・アル・フマイディ(留任)
公共事業相兼自治相:ムーサ・アル・サラフ(新任)
電気・水相:ムハンマド・アル・オライム(新任)
以上
at 15:57
2006年07月13日
(前回までの内容)
第1回 突然の国会の解散
第2回 今回総選挙の特色と争点:女性初の参政権、改革促進とサバーハ家批判
第3回 選挙戦の実態:事前の候補者調整とお祭り騒ぎの選挙戦
第4回 開票結果:過半数を制した野党連合、全員落選した女性候補
クウェートの総選挙は6月29日(木)の週末に行われ、32人の女性を含む249人が25の選挙区(各区定員2名)で有権者の判断を仰いだ。昨年の国会で女性の参政権が認められたため、今回が始めての男女平等普通選挙である。完全な普通選挙はGCC諸国の中ではクウェートが始めてであり歴史的なできごとと言えよう。
有権者数は34万人強、そのうち女性は193,000人と全体の57%を占めている。25の選挙区の中で最大の選挙区は第21区(Ahmadi)の30,970人であり、最小選挙区は第2区(Murqab)の5,119人である。両選挙区の1票の格差は6倍とかなり大きい。投票は混乱も無く終了し即日開票が行われた。政府の発表では男女合わせた投票率は65%に達したが、女性の投票率は35%にとどまり 、初の男女完全普通選挙として多数の女性が立候補した割には女性有権者の関心はさほど高くなかった。
女性の投票率が低調であった理由は、豊かさに慣れ、保守的で敬虔なイスラム教徒でもある主婦層はそもそも政治に対する関心がさほど高くないためと考えられる。また宗教団体、部族団体等が事前に候補者の出馬調整を行っており、多くの選挙区で当選者が予測されていた。このため女性たちは酷暑の中を(この時期、クウェートの日中の外気温度は40度を超えることが多い)わざわざ投票所まで出向くことを嫌ったのであろう。これに対して男性の投票率は上記から逆算すると80%を優に超えており、これは支援団体による投票所への駆り出しがあったためと推測される。アラブ人男性は宗教及び部族に対する帰属意識が強く、それが高い投票率につながったと言えそうだ。
選挙は投票終了後直ちに即日開票され翌30日にはKUNA(クウェイト国営通信)が全ての選挙区の当選者を確定した。その結果、解散の引き金となった野党「改革派」が解散当時の29人から4人増え33議席を獲得した。因みに野党の中でも最大勢力であるICM(Islamic Constitutional Movement)は擁立候補5人の全員当選を果たしたが、リベラル派は8人から6人に議席を減らすなど明暗を分けた。クウェートでは内閣の閣僚にも国会の議決権が与えられるため選挙で選出された50人に閣僚15人(全閣僚は16人であるが、内1人は現職国会議員のため重複)を加えた65人が総定数である。従って改革派33人は議会の過半数を制したことになる。一方親政府勢力は改選前の19議席から13議席に急落した 。これは野党の掲げた政府の腐敗を糾弾するキャンペーンが国民の強い支持を受けたことを示しており政府にとっては大きな打撃であった。
但し野党「改革派」は保守的な宗派議員、部族代表のほかリベラル系などから構成される寄り合い所帯である。彼らは内閣及びその背後にあるサバーハ首長家と対決することで一致しているにすぎず、「戦略的」というよりはむしろ「戦術的」な同盟関係に過ぎない 。従って選挙後の新国会でかれらの間にどのような協力関係が生まれるかは不透明である。
なお全選挙区を通じて当選者の最高得票は第17区の1位当選者の8,095票であり、最低得票は第2区第2位当選者の1,461票であった。最大の選挙区(21区)の2位当選者の得票は6,594票であったから、選挙区による当落の格差はかなり大きい。前回選挙での当選の最高得票及び最低得票は今回と全く同じ選挙区であり、その時の得票数はそれぞれ4,092票及び652票であった 。今回は女性の参加により得票数はほぼ倍増しているものの、数千票で当選可能であるため今回も票の買収の噂が横行した(前回「選挙戦の実態」参照)。
事前の当落予想では女性議員の誕生が取り沙汰されたが、ふたを開けてみると候補者32人は全員落選した。前評判が最も高かったDashti女史は女性候補者では最高の1,500票余を獲得したが、それでも選挙区では第5位に留まった。全員落選の理由としては選挙に対する準備不足及び同性の票が思ったほど獲得できなかったためと言われている。そもそも総選挙は来年7月の任期満了時に実施されるものと考えられていたため、突然の解散で女性立候補者は圧倒的な準備不足のまま選挙戦に突入せざるを得なかったのである。また有力とされる立候補者はいずれも女性活動家やキャリア・ウーマンであったため保守的な女性有権者の同調を得られず、さらに宗派や部族の有力者が顔を利かせる選挙区で彼女たちが日常的な活動をしておらず馴染みも薄かったため、女性票を獲得できなかったのが落選の理由であろう。
とにもかくにもクウェート史上初の男女完全普通選挙は「改革派」(反政府系)の勝利に終わり、新国会は7月12日に開会されることになった。なお憲法の規定に従い内閣は選挙の翌日総辞職した。
次回(最終回)は「内閣改造と今後の政局運営」です。
第1回 突然の国会の解散
第2回 今回総選挙の特色と争点:女性初の参政権、改革促進とサバーハ家批判
第3回 選挙戦の実態:事前の候補者調整とお祭り騒ぎの選挙戦
第4回 開票結果:過半数を制した野党連合、全員落選した女性候補
クウェートの総選挙は6月29日(木)の週末に行われ、32人の女性を含む249人が25の選挙区(各区定員2名)で有権者の判断を仰いだ。昨年の国会で女性の参政権が認められたため、今回が始めての男女平等普通選挙である。完全な普通選挙はGCC諸国の中ではクウェートが始めてであり歴史的なできごとと言えよう。
有権者数は34万人強、そのうち女性は193,000人と全体の57%を占めている。25の選挙区の中で最大の選挙区は第21区(Ahmadi)の30,970人であり、最小選挙区は第2区(Murqab)の5,119人である。両選挙区の1票の格差は6倍とかなり大きい。投票は混乱も無く終了し即日開票が行われた。政府の発表では男女合わせた投票率は65%に達したが、女性の投票率は35%にとどまり 、初の男女完全普通選挙として多数の女性が立候補した割には女性有権者の関心はさほど高くなかった。
女性の投票率が低調であった理由は、豊かさに慣れ、保守的で敬虔なイスラム教徒でもある主婦層はそもそも政治に対する関心がさほど高くないためと考えられる。また宗教団体、部族団体等が事前に候補者の出馬調整を行っており、多くの選挙区で当選者が予測されていた。このため女性たちは酷暑の中を(この時期、クウェートの日中の外気温度は40度を超えることが多い)わざわざ投票所まで出向くことを嫌ったのであろう。これに対して男性の投票率は上記から逆算すると80%を優に超えており、これは支援団体による投票所への駆り出しがあったためと推測される。アラブ人男性は宗教及び部族に対する帰属意識が強く、それが高い投票率につながったと言えそうだ。
選挙は投票終了後直ちに即日開票され翌30日にはKUNA(クウェイト国営通信)が全ての選挙区の当選者を確定した。その結果、解散の引き金となった野党「改革派」が解散当時の29人から4人増え33議席を獲得した。因みに野党の中でも最大勢力であるICM(Islamic Constitutional Movement)は擁立候補5人の全員当選を果たしたが、リベラル派は8人から6人に議席を減らすなど明暗を分けた。クウェートでは内閣の閣僚にも国会の議決権が与えられるため選挙で選出された50人に閣僚15人(全閣僚は16人であるが、内1人は現職国会議員のため重複)を加えた65人が総定数である。従って改革派33人は議会の過半数を制したことになる。一方親政府勢力は改選前の19議席から13議席に急落した 。これは野党の掲げた政府の腐敗を糾弾するキャンペーンが国民の強い支持を受けたことを示しており政府にとっては大きな打撃であった。
但し野党「改革派」は保守的な宗派議員、部族代表のほかリベラル系などから構成される寄り合い所帯である。彼らは内閣及びその背後にあるサバーハ首長家と対決することで一致しているにすぎず、「戦略的」というよりはむしろ「戦術的」な同盟関係に過ぎない 。従って選挙後の新国会でかれらの間にどのような協力関係が生まれるかは不透明である。
なお全選挙区を通じて当選者の最高得票は第17区の1位当選者の8,095票であり、最低得票は第2区第2位当選者の1,461票であった。最大の選挙区(21区)の2位当選者の得票は6,594票であったから、選挙区による当落の格差はかなり大きい。前回選挙での当選の最高得票及び最低得票は今回と全く同じ選挙区であり、その時の得票数はそれぞれ4,092票及び652票であった 。今回は女性の参加により得票数はほぼ倍増しているものの、数千票で当選可能であるため今回も票の買収の噂が横行した(前回「選挙戦の実態」参照)。
事前の当落予想では女性議員の誕生が取り沙汰されたが、ふたを開けてみると候補者32人は全員落選した。前評判が最も高かったDashti女史は女性候補者では最高の1,500票余を獲得したが、それでも選挙区では第5位に留まった。全員落選の理由としては選挙に対する準備不足及び同性の票が思ったほど獲得できなかったためと言われている。そもそも総選挙は来年7月の任期満了時に実施されるものと考えられていたため、突然の解散で女性立候補者は圧倒的な準備不足のまま選挙戦に突入せざるを得なかったのである。また有力とされる立候補者はいずれも女性活動家やキャリア・ウーマンであったため保守的な女性有権者の同調を得られず、さらに宗派や部族の有力者が顔を利かせる選挙区で彼女たちが日常的な活動をしておらず馴染みも薄かったため、女性票を獲得できなかったのが落選の理由であろう。
とにもかくにもクウェート史上初の男女完全普通選挙は「改革派」(反政府系)の勝利に終わり、新国会は7月12日に開会されることになった。なお憲法の規定に従い内閣は選挙の翌日総辞職した。
次回(最終回)は「内閣改造と今後の政局運営」です。
at 09:10