2006年08月

2006年08月31日

at 10:10Today's News 

2006年08月30日

at 10:16Today's News 
(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
(第6回) 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
(第7回) 経済の課題(対米FTAのつまづきとGCC回帰)


(第8回) 女性の活躍 (国際舞台で活躍するハリーファ家の女性他)
 イスラム教を国家の精神的支柱とし女性に対する制約が強い湾岸君主制国家の中で、バハレーンはクウェイトと並び女性の社会進出が進んでいる。その象徴が4人の女性、即ちハマド国王の王妃サビーカ妃、外交経験が豊富で今年9月から国連総会の議長を務めるハヤ女史、そして二人の女性閣僚ナダー保健相とファーティマ社会問題相、である。このうちサビーカ妃とハヤ女史はハリーファ王家の王族である。そしてナダー保健相はテクノクラートであると同時に同国の多数派であるシーア派出身であり、ファーティマ保健相の前職はバハレーン大学の教授である。

この4人の女性は現在数少ない湾岸首長国の女性要人の出身階層の特徴を典型的に示している。それは(1)王族であるか、または(2)教育・医療部門のテクノクラートとして名をなした女性であり、或いは(3)海外留学の経験がある、ことである。以下に4人の背景を紹介することにより女性の社会進出の条件の分析を試みる。

まずサビーカ王妃について。王妃は1948年生まれであり、従ってハマド国王より2歳年上である。国王の曽祖父ハマド一世(治世:1932-42年)と王妃の祖父ムハンマドが兄弟(イーサ第6代首長の次男と四男)と言う縁戚関係にある。彼女は1968年に当時皇太子のハマドと結婚し、1969年に長男サルマン(現皇太子)を生み、彼を含めて息子3人、娘1人の母親である。

 サビーカ王妃は現在「アラブ女性連合最高評議会(The Supreme Council of the Arab Women’s Organisation, AWO)」の議長を務めている。このAWOには、エジプト大統領夫人、ヨルダン王妃などアラブ諸国のファースト・レディが名を連ね、世界に向けて積極的な発言を行っている。今年6月にサビーカ王妃が議長となり、バハレーンで第2回アラブ女性サミットが開催されている。この女性サミットには、スザンナ・エジプト大統領夫人、ラニア・ヨルダン王妃、アスマ・シリア大統領夫人のほか、UAE、リビア、パレスチナ、アルジェリアなど各国のトップ・レディが参加している。

 最近注目されるのは、去る8月4日にサビーカ妃を含むAWOの9人のメンバーが、イスラエルのレバノン侵攻に対してイスラエルを非難し、即時停戦を求める声明を発表したことである。アラブの女性がこのように直接的な外交手段に訴えることはこれまでになかったことであり、特に湾岸首長国のトップ・レディとしては画期的な出来事であろう。

 サビーカ妃は女性の地位向上のため内外で積極的な発言を行っており、例えば昨年9月には英国ケンブリッジ大学で講演し、アラブ諸国は女性の役割を認識すべきである、と主張、さらに外国人と結婚したバハレーン女性の子供に国籍を与える用意がある、とまで発言している。王妃のこのような大胆な発言は、米国の留学経験があり、開明的な思想を持つ夫のハマド国王の影響によるものと思われる。ハリーファ家の王族女性の一員として教育された王妃が革命的な思想を持っているとは思えないが、彼女の言動が宗教界或いは女性を含めた一般市民の保守層の反発を招かないかが危惧されるほどである。

shaikhahaya.jpg 同じ王族の女性ではあるが、サビーカ王妃の又従姉妹であるハヤ女史(1952年生)はクウェイト大学を卒業した後、フランスのソルボンヌ大学、エジプトのアレキサンドリア大学など30歳過ぎまで外国の大学で法律を学んだ国際経験豊かな女性である。彼女は中央官庁に就職、法律事務所のコンサルタントを経て、その後再び海外に転じて世界知的所有権機関(WIPO)調停委員会に勤務し、2000年には駐仏大使となった。現在はRoyal Court法律顧問であり、9月12日に始まる第61回国連総会の議長に選任されている。国連の女性議長は彼女で3人目であり、もちろんアラブ女性としては初めてである。このことからも彼女の能力が並々ならぬものであることがわかる。なお隣国カタルは現在国連安全保障理事会の非常任理事国である。レバノン南部へのイスラエル侵攻とそれに続く国連軍派遣、イラン制裁など中東の諸問題が山積しており、バハレーンとカタル両国が国連の枠組みの中でどのような活躍を見せるか非常に興味深い。

 2004年4月にバハレーン初の女性閣僚として保健相に任命されたナダ女史は医学博士である。ナダ保健相はエジプトとアイルランドで薬学を学び、帰国後保健省に入省した。彼女はバハレーンの多数派であるシーア派教徒である。前任者が医療改革に手を付けようとして医師団体の反対に会い失脚したために、彼女は妥協の産物として抜擢されたと言われているが、女権拡張論者として活発な活動も行っている。

 ナダ保健相に次ぎ昨年1月の新内閣で二人目の女性閣僚としてファーティマ社会問題相が誕生した。前職はバハレーン大学の教育学部長であり、彼女は18歳を筆頭とする3男1女の母親でもある。女子教育のパイオニアとしてアカデミズムの分野からサビーカ王妃の活動を支えてきており、今回の人事には王妃の後ろ盾があったことは間違いないであろう。
 以上4人のトップレディに見られる特徴は、高貴な家柄或いは高い学歴である。ハマド国王の妃となったサビーカ妃は別格として、その他の3人は海外留学を含む大卒である(ファーティマ社会問題相の経歴は不明であるが、前歴から推測して海外留学の経験があることは間違いない)。彼女たちの年齢の女性で大学卒は極めて稀で、まして海外留学できるのは名門の家系であることを示している。

 アラブ諸国は男性絶対優位の社会であるため、高学歴の女性が社会進出できる分野は自ずから限られている。それは自国を離れ、男女平等の国際社会で働くか(ハヤ女史の例。ただし彼女がフランス大使になれたのは王族であったからである)、或いは学校教育、病院など男女が分離されているが故に教職或いは女医として働くか(ナダ及びファーティマ両女史の例)、のいずれかである。現在のところ技術系や経営系の分野は女性に対する門戸が閉じられているのが実情である。

バハレーン以外のGCCのトップ・レディを見ると、サビーカ王妃ほど活発に活動しているのは、カタルのモーザ王妃くらいである。また女性閣僚が二人いるのもバハレーンだけで、クウェイト、カタル、UAEなどは1名にとどまっている。バハレーンにおける女性の社会進出は欧米先進国の基準から見ると未だ不十分であろう。しかし他の湾岸諸国に比べてかなり進んでいることに異論の余地はない。

(第8回 完)

(今後の予定)
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 08:52Bahrain 

2006年08月29日

at 09:33Today's News 

2006年08月28日

(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
(第6回) 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)


(第7回) 経済の課題(対米FTAのつまづきとGCC回帰)
 バハレーンはGCC6ヶ国の中で最も古い歴史を持っており、古代バビロニア、アッシリア時代にはディルムーンと呼ばれる貿易中継地として、また中世には天然真珠の産地として栄えた。しかし1869年のスエズ運河の開通によりヨーロッパとアジアの通商ルートは紅海に移り、アラビア湾の海運は衰退した。また真珠採りも日本の養殖真珠により壊滅的打撃を受け、バハレーンの経済は傾いた。

 20世紀半ばの石油開発ブームによりクウェイトに次いでバハレーンでも石油が発見されたが、すぐに対岸のサウジアラビアでガワール油田など巨大油田の生産が始まり、バハレーンの石油ブームは短期間で終息した。

バハレーン経済が息を吹き返したのは1970年代の二度のオイルショック及びレバノン内戦であった。湾岸産油国では豊かなオイル・マネーによる道路・港湾・空港などインフラ整備のための巨大プロジェクトが目白押しとなり、それでも使い切れない余剰マネーの運用を目指して欧米先進国の金融機関が群がった。その頃、中東の金融の中心であったレバノンのベイルートが内戦で破壊され、金融機関はその拠点をバハレーンに移した。これにより同国は金融を中心に活況を呈した。

しかし湾岸各国のインフラ整備が一段落し、また金融の世界的なオン・ライン化によりバハレーンのオフショア金融センターとしての重要性が低下したことにより、この活況も終わりを告げた。さらにドバイが近代的な港湾・空港及び巨大なフリー・トレード・ゾーン(自由貿易地域)を建設して、中継貿易の地位をバハレーンから奪った。

このようにバハレーン経済は激しい浮沈を繰り返し、現在は低迷状態を続けているのである。例えばGDPを見ると1989年にはバハレーンはGCC全体の2.7%を占めていたが(GOIC資料による)、2005年には2.2%となり、GCCの中でバハレーンの地位が低下していることがわかる。

バハレーンは長期に低迷している経済を回復するために様々な手を打ってきた。1995年にはクウェイトと共にGCCでは最も早くWTOに加盟したが、これはサウジアラビアより10年早かったのである。そしてバハレーンは2004年にGCCで最初に米国とFTA(自由貿易協定)を締結した。

 米国とのFTA締結は、GCCの中で自国の立場を強化したいとするバハレーンの思惑と、一方では湾岸君主制国家の民主化を促そうとする米国の思惑が一致したからである。米国にとってバハレーンは湾岸での民主化(それがたとえ君主制のもとでの限定的な民主化、即ち「コスメティック・デモクラシー」であったとしてもである)を実現するショーウィンドウであると考えられる。そして米国の真意はUAE、カタルが持つ豊富な石油及び天然ガスであり、さらに究極的な目標として世界最大の石油埋蔵量を持つサウジアラビアを米国主導の経済体制に組み込むことであろう。その意味でバハレーンとのFTA締結は、これら産油・ガス国を取り込むための足がかりでしかないと思われる。そうでなければ米国が、年間貿易額わずか7.8億ドル(2005年)に過ぎないバハレーンとFTAを締結する理由が理解できないからである。

バハレーンとしては米国の思惑が何であれ、FTA締結はGCC内での自国の立場を強化するものであり、国内はFTA締結を歓迎し、景気浮揚に対する期待が高まった。このバハレーンの期待ムードに水を差したのがGCCの盟主を任じるサウジアラビアであった。

既に書いたとおりGCCはそもそも湾岸の弱小君主制国家がイラン、イラクの脅威から体制を守るための政治・軍事同盟であった。しかし1990年のイラクによるクウェイト侵攻及び翌年の湾岸戦争によるクウェイト解放において、GCCは政治・軍事同盟として殆ど無力であることを曝け出した。それ以降、GCCはその性格を経済同盟に変えつつある。6カ国は話し合いを重ねた結果、2003年に関税を統一、2010年には通貨統合を目指している。

そのようなブロック経済体制の中に米国との二国間FTAを持ち込むことは加盟国間の利益相反となる恐れが強い。GCCが経済同盟に変貌してもなお盟主の座を確保しようとするサウジアラビアにとって、バハレーンの抜け駆け的行動はGCCの団結を乱すものと映った。しかしバハレーンはサウジアラビアの反対を無視して米国とのFTAを推進した。そのため2003年末にバハレーンでGCCサミットが開催された際、サウジアラビアのアブダッラー皇太子(当時、ファハド国王が病気のため実質的なトップとして毎年サミットに参加)は自らは欠席してバハレーンに対する不快の念を表し、代理出席したサウド外相は会議でバハレーンと激しくやりあったのである。

ただ会議に出席したUAEなど他のGCC首脳がサウジアラビアを支持することはなかった。世界の趨勢は多国間のWTOから二国間のFTAの枠組みへと変わりつつあり、しかもUAE,カタル、オマーンなどは米国とFTA交渉を始めていたからである。これらの国々は、経済同盟としてのGCCにも限界を見ていたのである。即ちGCCは総人口が2,500万人程度(しかもそのうち約4割が出稼ぎ外国人)であり、しかも産業構造は石油モノカルチャーである。加盟国相互間の経済的な補完関係も無く、経済同盟として存立する必然性が乏しいのである。実際GCCの関税統一は未だ完成しているとは言えず、2010年の通貨統合に至っては、西欧の専門家から疑問符を投げかけられる有様である。バハレーンはサウジアラビアに対して強気の姿勢を崩さず、2004年にはついに米国とFTAを締結した。

しかし2003年の9.11同時多発テロを契機に米国の態度が急変し、他のアラブ諸国と同様GCC各国に対しても厳しい姿勢を示すようになった。そのことは逆に各国の一般国民の中に強い反米感情を生み出し、為政者としては米国寄りの姿勢を強調することがはばかられるようになった。そのためバハレーンのハマド国王もFTAで自国の地位を強化しようとする戦略は変更せざるを得なくなったのである。

まして2004年以降石油価格が急騰し、GCC各国にはオイル・マネーがあふれ出した。石油で外貨を稼ぐことのできないバハレーンにとっては、金融或いは観光立国を目指してGCCの産油・ガス国のオイル・マネーを吸収することが必要であった。こうしてバハレーンはGCC回帰を模索し始めた。サウジアラビアへの従属を嫌うバハレーンが足場を固めるために選んだ相手は、GCCの中で国土面積、人口が共に小さいが、天然ガスの輸出で一人当たりGDPが今や6か国中で最も大きくなったカタルである。かつてはカタルを支配下に置いたこともあるバハレーンが、長期低迷する自国経済の建て直しのためカタルの経済力を頼りにしているのである。

(第7回 完)


(今後の予定)
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界


at 11:43Bahrain 
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