2007年01月
*本稿は平成18年12月20日、財団法人中東調査会発行の「中東研究」第494号(2006/2007 VOL.III)に発表した同名の論文を8回にわたって転載するものです。
第1回:まえがき
(左:カタル国旗、右:バハレーン国旗)
カタルとバハレーンはGCC(湾岸協力機構)6カ国の中では政治・社会体制の民主化が進んでいると言われる。確かに民主化への取り組み或いはその実現時期が早いことは指摘できよう。しかしグローバル・スタンダードで見た場合、制度の内容が真に民主的なものであるとは言い難く、またその導入時期も一般国民からの突き上げと言う内的要因よりも、中東の政治状況や米国の中東政策などの外的要因によると考えられるものが少なくない。そして民主化の内容と実施のタイミングは、現在のそれぞれの国で絶対的な権力を握る二人のハマド、即ちカタルのハマド首長とバハレーンのハマド国王の恣意的な判断に委ねられている。つまり民主化の内容とプロセスは「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主主義)」と言わざるを得ない。
このような傾向は他のGCC各国にも共通したものであると言えるが、カタルやバハレーンのような国土、人口ともに極めて小さな国家では特に顕著に見られるようである。そしてそこに濃い影を落としているのが、中東の秩序を構築しようとしている超大国米国の政治力・軍事力であり、一方これに対峙するのは、数百年にわたり地域の社会に深く根ざしたイスラム教の社会的な影響力である。
本稿は、カタルとバハレーンと言う二つの君主制国家(前者は首長国、後者は王国)の民主化と称されるものの歴史と現状を並行的に取り上げながら、それぞれの国の支配一族であるアル・サーニー家とハリーファ家が、あるときは米国に追随する姿勢を示し、またあるときは地域への同化のためにイスラムへの傾斜を強め、振り子のように揺れ動く両国の外交及び内政について論じたものである。
(以下の予定)
第2回:カタルとバハレーンの相似性
第3回:相似性その2:政治の歴史的風土と若い君主の登場
第4回:相似性その3:支配一族による国政の独占
第5回:米国とカタル及びバハレーンとの関係
第6回:米国の湾岸民主化政策の見直し
第7回:コスメティック・デモクラシーによる体制維持
第8回:「それでも米国」か、「それならイスラム」か?
第1回:まえがき
(左:カタル国旗、右:バハレーン国旗)
カタルとバハレーンはGCC(湾岸協力機構)6カ国の中では政治・社会体制の民主化が進んでいると言われる。確かに民主化への取り組み或いはその実現時期が早いことは指摘できよう。しかしグローバル・スタンダードで見た場合、制度の内容が真に民主的なものであるとは言い難く、またその導入時期も一般国民からの突き上げと言う内的要因よりも、中東の政治状況や米国の中東政策などの外的要因によると考えられるものが少なくない。そして民主化の内容と実施のタイミングは、現在のそれぞれの国で絶対的な権力を握る二人のハマド、即ちカタルのハマド首長とバハレーンのハマド国王の恣意的な判断に委ねられている。つまり民主化の内容とプロセスは「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主主義)」と言わざるを得ない。
このような傾向は他のGCC各国にも共通したものであると言えるが、カタルやバハレーンのような国土、人口ともに極めて小さな国家では特に顕著に見られるようである。そしてそこに濃い影を落としているのが、中東の秩序を構築しようとしている超大国米国の政治力・軍事力であり、一方これに対峙するのは、数百年にわたり地域の社会に深く根ざしたイスラム教の社会的な影響力である。
本稿は、カタルとバハレーンと言う二つの君主制国家(前者は首長国、後者は王国)の民主化と称されるものの歴史と現状を並行的に取り上げながら、それぞれの国の支配一族であるアル・サーニー家とハリーファ家が、あるときは米国に追随する姿勢を示し、またあるときは地域への同化のためにイスラムへの傾斜を強め、振り子のように揺れ動く両国の外交及び内政について論じたものである。
(以下の予定)
第2回:カタルとバハレーンの相似性
第3回:相似性その2:政治の歴史的風土と若い君主の登場
第4回:相似性その3:支配一族による国政の独占
第5回:米国とカタル及びバハレーンとの関係
第6回:米国の湾岸民主化政策の見直し
第7回:コスメティック・デモクラシーによる体制維持
第8回:「それでも米国」か、「それならイスラム」か?
2007年01月29日
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(一般)緊迫するペルシャ湾、米空母2隻配備は03年のイラク戦争以来
(サウジ)ワーリド王子が国内の株式と不動産に30億ドル投資 *
*MENA Informant「ビジネス王族の雄、ワーリド・ビン・タラール王子」参照。
(一般)緊迫するペルシャ湾、米空母2隻配備は03年のイラク戦争以来
(サウジ)ワーリド王子が国内の株式と不動産に30億ドル投資 *
*MENA Informant「ビジネス王族の雄、ワーリド・ビン・タラール王子」参照。
2007年01月28日
騒がしくなった収容所の内外(1) 塀の中では虐待と自殺が頻発
グアンタナモ収容所における虐待の実態を暴露した映画「グアンタナモ、僕たちが見た真実」が日本でも公開された。これは2年半にわたり拘束され、結局無実として釈放されたパキスタン系英国人青年3人の体験をもとに、マイケル・ウインターボトム監督が制作した映画であり、ベルリン映画祭では銀熊賞(監督賞)を獲得した。
彼ら3人は2001年10月、結婚式のために訪れたパキスタンでアフガン戦争に遭遇、ボランティアのつもりでアフガニスタンに入国し、戦火の中で偶々米軍に捕まったようである。そしてグアンタナモに送られ、拷問のような尋問に耐えて2年半後に釈放されたのである。
大半の虜囚が裁判もないまま未だに5年以上も拘束された状態であることに比べ、彼らは2年半と言う比較的短い期間で釈放されたのは、パキスタン系とは言え英国籍であることが大きな理由であろうことは間違いない。
虜囚に対する尋問ではかなり手荒い虐待が日常的に行われたようであるが、事件として最も注目を集めたのは2005年5月にニューズウィーク誌が報じた「コーラン冒涜事件」であろう。収容所の米軍看守が、虜囚の最も神聖視する聖典コーランを破り捨ててトイレに流した、との報道は、世界中のイスラーム教徒たちを強く刺激した。アフガニスタンではデモで16人が死亡、100人以上が負傷する惨事を引き起こし国際的な問題になった。結局ニューズウイークが誤報であると陳謝して騒ぎが収まった が、これによって世間から忘れかけられていたグアンタナモの虜囚問題が一時的にせよ脚光を浴びたのである。
比較的豊かなサウジアラビアなど湾岸諸国の虜囚の家族は弁護士を雇い、接見を許された弁護士を通じて息子達の安否と収容所内の様子を知ることができた。ただ家族の多くは虜囚である息子に累が及ぶのを恐れてか、或いは政府から口止めされたのか、グアンタナモの様子を外部に公表することはなかった。そのような中でバハレーンのメディアだけが、自国民の虜囚の声を生々しく伝えている。同国は米国の中東民主化政策の最も忠実な追随者であり、それが米国の暗部を明らかにすると言う皮肉な結果をもたらしていると言えよう。
同国のGulf Daily Newsによれば、虜囚ジュマは「収容所では殆ど独房に入れられ、肉親や弁護士からの手紙を読むのは1日2時間だけ。独房はエアコンが効きすぎ冷蔵庫の中にいるようであるが、毛布1枚とマットレス、そしてコーランしか支給されない。独房の外の電灯が消され時計が見えないため、お祈りの時間すら看守に聞いて始めて分かるほどだ。」と述べている 。彼は2001年12月にパキスタンで捕らえられ、既に5年間も留置されている。米軍が彼に毛布とマットレスとコーランしか与えないのは、彼が自殺するのを防ぐためである。実際彼はこれまでに13度も自殺を図っている。
裁判も無いまま長引く拘禁生活は彼ら虜囚を心理的に追い詰め、ジュマのように自殺を図るものが続出し、21人の虜囚による計41回の自殺未遂事件が発生したと報じられている。そして遂に2006年6月、サウジ人2名とイエメン人1名が自ら命を絶ち、彼らの遺体が無言の帰国をするという悲劇が生まれた 。
5年経た今も拘束されているジュマは「帰国か、さもなくば死を」と悲痛な叫びを上げている 。グアンタナモにはジュマと同じ境遇の虜囚が未だ460人残されており、次なる自殺者が何時出てもおかしくない状況である。収容所の外では人権団体が問題の早期解決を訴え、EUは米国とのサミットでグアンタナモ収容所の閉鎖を迫っている 。
(続く)
これまでの内容:
(第6回) グアンタナモに送致された「不法敵性戦闘員」
(第5回)アル・カイダが今日まで生きながらえている理由
(第4回) アル・カイダを創った男:オサマ・ビン・ラディン
(第3回アル・カイダがアフガン義勇軍から国際テロ組織に変貌するまで
(第2回)彼らは何故グアンタナモ収容所に送られたのか?
(第1回)プロローグ:フセイン元大統領死刑とのコントラスト
グアンタナモ収容所における虐待の実態を暴露した映画「グアンタナモ、僕たちが見た真実」が日本でも公開された。これは2年半にわたり拘束され、結局無実として釈放されたパキスタン系英国人青年3人の体験をもとに、マイケル・ウインターボトム監督が制作した映画であり、ベルリン映画祭では銀熊賞(監督賞)を獲得した。
彼ら3人は2001年10月、結婚式のために訪れたパキスタンでアフガン戦争に遭遇、ボランティアのつもりでアフガニスタンに入国し、戦火の中で偶々米軍に捕まったようである。そしてグアンタナモに送られ、拷問のような尋問に耐えて2年半後に釈放されたのである。
大半の虜囚が裁判もないまま未だに5年以上も拘束された状態であることに比べ、彼らは2年半と言う比較的短い期間で釈放されたのは、パキスタン系とは言え英国籍であることが大きな理由であろうことは間違いない。
虜囚に対する尋問ではかなり手荒い虐待が日常的に行われたようであるが、事件として最も注目を集めたのは2005年5月にニューズウィーク誌が報じた「コーラン冒涜事件」であろう。収容所の米軍看守が、虜囚の最も神聖視する聖典コーランを破り捨ててトイレに流した、との報道は、世界中のイスラーム教徒たちを強く刺激した。アフガニスタンではデモで16人が死亡、100人以上が負傷する惨事を引き起こし国際的な問題になった。結局ニューズウイークが誤報であると陳謝して騒ぎが収まった が、これによって世間から忘れかけられていたグアンタナモの虜囚問題が一時的にせよ脚光を浴びたのである。
比較的豊かなサウジアラビアなど湾岸諸国の虜囚の家族は弁護士を雇い、接見を許された弁護士を通じて息子達の安否と収容所内の様子を知ることができた。ただ家族の多くは虜囚である息子に累が及ぶのを恐れてか、或いは政府から口止めされたのか、グアンタナモの様子を外部に公表することはなかった。そのような中でバハレーンのメディアだけが、自国民の虜囚の声を生々しく伝えている。同国は米国の中東民主化政策の最も忠実な追随者であり、それが米国の暗部を明らかにすると言う皮肉な結果をもたらしていると言えよう。
同国のGulf Daily Newsによれば、虜囚ジュマは「収容所では殆ど独房に入れられ、肉親や弁護士からの手紙を読むのは1日2時間だけ。独房はエアコンが効きすぎ冷蔵庫の中にいるようであるが、毛布1枚とマットレス、そしてコーランしか支給されない。独房の外の電灯が消され時計が見えないため、お祈りの時間すら看守に聞いて始めて分かるほどだ。」と述べている 。彼は2001年12月にパキスタンで捕らえられ、既に5年間も留置されている。米軍が彼に毛布とマットレスとコーランしか与えないのは、彼が自殺するのを防ぐためである。実際彼はこれまでに13度も自殺を図っている。
裁判も無いまま長引く拘禁生活は彼ら虜囚を心理的に追い詰め、ジュマのように自殺を図るものが続出し、21人の虜囚による計41回の自殺未遂事件が発生したと報じられている。そして遂に2006年6月、サウジ人2名とイエメン人1名が自ら命を絶ち、彼らの遺体が無言の帰国をするという悲劇が生まれた 。
5年経た今も拘束されているジュマは「帰国か、さもなくば死を」と悲痛な叫びを上げている 。グアンタナモにはジュマと同じ境遇の虜囚が未だ460人残されており、次なる自殺者が何時出てもおかしくない状況である。収容所の外では人権団体が問題の早期解決を訴え、EUは米国とのサミットでグアンタナモ収容所の閉鎖を迫っている 。
(続く)
これまでの内容:
(第6回) グアンタナモに送致された「不法敵性戦闘員」
(第5回)アル・カイダが今日まで生きながらえている理由
(第4回) アル・カイダを創った男:オサマ・ビン・ラディン
(第3回アル・カイダがアフガン義勇軍から国際テロ組織に変貌するまで
(第2回)彼らは何故グアンタナモ収容所に送られたのか?
(第1回)プロローグ:フセイン元大統領死刑とのコントラスト