2009年04月
2009年04月30日
各項目をクリックすれば各紙(英語版)にリンクします。
(UAE)UAEは中国、インドについで世界3位の武器輸入国:SIPRIレポート *
(UAE)賃金不払いなどに対処する労働者保護システム'My Salary'がスタート
(カタール)英国向けLNG大型タンカーがスエズ運河を通り処女航海 **
*(参照)MENAランキングシリーズ「MENA22カ国の国防支出と兵力」
**「拡大を続けるLNG貿易」(連載中)参照
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*(参照)MENAランキングシリーズ「MENA22カ国の国防支出と兵力」
**「拡大を続けるLNG貿易」(連載中)参照
2009年04月28日
(注)HP「中東と石油」に全6回を一括掲載しました。
(第3回)長老会議(マジュリス)で決定された国王
そもそも第二副首相はあくまで行政上のポストであり、王位継承とは直接関係のない問題である。ところが第二副首相ポストが次期皇太子さらには将来の国王云々と取沙汰されるのは、サウド家が王朝を樹立し、国家権力を掌握してきた歴史の中にその理由を見ることができる。
サウド家は15世紀にアラビア半島中央部、現在のリヤド近くのオアシスで興った第一次サウド王朝が始まりである。その後サウド家は二度の盛衰を繰り返し、アブドルアジズ(写真)が20世紀始めにアラビア半島を平定し、1932年にサウジアラビア王国を樹立したのが現在の第3次サウド王朝である。第1次、第2次王朝では王位継承は必ずしも長子相続(即ち前国王の長男)ではなく、また皇太子もおかず、国王が亡くなったときに一族の長老と有力者が話し合って後継者を決める慣わしであった。
この長老会議は「マジュリス」と呼ばれ、ベドウィン(砂漠の遊牧民)独特の継承者決定制度である。現在日本のような象徴天皇制を含めて君主制度を保持している国家では、前君主の長男が皇太子になるのは当然とみなされている。即ち直系・長子・男子王族が君主の地位を承継することが一般的な承継ルールとされている。しかしこのようなルールが確立するのは、その国家の国内外での統治体制が十分に安定した後のことである。それ以前の戦乱の絶えない状況下では一族の中で統率力に優れ軍事的才覚を有する者が君主になることは当然のことであった。サウド家でも他のベドウィン部族或いはオスマントルコのような外敵と戦って一族が生き残るためには、部族の統率者としてもっともふさわしい者を選ばなければならない。そしてその統率者が戦死或いは病死した場合、「マジュリス」によって後継者を決めたのである。
こうして第3次王朝ではアブドルアジズの次男サウドが皇太子となった(長男トルキは早世)。そして初代国王が亡くなるとマジュリスが開かれ、サウドが第二代国王に即位し次弟のファイサルが皇太子となった。マジュリスが皇太子にサウド国王の実の息子ではなく異母弟のファイサルを指名したのは、サウド家の体制がまだ磐石ではなかったからであり、当面は初代国王の息子たちに継承させることにしたのである。同時に行政の最高執行機関として内閣制度を導入し、サウドとファイサルはそれぞれ首相と副首相に就任した。こうしてサウド家のトップが国家の全権を握る極めて専制的な君主制国家が誕生したのである。
当時アラブ世界に吹き荒れた民族主義に対抗する外交方針を巡ってサウド国王とファイサル皇太子は対立、また国王の浪費により国家財政が危機に瀕したため、長老たちはマジュリスを開きサウドを退位させ、ファイサルを新国王に推戴した。そしてファイサルは長老たちの意見を容れて義弟ハーリドを皇太子に指名した。このとき慣例に従いファイサルとハーリドはそれぞれ首相と副首相を兼務することとなったが、同時にファハドが第二副首相に指名された。こうして第二副首相が国王、皇太子に次ぐNo.3のポストであることが半ば公式に認められたのである。実はファハドとハーリドの間には3人の異母兄弟があるが、ファハドはその3人を飛び越えてNo.3となったのである。彼の母親の実家がサウド家の有力な外戚であるスデイリ家であることがマジュリスの決定に影響したと考えられる(サウド家々系図「アブドルアジズ初代国王の王妃とその子息たち」参照)。
サウド家一族の有力長老たちで構成されるマジュリスは時代によりそのメンバーが変わるが、一族の内部組織であるため彼らの名前が外部に公表されることはない。大家族主義の伝統を守るサウド家は、第一次王朝から第二次王朝の血筋を引く全ての王族をサウド家の一員とみなし、その中からマジュリスのメンバーを選んだ。
この広義のサウド家には五つの有力な家系がある。第一次サウド王朝時代に生まれたのがスナイヤーン家、マシャーリ家、ファルハン家であり、第二次サウド王朝時代に生まれたのがジャラウィ(ジルウィ)家とトルキ家である。これは「五摂家」とも言うべき特別な家柄で、例えばジュベール・ヤンブー王立委員会の会長がスナイヤーン家出身であるように現在も行政組織で大きな存在感を示している。マジュリスのメンバーには当然これら五摂家も加わっているのである(「サウド家々系図(始祖~アブダッラー現国王)」参照)。
しかし時代とともにサウド家王族の数は増加し、マジュリスのメンバーを選定することが次第に難しくなってきた。アラブではイスラムの教えもあり複数の妻を持つ者も少なく無く、子供の数が多い。医療が未発達の時代は多産多死型で家族の数はさほど増えなかったが、サウジアラビアでは石油収入のおかげで医療制度が完備するようになり、多産少死型となり子供の数が爆発的に増えたのである。特に第三次サウド王朝ではアブドルアジズ初代国王が26人の王妃との間に36人の王子を生んだため、彼らの子孫を含め現サウド家の王子の数は極めて多い。少し古い資料であるが1998年に公刊された「サウド家王族の家系図」 によればその数は800人弱に達する。これに上記の五摂家を含む広義のサウド家の王子を加えると膨大な人数となる。巷間でサウジの王子が数万人といわれるのもあながち誇張ではないのである。
このような大人数の中からマジュリスのメンバーを選ぶことは殆ど不可能と言える。そして現サウド王朝の王族の中にも長老と呼ぶに相応しい年代に達する者が現われ、さらに若い王子たちのなかには密室の長老会議で後継者が決まることに不満を示す者が少なくなく、選考メンバーと選考プロセスの透明化を求める声が無視できなくなった。
こうして2000年5月に「王室評議会」が設立され、それは2005年に「忠誠委員会」へと改組されたのである。
(続く)
(これまでの内容)
(第1回)突然の第二副首相任命
(第2回)皇太子そして国王への指定席だった第二副首相ポスト
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maedat@r6.dion.ne.jp
(第3回)長老会議(マジュリス)で決定された国王
そもそも第二副首相はあくまで行政上のポストであり、王位継承とは直接関係のない問題である。ところが第二副首相ポストが次期皇太子さらには将来の国王云々と取沙汰されるのは、サウド家が王朝を樹立し、国家権力を掌握してきた歴史の中にその理由を見ることができる。
サウド家は15世紀にアラビア半島中央部、現在のリヤド近くのオアシスで興った第一次サウド王朝が始まりである。その後サウド家は二度の盛衰を繰り返し、アブドルアジズ(写真)が20世紀始めにアラビア半島を平定し、1932年にサウジアラビア王国を樹立したのが現在の第3次サウド王朝である。第1次、第2次王朝では王位継承は必ずしも長子相続(即ち前国王の長男)ではなく、また皇太子もおかず、国王が亡くなったときに一族の長老と有力者が話し合って後継者を決める慣わしであった。
この長老会議は「マジュリス」と呼ばれ、ベドウィン(砂漠の遊牧民)独特の継承者決定制度である。現在日本のような象徴天皇制を含めて君主制度を保持している国家では、前君主の長男が皇太子になるのは当然とみなされている。即ち直系・長子・男子王族が君主の地位を承継することが一般的な承継ルールとされている。しかしこのようなルールが確立するのは、その国家の国内外での統治体制が十分に安定した後のことである。それ以前の戦乱の絶えない状況下では一族の中で統率力に優れ軍事的才覚を有する者が君主になることは当然のことであった。サウド家でも他のベドウィン部族或いはオスマントルコのような外敵と戦って一族が生き残るためには、部族の統率者としてもっともふさわしい者を選ばなければならない。そしてその統率者が戦死或いは病死した場合、「マジュリス」によって後継者を決めたのである。
こうして第3次王朝ではアブドルアジズの次男サウドが皇太子となった(長男トルキは早世)。そして初代国王が亡くなるとマジュリスが開かれ、サウドが第二代国王に即位し次弟のファイサルが皇太子となった。マジュリスが皇太子にサウド国王の実の息子ではなく異母弟のファイサルを指名したのは、サウド家の体制がまだ磐石ではなかったからであり、当面は初代国王の息子たちに継承させることにしたのである。同時に行政の最高執行機関として内閣制度を導入し、サウドとファイサルはそれぞれ首相と副首相に就任した。こうしてサウド家のトップが国家の全権を握る極めて専制的な君主制国家が誕生したのである。
当時アラブ世界に吹き荒れた民族主義に対抗する外交方針を巡ってサウド国王とファイサル皇太子は対立、また国王の浪費により国家財政が危機に瀕したため、長老たちはマジュリスを開きサウドを退位させ、ファイサルを新国王に推戴した。そしてファイサルは長老たちの意見を容れて義弟ハーリドを皇太子に指名した。このとき慣例に従いファイサルとハーリドはそれぞれ首相と副首相を兼務することとなったが、同時にファハドが第二副首相に指名された。こうして第二副首相が国王、皇太子に次ぐNo.3のポストであることが半ば公式に認められたのである。実はファハドとハーリドの間には3人の異母兄弟があるが、ファハドはその3人を飛び越えてNo.3となったのである。彼の母親の実家がサウド家の有力な外戚であるスデイリ家であることがマジュリスの決定に影響したと考えられる(サウド家々系図「アブドルアジズ初代国王の王妃とその子息たち」参照)。
サウド家一族の有力長老たちで構成されるマジュリスは時代によりそのメンバーが変わるが、一族の内部組織であるため彼らの名前が外部に公表されることはない。大家族主義の伝統を守るサウド家は、第一次王朝から第二次王朝の血筋を引く全ての王族をサウド家の一員とみなし、その中からマジュリスのメンバーを選んだ。
この広義のサウド家には五つの有力な家系がある。第一次サウド王朝時代に生まれたのがスナイヤーン家、マシャーリ家、ファルハン家であり、第二次サウド王朝時代に生まれたのがジャラウィ(ジルウィ)家とトルキ家である。これは「五摂家」とも言うべき特別な家柄で、例えばジュベール・ヤンブー王立委員会の会長がスナイヤーン家出身であるように現在も行政組織で大きな存在感を示している。マジュリスのメンバーには当然これら五摂家も加わっているのである(「サウド家々系図(始祖~アブダッラー現国王)」参照)。
しかし時代とともにサウド家王族の数は増加し、マジュリスのメンバーを選定することが次第に難しくなってきた。アラブではイスラムの教えもあり複数の妻を持つ者も少なく無く、子供の数が多い。医療が未発達の時代は多産多死型で家族の数はさほど増えなかったが、サウジアラビアでは石油収入のおかげで医療制度が完備するようになり、多産少死型となり子供の数が爆発的に増えたのである。特に第三次サウド王朝ではアブドルアジズ初代国王が26人の王妃との間に36人の王子を生んだため、彼らの子孫を含め現サウド家の王子の数は極めて多い。少し古い資料であるが1998年に公刊された「サウド家王族の家系図」 によればその数は800人弱に達する。これに上記の五摂家を含む広義のサウド家の王子を加えると膨大な人数となる。巷間でサウジの王子が数万人といわれるのもあながち誇張ではないのである。
このような大人数の中からマジュリスのメンバーを選ぶことは殆ど不可能と言える。そして現サウド王朝の王族の中にも長老と呼ぶに相応しい年代に達する者が現われ、さらに若い王子たちのなかには密室の長老会議で後継者が決まることに不満を示す者が少なくなく、選考メンバーと選考プロセスの透明化を求める声が無視できなくなった。
こうして2000年5月に「王室評議会」が設立され、それは2005年に「忠誠委員会」へと改組されたのである。
(続く)
(これまでの内容)
(第1回)突然の第二副首相任命
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本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
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