2012年01月
2012年01月27日
(注)本稿は「マイ・ライブラリー(前田高行論稿集)」に一括掲載されています。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0212ArabSpring.pdf
何故アラブ各国の国民は「共和制」を倒しながら「君主制」を倒さなかった(あるいは倒せなかった)のであろうか?政治・経済・社会等各国固有の理由があり単純には説明できないであろうが、支配体制が成立した過去の経緯と一般国民が期待する未来と言う二つの視点による仮説を提唱してみたい。過去の視点とは「体制の正統性(legitimacy)に対する被支配者の認識」であり、未来の視点とは「被支配者の安定(stability)願望」である。
共和制の「支配の正統性」は国民の合意に基づく基本法典(憲法)により国民が権力の交代を選択できることである。大統領制のもとでは4年程度の一定期間ごとに公正な選挙と個人の自由意思で大統領を選ぶシステムが保証されることで国民自身が共和制を容認する。もし大統領就任後に不正、失政があれば任期満了後の選挙で別の人物を新大統領に選ぶ。極端な話、被選挙権のある国民は誰でも大統領になれる可能性がある。ここでは支配の正統性(legitimacy)は個人ではなく「共和制」と言う制度にあると言える。
一方、「君主制」は歴史上のある時点で個人又はその一族がある範囲の土地とそこに住む人々を武力で支配することから始まる。支配の正統性(legitimacy)は武力によって担保されるのである。当初は支配に対する住民の抵抗があるが、それを乗り切って支配体制が二代、三代と続けば、住民は好むか好まないかはさておき支配体制を受け入れるようになる。こうしてlegitimacyは支配者一族に受け継がれる。
この二つの体制を一般市民(被支配者)の側から見た場合、両者の違いは共和制では誰もが大統領になれるチャンスがあるのに対し、君主制では支配者一族の遺伝子を持たない者は君主になるチャンスがない、ということである。戯画的に表現すれば共和制では、自分或いは「彼」が大統領になる可能性があるが、君主制では自分も「彼」も国王になることはあり得ない。つまりいずれの制度でも自分と「彼」は平等なのである。
ところがアラブの共和制国家で「彼」が大統領になりその地位の快適さと甘さを知った「彼」はその地位にしがみつこうとする。「彼」の妻や子供、親族、取り巻きにとってその誘惑は更に大きい。大統領の「彼」自身は困難な国政や政敵との権力闘争に身をすり減らすが、「彼」の傘の下で権力の果実を甘受するだけの妻、子供、取り巻きたちは現状維持を願う。そのため彼らは「彼」をたきつけていつまでもその地位を保持させようとする。特に子供は多くの場合、生まれた時から権力の甘さしか知らない。「彼」と彼の関係者の間では「彼」が死ぬまで権力者の地位を保ち、さらには地位を世襲化することが自己目的化する。チュニジア・ベンアリ大統領の妻、エジプト・ムバラク大統領やリビア・カダフィ大佐の息子たちなどその例は枚挙にいとまがない。
しかし大統領一族以外の一般国民にとってそれは耐え難いことである。かつて自分と大差のなかった「彼」が独裁者となり、或いは自分よりも身分の低い「彼女」が独裁者の妻として勝手気ままにふるまう姿は耐えられない。有体に言えば「彼」或いは「彼女」たちに対する「ねたみ」「そねみ」の感情である。それが積もり積もって爆発したのが今回のアラブ共和制国家の政変の根幹にある素朴な国民感情であろう。
一方、君主制国家ではこれを打倒するためには武力が必要であるが、武力は君主一族に独占されている。君主は被支配者の反発を抑えるため開発独裁体制によって社会の安定と経済発展を図り、時にはバラマキ行政によって国民を懐柔する。これらの政策は民心安定にかなり有効である。一般市民は仕事と収入があり、社会がそれなりに安定していれば過激な社会変革は求めないものである。「君主制は過去の遺物」である、と言うのは西欧流の観念論であることを忘れてはならない。
「アラブの春」の標的は「共和制の独裁者」であった。こうしてアラブでは「共和制」が倒れ、「君主制」が残った(残っている、というべきかもしれない)。各国では「共和制と言う名の独裁国家」に代わり「イスラム主義に基づく共和制国家」が生まれたと言える。ただ西欧諸国或いはその思想に慣らされた日本人にとってイスラムと共和制を結び付けることが難しいのは事実である。
もう一つ歴史的な観点から付け加えるとすれば、実はリビアのカダフィ体制は革命を経て王制から共和制に変化した最初の体制であり、チュニジア、エジプトなどもほぼ同様の歴史過程にある。つまり王制打倒によって生まれた最初の共和制が独裁者と恐怖政治をもたらしているのである。このような歴史的事実はフランス革命直後のロベスピエール(ジャコバン党)による恐怖政治、或いはソビエト革命後のスターリンの「血の粛清」にも見ることができる。君主制崩壊後の共和制には必ず恐怖と流血がつきものである。それ故にこそ現在の湾岸君主制国家の平凡な市民達は、混乱と不安を予期させる革命より現在の君主制のもとでの安定(たとえ小市民的安定と言われようとも)のほうが大切なのではないだろうか。
(完)
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