2013年05月
2013年05月31日
(サウジ)MERSコロナウィルス感染症で新たに3人の死者。
(オマーン)中小企業庁を新設。
(クウェイト)外資誘致のため投資庁を新設。 *
(ドバイ)JAFZA、韓国為替銀行とMoU締結。Jafza進出韓国企業数は74社。
(GCC)ヒズボラをテロ組織に指定へ。バハレーンが来週月曜の会合で提案。
*クウェイトの外国投資流入状況については下記参照。
「MENA各国の対外直接投資(FDI)-2012年版UNCTAD報告書」
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0234MenaRank4.pdf
2013年05月30日
(イスラム金融)アジアでのイスラム債発行上向く。昨年は1,370億ドル:IIFMレポート。
*サウジアラビアの現在の国債格付けは日本、中国と同じ「AA-」。
「ソブリン格付け比較表(2013/1/1現在)」参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/areha_kazuya/19-T01.pdf
(注)本稿は「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してごらんいただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0265MenaRank14.pdf
(MENAなんでもランキング・シリーズ その14)
4.MENA5カ国と日本、中国のCPI指数の変化(2008~2012年)
(図http://members3.jcom.home.ne.jp/areha_kazuya/14-G01.pdf 参照)
カタール、トルコ、サウジアラビア、エジプト、リビアの5カ国及びMENA19カ国平均に日本・中国を加えた2008年から2012年までのCPI指数の変化を比較すると、カタールは2008年のCPI指数65が2010年には77となり日本の78に肉薄した。しかしその後の2年間は2011年72、2012年68と連続して低下し5年前の水準に戻っている。因みに日本の推移は73(08年)→77(09年)→78(10年)→80(11年)→74(12年)であった。
トルコの場合は46(08年)→44(09年)→44(10年)→42(11年)→49(12年)であり2012年が過去5年間で最も良い。サウジアラビアは2008年の指数が35でMENA平均(39)を下回っていたがその後2年間で急速に改善、2011、12年は指数44でMENAの平均値を超えている。MENA平均値の推移は39(08年)→39(09年)→40(10年)→39(11年)→40(12年)であり5年間を通じて殆ど変っていない。この指数は中国をわずかに上回る水準であり、因みに中国の5年間の推移は36(08年)→36(09年)→35(10年)→36(11年)→39(12年)である。
エジプトとリビアは2008年の指数がそれぞれ28、26であり殆ど差はなかったが、その後エジプトが28(09年)→31(10年)→29(11年)→32(12年)とわずかながら改善しているのに対して、リビアは25(09年)→22(10年)→20(11年)→21(12年)と長期低落傾向である。
(完)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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2013年05月29日
(注)本レポートは「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0267SaudiRoyalFamily.pdf
3.スデイリ・セブンの明暗:ファハド家、スルタン家の凋落とナイフ家の興隆(続き)
ファハド、スルタン両家が凋落傾向にあるのに対し、興隆の兆しが見えるのがナイフ家である。故ナイフ前皇太子は1975年に内務大臣に就任した後は昨年6月亡くなるまでそのポストを手離さず、その間に末弟のアハマドを腹心に据えつつ次男ムハンマド(写真)を自分の手元で副大臣に引き上げ、一方で東部州の副知事に長男サウドを送り込んだのである。そしてナイフの死後の昨年11月にムハンマドは内相に昇格 、サウドも今年1月東部州知事に任命された 。
*「ナイフ家系図」参照。http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/3-1-6.pdf
*2012年11月12日付け「(ニュース解説)内務省はナイフ家のものか?」参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0247SaudiInteriorMinister.pdf
内務省は国内治安の総元締めでありナイフはタカ派としてサウド家体制を脅かす勢力に対して強硬姿勢を貫いた。サウジアラビアにあって体制を脅かす勢力とは民主改革勢力ではなくイスラム原理主義者であり或いはシーア派である。イスラム原理主義者はイエメンで活動する「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」の訓練を受けたジハード(聖戦)戦士が同国西部のジェッダなど紅海沿岸に出没し、都市での爆弾テロを行い、ナイフ一家はイスラム過激派の標的になった。事実、ナイフが外国療養中の2009年8月のラマダン月、父親の代理として自宅で市民の挨拶を受けていたムハンマドが、市民に紛れ込んだ自爆犯により危うく一命を落とすという事件もあったほどである 。
一方、ペルシャ湾沿岸の東部州では、多数のシーア派住民がサウジ政府による差別政策に抵抗して反政府デモを繰り返しており、その背後にはイランの影が見え隠れするのである。ナイフが長男サウドを東部州に送り込み、次男ムハンマドを内務省に入省させたのはそのような事情があったからである。
2011年、MENA全域に吹き荒れた「アラブの春」は隣国のイエメン及びバハレーンの体制を揺るがし、イエメンではサレハ独裁政権が倒れた。サウジアラビアと同じスンニ派王制国家のバハレーンでも激しい反政府デモが発生、サウジアラビアはUAEと共にGCC同盟軍「半島の盾」を派遣しハリーファ王家の崩壊を何とか食い止めた 。両国の騒乱の影響はサウジ国内にも波及し、ジェッダ或いは東部地区で騒擾事件が発生したことは上に述べたとおりである。今や国内の治安安定はサウド家最大の政治問題であり、その結果、ナイフ家のこれまでの実績が見直されナイフの息子たちが重要ポストに登用されていると言えよう。
次にサルマン家を見てみよう。スデイリ・セブンの六男サルマン皇太子兼国防相とその息子たちはスルタン家及びナイフ家と若干色合いが異なる。サルマンは半世紀近くリヤド州知事を務めたが、その間息子を側近に据えようとした気配がなく息子たちの官職登用に余り熱心ではなかった。彼は州知事在任中、兄のファハド、スルタン或いはナイフがスイスやニューヨークなどで外国治療に出掛けると、彼らに付き添って長期間公務を留守にすることがしばしばであった。極端に言えば彼は兄たちの腰巾着に終始していたのである。国内にいる時も慈善家としての活動に精力を注ぎ、一時期リヤド市内で頻発した爆弾テロ事件に対しても陣頭指揮は兄のナイフ内相(当時)に任せっぱなしであった。首都の知事として普通ならその能力を問われるところであるが、兄たちの支えで責任を取らずにすんだと言えよう。
*「サルマン家系図」参照。http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/3-1-7.pdf
*2012年7月18日付け「中東VIP劇場:タナボタで皇太子になったサルマン王子」参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0232SaudiCrownPrinceSalman.pdf
そのサルマンがスルタンの死で国防相となり、さらにナイフの死で皇太子になった。サルマンの息子たちのうち既に官職についていたのは石油省次官のアブドルアジズ王子(四男)、サウジ最高観光委員会総裁のスルタン王子(二男)の二人だけであるが、スルタン及びナイフの息子(即ち従兄弟)たちに比べ官位も高くなかった。しかしサルマンが皇太子兼国防相になった後、息子たちは父親の後押しで一斉に政府の要職を狙い始めた。
例えば七男ムハンマド王子は国防相顧問として父親の補佐役に収まり、さらに今年1月には六男ファイサル王子がマディナ州知事に任命されている 。スルタン最高観光委員会総裁やアブドルアジズ石油省次官なども更なる高位の官職を狙っているようである。サルマン一家はサウジアラビアの有力メディア複合企業のSRMGのオーナーであり、リヤド州知事時代のサルマンの一挙手一投足を仔細に取り上げていたが、最近ではこれら息子たちの動静を事細かに報道している。メディアを握っていることが他の王族に対するサルマン家の強味である。高齢のサルマンに残された日々は長くない。彼の息子たちは生き残りの最後のチャンスに賭けている。
(続く)
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