2014年04月
2014年04月23日
(注)本レポートは上下は「マイライブラリー(前田高行論稿集)」で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0309MenaTop100.pdf
はじめに
本稿は中東の経済誌MEED(3/28-4/3号)に掲載された株式時価総額による上場企業100社番付「MEED100」を解説したものである。因みにMEED100では下記の11カ国、13取引市場の上場企業を対象としている。
サウジアラビア(市場名:Tadawul)、UAE(同:Abu Dhabi並びにドバイのDFM及びNasdaq Dubaiの3取引所)、カタール(同:Qatar)、クウェイト(同:Kuwait)、オマーン(同:Muscat)、バハレーン(同:Bahrain)、エジプト(同:Cairo)、イラン(同:Tehran)、イラク(同:Iraq)、ヨルダン(同:Amman)、モロッコ(同:Casablanca)
なお算定の基準となる株価はイラン以外は本年2月26日時点での10日間平均取引価格であるが、イランは3月2日の株価である。また純利益(Net Income)は直近の年度末決算数値である。
(表「MENA上場企業株式時価総額トップ100社」http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/1-M-01MeedTop100.pdf参照)
(圧倒的な存在感を示すサウジのSABIC)
1.上位10社について
MEED100の第1位は昨年に引き続きサウジアラビアの石油化学会社SABICである。同社の時価総額は911億ドルであり、これは上位100社の時価合計額の1割を占め、第2位Qatar National銀行の371億ドルを大きく引き離している。
これに続く第3位はサウジアラビアの通信企業Saudi Telecom(332億ドル)、第4位はカタールの石油化学統括企業Industries Qatar(327億ドル)であり、以上4社が時価総額300億ドルを超えている。そして5位から10位までの企業はAl-Rajhi銀行(285億ドル)、Etisalat(アブダビの通信企業、262億ドル)、Kingdom Holding Co.(221億ドル、サウジアラビアの投資会社、オーナーはアルワリード王子)、Etihad Etisalat Co.(188億ドル。サウジの携帯電話会社、通称Mobily。アブダビEtisalat社のグループ企業)、First Gulf 銀行(184億ドル。アブダビ)、National Bank of Abu Dhabi(182億ドル、アブダビ)である。これら上位10社はすべてGCCの企業であり、そのうちサウジアラビアが半数の5社を占め、UAE(アブダビ)が3社、カタールが2社である。
(サウジアラビアが全体の3分の1、エジプトはわずか1社!)
2.100社の国別内訳
上位100社を国別に分類すると最も多いのはサウジアラビアで、全体の3分の1強の34社を占めている。その時価総額は4,077億ドルに達し、金額ベースでは全体の45%と会社数の比率を上回っており企業規模の大きい企業が多いことがわかる。時価総額が大きい上位3社はSABIC、Saudi Telecom、Al-Rajhi銀行である。
サウジアラビアに次いで2番目に企業数が多いのはUAEの18社であり金額ベースでもほぼ同じ19%を占めている。UAEの上位3社はEtisalat, First Gulf銀行、アブダビ・ナショナル銀行である。さらにカタール及びイランが13社で並んでいる。カタールの上位3社はQatar National銀行(2位)、Industries Qatar(4位)及びOoredoo(18位、通信企業)であり、イランの場合はPersian Gulf Petrochemical Industry Holding(17位、石油化学)、Bandar Abbas Oil Refining Co.(42位、石油・ガス)及びParsian Oil & Gas Development(45位、石油化学)といずれも石油・天然ガス分野の企業である。なお両国を金額ベースで比較すると、カタールが15%を占めているのに対してイランは半分の7%にとどまっており、全体的に見てイラン企業は小粒であることがわかる。
国別で5番目に多いのはクウェイトの11社であり、National Bank of Kuwait(12位)、Kuwait Finance House(23位)など金融関連企業がランクの上位にいる。その他の国ではモロッコがMaroc Telecom(26位)など5社がランク入りしており、エジプトはCommercial International銀行(59位、時価総額:47億ドル)及びTelecom Egypt(78位、同:37億ドル)の2社が入っている。バハレーン、ヨルダン、イラク、オマーン各国は1社だけがランクに入っている。それぞれの企業名はAhli United Bank (バハレーン、金融業)、 Asiacell(イラク、通信企業)、Arab Bank(ヨルダン、金融業)、及びBank Muscat(オマーン、金融業)である。
(続く)
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2014年04月22日
1.サウド家の歴史(続き)
(5)第一次世界大戦と「イフワーン軍団」によるアラビア半島の征服
18世紀にオスマン帝国が凋落、その反面英国などヨーロッパの列強がアフリカ、中東、アジアに植民地帝国を築きあげ、両者の対立が表面化し、ヨーロッパ内部でも対立が生まれた。それは「ドイツの3B政策」、「英国の3C政策」と呼ばれる形をとったのである(図参照「図解雑学世界の歴史」より)。3Bとはベルリン-ビザンティウム(イスタンブール)-バグダッドを結ぶドイツの植民地政策であり、ドイツとオスマン帝国は同盟関係を結ぶことになる。そして3C政策とはカイロ-ケープタウン-カルカッタを結ぶ英国の植民地政策であり、英国は仏と同盟関係を結ぶのである。因みに3Cを結んで3角形を作るとそこにアラビア半島及びペルシャ湾がすっぽり入ることがわかる。英国はこの地域を支配下に置こうとしたのである。
こうして1912年にバルカン戦争が勃発、1914年には第一次世界大戦に突入する。この時、前章で触れたとおりリヤドのサウド家及びマッカのハーシム家は英国の財政及び軍事支援を受け、前者はアラビア半島の統一に乗り出し、後者はレバント(レバノン、シリア)方面でオスマン勢力の追い落としに乗り出したのである。
この時、サウド家は部族制圧のため巧妙な戦略を編み出した。それが「イフワーン軍団」である。イフワーンとはアラビア語で「同胞」を意味し、イフワーン軍団は宗教思想に裏打ちされた強力な戦闘集団である。そもそも第一次サウド王朝は18世紀にサウド家のムハンマド・ビン・サウドとサラフィー主義の宗教家ムハンマド・ビン・ワッハーブの同盟により樹立された宗政一致の王朝である(1-(1)参照)。サウド家はそれ以来サラフィー思想を最も重要な統治理念に掲げ、アブドルアジズもベドウィン達にワッハーブ主義を植え付け、オアシスに定住させて強力な戦闘軍団に仕立てあげたのである。宗教思想に裏打ちされた戦闘集団がいかに強力であるかは現代の中東でもアル・カイダなど多くのイスラム過激派武闘組織にその例を見ることができる。エジプトの「ムスリム同胞団」も好戦的ではないにしろ強い結束力を誇っていることは周知のとおりである。因みにムスリム同胞団のアラビア語の名称は「アル・イフワーン・アル・ムスリムーン」である。
1912年に最初のイフワーン軍団が結成され、これによってアブドルアジズはトルコ軍から半島東部のオアシス、ホフーフを奪い取り、アル・ハサ地方を支配下におさめた。因みにアル・ハサ地方は不毛の砂漠であり、サウド家にとって戦略的価値は乏しく、むしろペルシャ湾の安全航行を必要とする英国にとって重要だったと言える。しかしサウジアラビア王国建国後、同地域で巨大な油田が発見され、今やアル・ハサはサウジアラビア(即ちサウド家)の富の源泉になったことは説明するまでもない。この年には後の第4代国王で5男のハーリドが生まれている(母親:ジルウィ家出身のジョーハラ妃、1982年没)。
そして1914年に第一次世界大戦が勃発した。マッカのシャリーフは英軍将校ローレンスの助力を得てアラビア半島紅海沿岸のヒジャーズ地方を北上、エルサレム、バグダッドへ進軍してオスマントルコと戦った(「アラブの反乱」)。一方英国はアブドルアジズに年5万ポンドの補助金と小銃を与え彼にアラビア半島の制圧を委ねたのである。このためアブドルアジズは誰に妨げられることなくアシール攻略(1920年)、ルワラ族服従(1922年)などの戦果を得た。この頃に生まれた王子は9男ファハド(第5代国王、母親はスデイリ家出身のハッサ妃、有名な「スデイリ・セブン」の長兄。2005年没)、10男アブダッラー(現国王、母親:シャンマリ族出身のファダハ妃)などがいる。
アブドルアジズはアラビア半島征服の仕上げとして、ハーシム家からイスラムの聖都マッカ、マディナ及び商都ジェッダを奪い取りヒジャーズ王を宣言した(1926年)。しかしその頃から彼は配下の「イフワーン軍団」の反乱に悩まされる。イフワーンのような宗教勢力は強大化すると暴走する傾向があり、世俗君主のアブドルアジズの手に負えなくなるのである。これもまた歴史上しばしば見られる現象であり、日本の一向一揆、比叡山の僧兵などもその例と言えよう。ついにアブドルアジズの世俗(部族)軍団とイフワーンの宗教軍団が衝突、イフワーン軍団は壊滅した(1929年、シビラの戦い)。こうしてアブドルアジズはアラビア半島全域を制圧し、1932年に「サウジアラビア王国」樹立を宣言するのである。
この時期に生まれたのが15男スルタン(スデイリセブン次男、元国防相、前々皇太子)、18男タラール(母親:コーカサス出身ムナイル妃、富豪王族アルワリード王子の父親)などである。アブドルアジズの36人の息子たちのうち半数の18人がサウジアラビア王国建国までに生まれたことになる。
(続く)
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