2016年11月
2016年11月30日
第6章:現代イスラームテロの系譜
5.敵と味方を峻別する一神教
強引にイラク戦争に突入したブッシュ大統領は、フセイン政権をイラン及び北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」の一翼と決めつけ、「世界は米国側につくか、テロ側につくかのいずれかだ!」と叫んだ。あいまいさを許さぬ二者択一である。それは正義と悪の対決であり、宗教的に言えば神と悪魔の対決である。この場合もちろん米国が正義であり神(God)の代理人である。これに対してイラクは悪であり悪魔の代理人ということになる。そこには一神教のキリスト教が構造的に有している敵と味方を峻別する論理がある。
これを逆にイスラームの立場から見れば全く同じことが言える。つまりイスラーム諸国にとって正義は自分たちにあり自分たちこそ神(アッラー)の代理人である。そして米国や他のキリスト教西欧諸国は悪であり、悪魔の手先であると言うことになる。「悪魔の詩」事件がその好例である。英国の作家サルマン・ラシュディが1988年にムハンマドの生涯を題材にして著した小説がイスラームを冒涜するものだとして、当時のイランの最高指導者ホメイニ師が著者、発行者はもとより外国の翻訳者にまで死刑を宣告、日本語翻訳者の筑波大学助教授が何者かに殺される事件が発生した。
このような過激な反応は一神教特有のものである。ギリシャ神話、日本神道或いは仏教のような多神教(仏教を多神教と見るかどうかは異論があろうが、キリスト教やイスラームのような一神教と異なることは間違いない)では、善と悪、神と悪魔は自らの心の中に共存していると教える。ここでは敵と味方の闘争はあっても、それは決して正義と悪の対決、神の代理人と悪魔の代理人の対決ではない。
敵と味方を正義と悪、神と悪魔で峻別する一神教の世界で敵と味方に分かれるケースは三つ考えられる。一つは異なる宗教との対決(異教対決)、二つ目は宗派の違いによる対決(宗派対決)、そして三つ目は同じ宗派の中の正統派と異端派の対決(異端対決)である。そしてそれぞれの対決のなかでテロが発生する。
これら三つの対決をイスラームの側面で見ると、異教対決とはイスラームとキリスト教及びユダヤ教との対決となる。イスラエルとアラブ諸国の間の中東戦争、或いはアル・カイダが911同時多発テロを始め世界各地で引き起こした対米テロ事件は異教対決のケースと言えよう。ソ連共産主義と対決したアフガン戦争は一神教対無神論の対決として一種の異教対決と見ることができる。そして二つ目の宗派対決はシーア派対スンニ派の対決としてのイラン・イラク戦争がその典型と言える。
三つ目の同一宗派内の異端対決は現代イスラム世俗主義とイスラム原理主義(サラフィー主義)の対決となるが、こちらは少し問題が複雑になる。何故ならこの対決ではお互いに自分たちこそ正統派であり、相手方を異端者、背教者と呼び合う。それぞれが自分たちこそ教祖ムハンマドの正しい教えに従っていると主張して互いに譲らない。妥協の余地は全くないと言ってよい。
異端対決は中世キリスト教社会でも起こった。カソリック対プロテスタントの対決である。しかし西欧キリスト教社会はこの対決を克服し、相互不可侵の形で共存している。しかるにイスラームではどうしてこの対決を克服できないのであろうか。
イスラームの場合、原理主義はムハンマドの布教初期の精神に立ち返ろうと呼びかけるサラフィー主義、つまり復古主義である。原理主義者たちは教義と組織を近代社会に合わせようとしているのではなくむしろその逆である。
なぜそのような復古主義が大手を振ってまかり通るのか。それはイスラームがたかだか7世紀余り前、すでにある程度の世界規模の通商体制が整った14世紀に生まれたためと考えられる。原理主義者たちは7百年前の当時に戻ることが可能だと説く。キリスト教にも原理主義はあるが(元来「原理主義」という言葉は米国福音派の機関紙名が起源である)、キリスト教が生まれた今から2千年前は農耕牧畜の農奴社会の時代であり、生活のすべてを復古することはあり得ず、ただキリストの教えの原点に立ち返ろうということになる。ところがイスラームの原理主義者たちはできるだけ昔の生活を取り戻そうと本気で考える。
原理主義者たちは自分が絶対正しいと信じ込んでいるだけに拙速に自分たちの理想の実現に取り組む。この結果、彼らは対決する相手だけではなく、一般市民からも敬遠される。それでも彼らの勢力が衰えない間は、彼らは一般市民を無理やり従わせようとする。従わない者は「異端者」或いは「背教者」として暴力的に排除される。そして彼らの思想に同調或いは感化された過激な若者をテロリストとして利用し、自爆テロで命を落とした場合は「殉教者」として祭りあげる。教義に逆らえない一般市民はただただ過激な原理主義の嵐が通り過ぎるの耐えて待つことになる。
ところがイラク戦争は全く別の次元で始まり、別の次元で終わった。米国がイラク戦争の開戦理由とした大量破壊兵器は見つからず、またフセイン政権とアルカイダとの関係も証明できなかった。湾岸戦争ではクウェイト解放という大義名分があったが、イラク戦争が何だったのか米国は答えられない。
それでも米国は戦争により圧制者サダム・フセインの政権が倒れ、イラクに民主政権誕生の素地が生まれたと主張した。しかしフセイン政権崩壊後のイラクはまるでパンドラの箱を開けたかのごとき様相を示した。3年後の2006年、サダム・フセインは公開裁判を経て処刑されたが、イラクはスンニ派とシーア派が攻守を変えた政争に明け暮れている。そこに付け込んだのが「イラクとシリア(或いはシャーム)のイスラム国(略称ISIS)」であり、後にアブ・バクル・アル・バグダーディが自らカリフを名乗る「IS(イスラム国)」となって猛威を振るっている。
米国は帝国主義時代の英国、フランスに次いで中東で大きな問題を起こした。これが間違っていたかどうかは今後の歴史が決めることである。キリスト教中世のプロテスタント異端論争ですら問題が落ち着くまでに数百年が必要であったことを考えれば、中東イスラーム世界で現在起こっている事象の正誤を判断するにはまだ相当の年月を要するに違いない。
中東イスラーム世界の異教対決、宗派対決、異端対決が第二次大戦後のわずか100年足らずで円満解決の大団円になるはずはない。しかるにこの世に正義と神の国を実現せんとして真っ向から対決する米国もISも解決を急ぎすぎている。
甚だ無責任な言い方に聞こえるであろうが、ここしばらくは「奢れるものは久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」の心境で事態の推移を見守るしかないようである。
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
荒葉一也
E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp
携帯; 090-9157-3642
2016年11月23日
第6章:現代イスラームテロの系譜
4.悪の枢軸イラクとの戦争(2003年)
911同時多発テロで暮れた翌2002年1月、ブッシュ米国大統領は一般教書演説でイラン、イラク及び北朝鮮を「ならず者国家」(テロ支援国家)と名指しで批判し、これら3か国をひとまとめにして「悪の枢軸」と呼んだ。
「ならず者」、「悪の枢軸」という言葉は実にわかりやすい言葉である。テキサス出身のブッシュ大統領は正義の味方西部劇の保安官気取りであった。世界最強の国家元首の言動としては一寸軽はずみな感が否めないが、米国市民にとっては耳に響きの良い言葉なのであろう。そのことは今年(2016年)のトランプ共和党大統領候補の言動を見ればよくわかる。とにかく米国の一般市民にとっては今も昔も米国は神(God)の正義をかざし悪を懲らしめる世界の保安官なのである。
ブッシュ大統領の戦略思想はブッシュ・ドクトリンと名付けられた。その思想の根幹にあるのが、テロリスト及び大量破壊兵器を拡散させかねない「ならず者国家」に対峙し、必要に応じて先制的自衛権を行使する、ということである。彼は『世界は米国側につくか、テロ側につくかのいずれかだ!』と叫んだのであった。
彼の思想は近代米国社会の底流に脈々と流れる新保守主義(Neo Conservative、いわゆるネオコン)そのものである。ネオコンは政治思想家フクヤマの理論を実践に移した政策集団と言えよう。彼らネオコンはアフガニスタン戦争では当面の敵ソ連を撃破するためイスラム勢力と手を組み、イランン・イラク戦争ではイランを打ち破るためスンニ派のフセイン・イラク政権を支援した。
そして1991年の湾岸戦争ではブッシュ(父)米国大統領が躊躇することなく軍事行動を起こし、イラク軍をクウェイトから撃退した。しかし当時、軍事行動の目的はクウェイト解放のみ、という国連決議の制約のためバクダッドを目前にしてブッシュ(父)大統領は連合軍の引き揚げを命じた。フセイン政権はかろうじて生き延び、その後国内の実権を握り続け、シーア派、クルド族など対立する勢力を弾圧しつつ富国強兵を図り、恐怖政治を続けたのであった。
息子のブッシュ大統領が持ち出したのがフセイン政権の大量破壊兵器隠匿及び国際テロ組織アル・カイダとの結託の疑惑であった。ブッシュ・ドクトリンを掲げて、米国は国連でイラクに対する軍事制裁を説き続けた。安全保障理事会ではロシア、中国に加えフランスも反対、米国に同調したのは英国のみであったが、それでもブッシュはネオ・コンの強硬姿勢を崩さなかった。彼にとってフセイン政権打倒はイラクを民主主義国家に変えるという湾岸戦争で果たし得なかった父親の夢を実現することだった。
こうして2003年3月、米国はイギリス、オーストラリアなど数か国と有志連合を組み、「イラクの自由作戦」の名のもとにイラクに攻め込んだ。戦いに臨む米軍には伝統に輝く二つの勇ましいスローガンがあった。第二次世界大戦そして湾岸戦争に続いて対イラク戦争でもこの掛け声が唱えられた。「ショー・ザ・フラッグ(Show the Flag)」と「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(Boots on the ground)」の二つのスローガンである。
これらを直訳すれば「ショー・ザ・フラッグ」は「旗(幟)色を鮮明に」、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」は「戦場に軍靴の音高く」ということになる。二つを合わせて意訳するなら「軍旗を押し立て前線に乗り込む」ということにでもなるのであろう。つまりそこにあるのは「敵か味方かはっきりさせろ」ということであり、そして「ともかく戦場で敵と直接対峙しろ。臆病者になるな」と叱咤激励するのである。テキサス出身のカウボーイの末裔ブッシュ大統領は、かつてインディアン(差別用語だとして現在では「ネイティブ・アメリカン」と称されているが)を蹴散らした騎兵隊長の気分だったと考えればわかりやすい。
兵士を鼓舞するこのようなスローガンが無くても圧倒的な物量を誇る有志連合の前にイラク軍は衆寡敵せずである。戦闘は早々と決着がつき、ブッシュ大統領は2か月後にはペルシャ(アラビア)湾に浮かぶ原子力空母「アブラハム・リンカーン」の艦上で「大規模戦闘終結宣言」を行ったのである。
しかしよく知られているとおり戦争後の調査でイラクに大量破壊兵器など存在しなかったことがわかり、イラク戦争の開戦理由が否定された。さらにフセインをとらえ死刑に処した後もイラクの治安は回復するどころかむしろ宗派対立、部族対立が表面化し治安の悪化が常態化した。ようやく2011年にオバマ大統領によりイラク戦争終結宣言が出て米軍は全面撤退したのである。しかし本当のところは戦争が終結したから軍が撤退したのではなく、軍を全面撤退させるために戦争の終結を宣言したという方が正しいのであろう。
米軍の撤退を見計らったかのようにシリアからイラク北部にかけて「IS (イスラム国)」が侵入して来るのである。
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
荒葉一也
E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp
携帯; 090-91の57-3642