2006年08月25日
(バハレーン特集)バハレーンとハリーファ王家:諸刃の剣の国内民主化と対米追随外交(第6回)
(これまでの内容)
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
第6回 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
バハレーンはかつて英国の保護領であったが、1971年の独立後はアラブ連盟、国連など国際的な枠組みの中で自国の安全を図ろうとした。しかし、国内ではスンニ派のハリーファ家と多数派のシーア派が対立、不安定な状態が続いた。そして1978年のイラン革命でホメイニ政権が誕生すると、翌年にはイランの扇動によるとみられる大規模な反政府運動が発生し、その後1980年代には度々政府転覆の陰謀が発覚した。
イランのホメイニ師は湾岸君主制国家に対する体制批判を強め、各国のシーア派住民がこれに呼応して反政府暴動を起こしたため、イランの脅威に危機感を抱いたバハレーンを含む湾岸6カ国は1981年に「湾岸協力機構(GCC)」を結成した。GCCは君主制を維持するための相互扶助を目的とした政治・軍事同盟と言える。そして1983年に勃発したイラン・イラク戦争により差し迫る危機に備えて弱小国同士のGCC6カ国は「砂漠の盾」と名づける合同軍事演習を度々行ったのである。
(GCC旗)
しかし6カ国の軍事カは、オイルマネーを湯水のごとく使い欧米の最新鋭戦闘機、ミサイルなどの近代兵器を購入するなど装備こそ超一流であったが、兵力では予備役を含め100万人以上の兵員がいると見られるイランやイラクに比べ圧倒的に劣勢であった。さらに各国はいずれも平坦な砂漠の長い国境線を有しているため他国の侵略を防ぐことはほとんど不可能だった。これは後にイラクがクウェイトに侵攻した「湾岸戦争」で現実のものとなったのである。
このような状況の中でバハレーンがとった外交方針は域外の大国と満遍なく国交や条約を結ぶ「全方位外交」であった。同国は1989年及び1990年に中国及びソ連(当時)と相次いで国交を樹立、その一方で1991年には米国と防衛協定を締結し、米国にバハレーン国内での軍備品貯蔵や港湾使用を認めた。このようにバハレーンは自国の安全を確保するために、イデオロギーや政治、経済の体制を超えて全ての大国と外交関係を持ったのである。しかし国交樹立直後の1991年にソ連が崩壊し米国一強時代が到来したため、従来の超大国間の力の均衡を前提とした「全方位外交」は役に立たなくなった。
一方、ハリーファ家にとって脅威はイラン、イラクなどの外敵だけではなく、国内のシーア派もその一つであった。シーア派住民による反政府暴動は時としてバハレーン治安当局の手に余ることもあり、そのため1995年にはサウジアラビアの支援を得て漸く暴動を鎮圧したほどである。さらに同じ年にはカタルとの間でハワール島の領有をめぐり一触即発の衝突の危機が発生しており、バハレーンはGCCの盟主であるサウジアラビアとの関係を最重要視した。こうしてバハレーン外交は、イラン、イラクなど中東の広域的な問題については米国に依存し、国内或いはGCCの問題についてはサウジアラビアに依存する、と言う二つの側面を見せることになった。
しかし湾岸戦争でクウェイトを解放した主力部隊は、米英を中心とする西欧の多国籍軍であり、GCC合同軍は殆ど貢献するところがなく、バハレーンはGCCの軍事同盟としての無力さを思い知らされた。またGCC6カ国の中で人口、国土面積、資源のいずれもが最も小さいバハレーンとしては、GCC依存はサウジアラビアに対する従属関係がますます顕著になることを意味する。歴史的に見てサウジアラビアより文化的な先進国である、と自認するバハレーンにとって、そのような状況は耐え難いものであったはずである。
こうしてバハレーンは対米追随外交の道を選んだのである。それは1999年に首長がイーサからハマドに替わり、また米国のブッシュ政権が「新中東民主化政策」を打ち出した時期と重なったからでもあった。米国で教育を受けた進歩的なハマド首長(現国王)は、皇太子時代からサウジアラビアの専横を苦々しく思い、サウジ離れを模索していた。一方、米国は恒久的な中東和平 - イスラエルとアラブ諸国が平和裏に共存する中東 - を構築するためにはアラブ諸国を民主化することが不可欠であると確信していた。そして2003年にイラクのサダム政権を倒したことで、米国は湾岸諸国の民主化を推進する好機ととらえ、その手始めとして外交関係が良好なバハレーンに的を絞ったのである。
バハレーン(ハリーファ家)と米国(ブッシュ政権)の思惑は一致し、バハレーンは恒久憲法制定、議会再開、立憲王制国家への転換、と民主化路線を明確に打ち出した。同国の民主化は「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主化)」の域を出るものではないが、米国としては他のGCC諸国の追随を促すものとしてバハレーンの民主化を強力に後押しした。2003年のイラク戦争終結直後、ブッシュ大統領が最初に会談したアラブの首脳がハマド国王であったことは、米国のバハレーンに対する期待を何よりも雄弁に物語っている。
さらに米国は、バハレーンをGCCで最初のFTA(自由貿易協定)相手国に選んだ。FTA問題については次回に改めて詳しく触れるが、米国がアラブ諸国とFTAを締結するのは、ヨルダン、モロッコについでバハレーンが3番目である。米国がGCC6ヶ国の中で産油国とは言えないバハレーンを敢えて最初のFTA調印国としたことは非常に興味深い。FTAと言う二国間協定を本来の経済的効果で評価するなら、米国がバハレーンを相手にすることは全く合理性にかけるはずである。米国がバハレーンとFTAを締結する理由は、純粋な経済問題ではなく中東民主化路線に沿った外交戦略と考えるのが妥当であろう。
しかし皮肉にもバハレーンが米国とFTAを調印した2004年後半から、米国の中東民主化政策が破綻の兆しを見せた。それは中東民主化のモデルに位置づけようとしたイラクの政情がますます混迷を深め、また民主化の象徴といえるパレスチナやレバノンの自由選挙で急進的なイスラム政党が躍進したことである。米国は急速な民主化の浸透がむしろ反米勢力の伸張を招いたことを思い知らされ、「中東民主化政策」の旗を目立たないように引っ込め始めた。この結果、対米関係ではGCCの中で一歩先んじていると考えていたバハレーンは、米国にはしごをはずされた状態になった。
米国の後ろ盾と形ばかりの民主化政策で体制の安泰を図ることができると踏んでいたハリーファ家にとっては大きな見込み違いであった。国内では以前にも増して反米感情が高まっており、米国追随外交はハリーファ家にとって命取りになりかねない。
そこでバハレーン(ハリーファ家)は再びGCCの一員であることを強調しようとしている。ただ従来のままではサウジアラビアに対する従属関係が再現するだけである。それを避けたいと考えるハマド国王はGCCの中の新興国カタルとの連携を目指しているように見受けられる。両国はハワル島領有権問題が解決した2001年にトップレベルの定期協議機関「相互協力合同最高会議(The Joint Higher Committee for Mutual Co-operation between Qatar and Bahrain)」を設置、毎年協議を重ねている。その結果、バハレーンとカタル間に海上橋を建設する計画など多くの具体的案件が実現に向かっている。人口及び国土面積が6カ国中で最も小さい2カ国が結束強化を図ろうとしているのである。
(第6回 完)
(今後の予定)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
第6回 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
バハレーンはかつて英国の保護領であったが、1971年の独立後はアラブ連盟、国連など国際的な枠組みの中で自国の安全を図ろうとした。しかし、国内ではスンニ派のハリーファ家と多数派のシーア派が対立、不安定な状態が続いた。そして1978年のイラン革命でホメイニ政権が誕生すると、翌年にはイランの扇動によるとみられる大規模な反政府運動が発生し、その後1980年代には度々政府転覆の陰謀が発覚した。
イランのホメイニ師は湾岸君主制国家に対する体制批判を強め、各国のシーア派住民がこれに呼応して反政府暴動を起こしたため、イランの脅威に危機感を抱いたバハレーンを含む湾岸6カ国は1981年に「湾岸協力機構(GCC)」を結成した。GCCは君主制を維持するための相互扶助を目的とした政治・軍事同盟と言える。そして1983年に勃発したイラン・イラク戦争により差し迫る危機に備えて弱小国同士のGCC6カ国は「砂漠の盾」と名づける合同軍事演習を度々行ったのである。
(GCC旗)
しかし6カ国の軍事カは、オイルマネーを湯水のごとく使い欧米の最新鋭戦闘機、ミサイルなどの近代兵器を購入するなど装備こそ超一流であったが、兵力では予備役を含め100万人以上の兵員がいると見られるイランやイラクに比べ圧倒的に劣勢であった。さらに各国はいずれも平坦な砂漠の長い国境線を有しているため他国の侵略を防ぐことはほとんど不可能だった。これは後にイラクがクウェイトに侵攻した「湾岸戦争」で現実のものとなったのである。
このような状況の中でバハレーンがとった外交方針は域外の大国と満遍なく国交や条約を結ぶ「全方位外交」であった。同国は1989年及び1990年に中国及びソ連(当時)と相次いで国交を樹立、その一方で1991年には米国と防衛協定を締結し、米国にバハレーン国内での軍備品貯蔵や港湾使用を認めた。このようにバハレーンは自国の安全を確保するために、イデオロギーや政治、経済の体制を超えて全ての大国と外交関係を持ったのである。しかし国交樹立直後の1991年にソ連が崩壊し米国一強時代が到来したため、従来の超大国間の力の均衡を前提とした「全方位外交」は役に立たなくなった。
一方、ハリーファ家にとって脅威はイラン、イラクなどの外敵だけではなく、国内のシーア派もその一つであった。シーア派住民による反政府暴動は時としてバハレーン治安当局の手に余ることもあり、そのため1995年にはサウジアラビアの支援を得て漸く暴動を鎮圧したほどである。さらに同じ年にはカタルとの間でハワール島の領有をめぐり一触即発の衝突の危機が発生しており、バハレーンはGCCの盟主であるサウジアラビアとの関係を最重要視した。こうしてバハレーン外交は、イラン、イラクなど中東の広域的な問題については米国に依存し、国内或いはGCCの問題についてはサウジアラビアに依存する、と言う二つの側面を見せることになった。
しかし湾岸戦争でクウェイトを解放した主力部隊は、米英を中心とする西欧の多国籍軍であり、GCC合同軍は殆ど貢献するところがなく、バハレーンはGCCの軍事同盟としての無力さを思い知らされた。またGCC6カ国の中で人口、国土面積、資源のいずれもが最も小さいバハレーンとしては、GCC依存はサウジアラビアに対する従属関係がますます顕著になることを意味する。歴史的に見てサウジアラビアより文化的な先進国である、と自認するバハレーンにとって、そのような状況は耐え難いものであったはずである。
こうしてバハレーンは対米追随外交の道を選んだのである。それは1999年に首長がイーサからハマドに替わり、また米国のブッシュ政権が「新中東民主化政策」を打ち出した時期と重なったからでもあった。米国で教育を受けた進歩的なハマド首長(現国王)は、皇太子時代からサウジアラビアの専横を苦々しく思い、サウジ離れを模索していた。一方、米国は恒久的な中東和平 - イスラエルとアラブ諸国が平和裏に共存する中東 - を構築するためにはアラブ諸国を民主化することが不可欠であると確信していた。そして2003年にイラクのサダム政権を倒したことで、米国は湾岸諸国の民主化を推進する好機ととらえ、その手始めとして外交関係が良好なバハレーンに的を絞ったのである。
バハレーン(ハリーファ家)と米国(ブッシュ政権)の思惑は一致し、バハレーンは恒久憲法制定、議会再開、立憲王制国家への転換、と民主化路線を明確に打ち出した。同国の民主化は「コスメティック・デモクラシー(見せ掛けの民主化)」の域を出るものではないが、米国としては他のGCC諸国の追随を促すものとしてバハレーンの民主化を強力に後押しした。2003年のイラク戦争終結直後、ブッシュ大統領が最初に会談したアラブの首脳がハマド国王であったことは、米国のバハレーンに対する期待を何よりも雄弁に物語っている。
さらに米国は、バハレーンをGCCで最初のFTA(自由貿易協定)相手国に選んだ。FTA問題については次回に改めて詳しく触れるが、米国がアラブ諸国とFTAを締結するのは、ヨルダン、モロッコについでバハレーンが3番目である。米国がGCC6ヶ国の中で産油国とは言えないバハレーンを敢えて最初のFTA調印国としたことは非常に興味深い。FTAと言う二国間協定を本来の経済的効果で評価するなら、米国がバハレーンを相手にすることは全く合理性にかけるはずである。米国がバハレーンとFTAを締結する理由は、純粋な経済問題ではなく中東民主化路線に沿った外交戦略と考えるのが妥当であろう。
しかし皮肉にもバハレーンが米国とFTAを調印した2004年後半から、米国の中東民主化政策が破綻の兆しを見せた。それは中東民主化のモデルに位置づけようとしたイラクの政情がますます混迷を深め、また民主化の象徴といえるパレスチナやレバノンの自由選挙で急進的なイスラム政党が躍進したことである。米国は急速な民主化の浸透がむしろ反米勢力の伸張を招いたことを思い知らされ、「中東民主化政策」の旗を目立たないように引っ込め始めた。この結果、対米関係ではGCCの中で一歩先んじていると考えていたバハレーンは、米国にはしごをはずされた状態になった。
米国の後ろ盾と形ばかりの民主化政策で体制の安泰を図ることができると踏んでいたハリーファ家にとっては大きな見込み違いであった。国内では以前にも増して反米感情が高まっており、米国追随外交はハリーファ家にとって命取りになりかねない。
そこでバハレーン(ハリーファ家)は再びGCCの一員であることを強調しようとしている。ただ従来のままではサウジアラビアに対する従属関係が再現するだけである。それを避けたいと考えるハマド国王はGCCの中の新興国カタルとの連携を目指しているように見受けられる。両国はハワル島領有権問題が解決した2001年にトップレベルの定期協議機関「相互協力合同最高会議(The Joint Higher Committee for Mutual Co-operation between Qatar and Bahrain)」を設置、毎年協議を重ねている。その結果、バハレーンとカタル間に海上橋を建設する計画など多くの具体的案件が実現に向かっている。人口及び国土面積が6カ国中で最も小さい2カ国が結束強化を図ろうとしているのである。
(第6回 完)
(今後の予定)
7. 経済の課題
8. 女性の活躍
9. コスメティック・デモクラシーの限界