2008年04月24日
湾岸産油国の政府系ファンド(SWF) Part II(その1)
はじめに
Part I「湾岸産油国の政府系ファンド(SWF)を探る」では、カタル、クウェイト、サウジアラビア、アブダビ及びドバイ5カ国のSWF(以下「湾岸SWF」と省略)を個別に検証した。
このPart IIでは、湾岸SWFの全体的な動きに主眼を置き、まず最初に湾岸SWFの主要な投資先である米国との歴史的関係を蜜月時代、緊張時代、新秩序模索時代の3期にわけて分析することとする。また湾岸SWFが新たに取り組もうとしている欧米以外の地域、即ちMENA(中東・北アフリカ諸国)及びアジア諸国への進出の状況についても概観する。
次いで各国の投資の流れを示すUNCTAD(国連貿易開発会議)のFDI(外国直接投資)統計等を参考に、湾岸SWFの問題点と各SWFの今後の動向を探ってみる。そして最後に、現在始まっている国家間の投資秩序の対話、即ち「Investor」(湾岸諸国、シンガポールなど世界の投資国及びそのSWF)と「Recipient」(欧米先進国など投資受入国)の間の対話について、両者それぞれの主張及び妥協点を模索する動きを述べることとする。
本稿がSWF問題に関心を持つ方々の議論の一助になれば幸いである。
1.湾岸SWFと米国との歴史的関係(1):蜜月時代(9.11テロ事件まで)
クウェイトは1953年、ロンドンにクウェイト投資事務所(Kuwait Investment Office、略称KIO)を開設した。これが世界最初の政府系ファンド(SWF)であり、最初の湾岸SWFであった。KIOは1984年、クウェイト投資庁(Kuwait Investment Authority、略称KIA)に組織改編され現在に至っている。
当時の石油価格は1バレルがわずか1.93ドルであり、しかも石油の生産はメジャーと呼ばれる国際石油会社が握っていたため、産油国の収入は非常に少なかった。しかし人口わずか20万人弱(当時)のクウェイトにとってはそれでも十分すぎるほどだったのである。ただクウェイト政府自身は資金運用のノウハウがないため、世界の金融の中心ロンドンで、旧宗主国の英国人のファンドマネージャーに運用を委ねたのである。その運用姿勢は公的債権、銀行預金など極めて保守的であったが、第二次大戦後の戦後復興による資金需要が旺盛であり、手堅い運用でもそれなりのリターンはあったものと思われる。
1970年代に入り産油国はトリポリ協定、リヤド協定などにより石油収入の取り分を増加させ、さらに1973年及び1979年の二度のオイル・ショックにより石油価格がそれまでの2ドルから20ドル以上に跳ね上がったため、サウジアラビア、UAE(アブ・ダビ)などクウェイト以外の湾岸産油国にも膨大な余剰マネーが発生した。アブ・ダビはクウェイトに倣って1977年にアブダビ投資庁(Abu Dhabi Investment Office, ADIA)を設立、SWFとして世界の金融界に登場した。一方、広大な国土とそれなりの人口(当時約7百万人)を抱えるサウジアラビアは国内開発に多額の資金を必要としたが、それを補って余りあるオイルマネーは米国政府債の購入に向けられた。
1980年代はレーガン政権(1981~89年)の高金利政策の結果ドル高が進行した。また減税政策と巨額の財政支出は貿易赤字と財政赤字を加速し、いわゆる「双子の赤字」が拡大した時期でもあった。湾岸産油国は豊かなオイルマネーで米国の最新兵器を大量に購入、さらに余剰マネーを米国政府債の購入に充てたのであるが、これは米国の貿易赤字と財政赤字の両方に対する助け舟になった訳である。
湾岸産油国側にとっても高金利で、しかも政治・経済が安定した米国に余剰マネーを預ける意味は大きかった。さらに王制(首長制)を維持するためには軍事・外交両面にわたる米国の支えが不可欠であった。何故なら当時のアラブにはソ連が後ろ盾となった民族主義運動が吹き荒れていたからである。ソ連共産主義は自由主義の米国及びイスラム国家である湾岸産油国の共通の敵である。アフガン戦争で反政府ゲリラに対して米国が武器を、湾岸諸国が資金を分担して遂にソ連軍撤退に追い込んだことなどは米国と湾岸産油国が連携した典型的な例である(但しその結果アフガニスタンがイスラム過激派アル・カイダのゆりかごとなり、後に9.11テロ事件となって跳ね返ってきたことは歴史の皮肉と言えよう)。
ソ連が崩壊した後の1990年代も米国と湾岸産油国の関係は極めて良好であった。シーア派のイランあるいはイラク・フセイン政権の脅威に晒され、各国の米国頼みの構図は変わらなかったからである。そして豊かな湾岸マネーは米国政府の財政赤字を補填するだけではなく、1991年のサウジアラビアのアルワリード王子によるシティバンク救済に見るように米国企業の「白馬の騎士」にもなった。
このように2001年の9.11テロ事件発生まで、湾岸産油国とそのSWFは米国の政府及び企業(銀行)と蜜月関係だったのである。
(その1終わり)
(次回予定)2.湾岸SWFと米国の歴史(2):緊張時代
Part I:「湾岸産油国の政府系ファンドを探る」(全6回)
その6:ドバイの政府系ファンド
その5:アブダビの政府系ファンド:ADIAとIPIC
その4:サウジアラビアの政府系ファンド:サウジ通貨庁と年金庁
その3:クウェイトの政府系ファンド(SWF):クウェイト投資庁
その2:カタルの政府系ファンド(SWF):カタル投資庁
その1:はじめに
以上
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maedat@r6.dion.ne.jp
Part I「湾岸産油国の政府系ファンド(SWF)を探る」では、カタル、クウェイト、サウジアラビア、アブダビ及びドバイ5カ国のSWF(以下「湾岸SWF」と省略)を個別に検証した。
このPart IIでは、湾岸SWFの全体的な動きに主眼を置き、まず最初に湾岸SWFの主要な投資先である米国との歴史的関係を蜜月時代、緊張時代、新秩序模索時代の3期にわけて分析することとする。また湾岸SWFが新たに取り組もうとしている欧米以外の地域、即ちMENA(中東・北アフリカ諸国)及びアジア諸国への進出の状況についても概観する。
次いで各国の投資の流れを示すUNCTAD(国連貿易開発会議)のFDI(外国直接投資)統計等を参考に、湾岸SWFの問題点と各SWFの今後の動向を探ってみる。そして最後に、現在始まっている国家間の投資秩序の対話、即ち「Investor」(湾岸諸国、シンガポールなど世界の投資国及びそのSWF)と「Recipient」(欧米先進国など投資受入国)の間の対話について、両者それぞれの主張及び妥協点を模索する動きを述べることとする。
本稿がSWF問題に関心を持つ方々の議論の一助になれば幸いである。
1.湾岸SWFと米国との歴史的関係(1):蜜月時代(9.11テロ事件まで)
クウェイトは1953年、ロンドンにクウェイト投資事務所(Kuwait Investment Office、略称KIO)を開設した。これが世界最初の政府系ファンド(SWF)であり、最初の湾岸SWFであった。KIOは1984年、クウェイト投資庁(Kuwait Investment Authority、略称KIA)に組織改編され現在に至っている。
当時の石油価格は1バレルがわずか1.93ドルであり、しかも石油の生産はメジャーと呼ばれる国際石油会社が握っていたため、産油国の収入は非常に少なかった。しかし人口わずか20万人弱(当時)のクウェイトにとってはそれでも十分すぎるほどだったのである。ただクウェイト政府自身は資金運用のノウハウがないため、世界の金融の中心ロンドンで、旧宗主国の英国人のファンドマネージャーに運用を委ねたのである。その運用姿勢は公的債権、銀行預金など極めて保守的であったが、第二次大戦後の戦後復興による資金需要が旺盛であり、手堅い運用でもそれなりのリターンはあったものと思われる。
1970年代に入り産油国はトリポリ協定、リヤド協定などにより石油収入の取り分を増加させ、さらに1973年及び1979年の二度のオイル・ショックにより石油価格がそれまでの2ドルから20ドル以上に跳ね上がったため、サウジアラビア、UAE(アブ・ダビ)などクウェイト以外の湾岸産油国にも膨大な余剰マネーが発生した。アブ・ダビはクウェイトに倣って1977年にアブダビ投資庁(Abu Dhabi Investment Office, ADIA)を設立、SWFとして世界の金融界に登場した。一方、広大な国土とそれなりの人口(当時約7百万人)を抱えるサウジアラビアは国内開発に多額の資金を必要としたが、それを補って余りあるオイルマネーは米国政府債の購入に向けられた。
1980年代はレーガン政権(1981~89年)の高金利政策の結果ドル高が進行した。また減税政策と巨額の財政支出は貿易赤字と財政赤字を加速し、いわゆる「双子の赤字」が拡大した時期でもあった。湾岸産油国は豊かなオイルマネーで米国の最新兵器を大量に購入、さらに余剰マネーを米国政府債の購入に充てたのであるが、これは米国の貿易赤字と財政赤字の両方に対する助け舟になった訳である。
湾岸産油国側にとっても高金利で、しかも政治・経済が安定した米国に余剰マネーを預ける意味は大きかった。さらに王制(首長制)を維持するためには軍事・外交両面にわたる米国の支えが不可欠であった。何故なら当時のアラブにはソ連が後ろ盾となった民族主義運動が吹き荒れていたからである。ソ連共産主義は自由主義の米国及びイスラム国家である湾岸産油国の共通の敵である。アフガン戦争で反政府ゲリラに対して米国が武器を、湾岸諸国が資金を分担して遂にソ連軍撤退に追い込んだことなどは米国と湾岸産油国が連携した典型的な例である(但しその結果アフガニスタンがイスラム過激派アル・カイダのゆりかごとなり、後に9.11テロ事件となって跳ね返ってきたことは歴史の皮肉と言えよう)。
ソ連が崩壊した後の1990年代も米国と湾岸産油国の関係は極めて良好であった。シーア派のイランあるいはイラク・フセイン政権の脅威に晒され、各国の米国頼みの構図は変わらなかったからである。そして豊かな湾岸マネーは米国政府の財政赤字を補填するだけではなく、1991年のサウジアラビアのアルワリード王子によるシティバンク救済に見るように米国企業の「白馬の騎士」にもなった。
このように2001年の9.11テロ事件発生まで、湾岸産油国とそのSWFは米国の政府及び企業(銀行)と蜜月関係だったのである。
(その1終わり)
(次回予定)2.湾岸SWFと米国の歴史(2):緊張時代
Part I:「湾岸産油国の政府系ファンドを探る」(全6回)
その6:ドバイの政府系ファンド
その5:アブダビの政府系ファンド:ADIAとIPIC
その4:サウジアラビアの政府系ファンド:サウジ通貨庁と年金庁
その3:クウェイトの政府系ファンド(SWF):クウェイト投資庁
その2:カタルの政府系ファンド(SWF):カタル投資庁
その1:はじめに
以上
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