2013年04月19日
(連載)「挽歌・アラビア石油:ある中東・石油人の随想録」(7)
2013.4.19
7姉妹(セブン・シスターズ)とOPECのはざまで
世界の石油の生産と価格は1970年代初めまでセブン・シスターズと呼ばれる7社の国際石油会社がほぼ独占していた。7社とはエクソン(旧エッソ)、モービル、シェブロン、テキサコ、ガルフの米国5社及びシェル(ロイヤル・ダッチ・シェル)、BP(British Petroleum)の英国2社のことである。このうちエクソン、モービル、シェブロンの3社はロックフェラーが創設したスタンダード・オイルが後に独占禁止法で分割されて誕生した会社でありルーツを同じくしている。その他の4社も米国と英国の企業でありアングロサクソン系と言うことになる。それゆえにこれら7社は「7姉妹(セブン・シスターズ)」と呼ばれたのである。
セブン・シスターズは結束が固く、石油価格の決定権は彼らが握っていた。これに最初に反抗したのがイランのモサデグ首相であり、彼は1951年にアングロ・イラニアン石油(BPの前身)を国有化した。しかしセブン・シスターズはイラン原油を国際市場から締め出し、このためモサデグはあえなく失脚した。余談であるがこの時セブン・シスターズの監視の目をくぐり抜け、タンカー「日章丸」をペルシャ湾に送り込み、イラン原油を買い付けて世界をあっと驚かせたのが出光興産である。ともあれイランの石油産業国有化は時期尚早であった。
その後石油価格が下落しセブン・シスターズが産油国からの買い入れ価格を一方的に引き下げた。これを契機に産油国は団結の必要性を痛感、1960年にOPEC(石油輸出国機構)を結成したのである。1966年の国連総会で、資源は本来所在国に帰する、とする決議がなされたことも追い風となり産油国で国有化の動きが加速した。1960年代はセブン・シスターズとOPECの力関係が逆転する潮目であった。産油国がその威力を見せ付けたのが1973年の第四次中東戦争であり、この時OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は石油を武器として使う石油戦略を発動した。世に言う「オイル・ショック(第一次)」である。
1961年にサウジアラビアのカフジで本格的な石油生産を開始したアラビア石油は、まさにセブン・シスターズとサウジアラビアを盟主とするOPECが主導権争いを始めた時期に生まれたのである。そもそもアラビア石油がサウジアラビアとクウェイトの中立地帯沖合の利権を獲得できたのもそのような時代背景があったからと言える。当時既にサウジアラビアでは米国系セブン・シスターズ4社による現地操業会社アラムコ(Arabian American Company。略称ARAMCOは各単語の冒頭2文字ずつを結び合わせたもの)が石油の開発生産を行っており、クウェイトでは同じくセブン・シスターズのBPとガルフ石油が設立したクウェイト石油によって操業が行われていた。しかし両国の行政権が重なる中立地帯は石油利権の空白地帯だった。当時のサウジアラビアのサウド国王はこれを産油国が主導権を発揮するチャンスととらえ欧米以外の国に利権を与えることを検討、その結果アラビア石油が選ばれたという訳である。
中立地帯の利権が無名の日本企業に与えられたと知るやセブン・シスターズは露骨に嫌悪感を持ったと言われる。ソニーやトヨタなどの先端工業製品で欧米市場を席巻しつつあった日本に対する警戒心もあったであろう。また「石油開発のことなど日本人に解ってたまるか」という軽侮の気持ちがあったことも疑いない。このため現地で操業の立ち上げに携わった社員たちはアラムコの妨害行為を懸念した。しかし実際にアラムコに教えを請うと彼らは実に懇切丁寧に教えてくれたそうである。当時のアメリカ人は新参者に対しておおらかで度量が広かった。圧倒的な国力がもたらす余裕なのであろう。
一号井で巨大油田を掘り当てたアラビア石油はその後の開発生産操業も順調だった。筆者が現地に赴任したのはそのような1970年代の最後の年であった。
(続く)
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