2013年04月23日
(連載)「挽歌・アラビア石油:ある中東・石油人の随想録」(8)
2013.4.23
1979(昭和54)年、サウジアラビア現地に赴任
ここまで書いてきてアラビア石油の当時の状況を実際以上に楽観的に書いていることに自ら気がついた。会社生え抜きの先輩、創業時の苦労を知る人々からはお叱りを受けるかもしれない。楽観の根拠は多分転職に大いなる希望を抱いていた所為であり、或いはアラビア石油の居心地が悪くなかったということであろう。事実、中途入社の仲間で話し合うと異口同音に、以前の会社で社内外の厳しい競争に晒され給与もさほど良くなかったことに比べ、アラビア石油には競争と言えるほどのものは無く待遇も世間並み以上であると語り、転職組の意見は完全に一致していたのである。
入社後に配属されたのは現地事業所(会社では「アラビア鉱業所」と称していた)の予算を取りまとめる部署であった。仕事にも慣れた3年後の1979年、現地赴任の辞令が出た。採用面接の際、会社側からは現地赴任を前提としている旨を言い渡されており、来るべきものが来たということである。単身赴任するか家族を帯同するかは本人の選択にまかされ、赴任期間は単身3年以上、家族帯同5年以上とされた。
当時、日本企業の平均的な海外赴任期間は3~4年であり、5年はかなり長いが、筆者の場合は長女が6歳、次女が2歳の娘二人であり家族帯同の道を選んだ。海外赴任で大きな問題となるのは子女の教育、即ち日本語学校の有無である。英語圏なら将来のことを考え現地校に通わせ、週末は日本語補習校に行かせるという方法も考えられるが、サウジアラビアは公用語がアラビア語であり、カフジには外国人向けの小学校はない。そのためアラビア石油は東京都府中市にある明星(めいせい)学苑と契約し現地に幼稚園と小学校を開設していた。単独企業が企業内学校を持つケースは現代では例がなく、当時としても極めて珍しいケースであったが、家族とともに長期間赴任させるための会社の配慮だった。
仲間の送別会、親類縁者への挨拶等をすませ、1979年9月に前年開港したばかりの成田空港を出発、最寄りのクウェイト空港に到着したのは真夜中であった。機外に出るとまるでサウナに入ったような熱気に襲われた。人づてに聞いてはいたが湿潤で温暖な気候の日本から来た異邦人にとっては衝撃的な初体験であった。迎えの車に乗ってそのままカフジに向かう。カフジはサウジアラビアとクウェイトの中立地帯にある入り江の町であったが、その後1965年に両国政府により二分割されカフジはサウジアラビアの管轄下に置かれることになった。
カフジがサウジアラビア領になったことは会社と日本人社員にとって運命の分かれ道でもあった。カフジから最寄りの都会へはクウェイト中心街までが150KMでほぼ東京から静岡まで、サウジアラビア東部の都市ダンマンまでなら350KMもあり東京-京都間に相当する。いずれにしてもかなりの長距離であるが、クウェイトは比較的近く、しかもダンマンなどと比較にならない大都会である。そのため日本人は休日になるとクウェイトに出掛けることが多かった。しかし中間に国境ができたため入国審査、通関という面倒な手続きが必要になる。国際空港のように洗練されていないから国境の役人たちにはいつもイライラさせられた。それでも東京-京都間を日帰りドライブするよりはましである。
しかしサウジアラビア領で良かったことが一度だけあった。1990年のイラクのクウェイト侵攻と翌年の湾岸戦争の時である。もしカフジがクウェイト領であったなら、街はイラク軍に占領され自宅は彼らの略奪に晒されていたであろう。そして湾岸戦争では撤退するイラク軍がブルガン油田に火を放ったようにアラビア石油の施設も灰燼に帰していたかもしれない。アラビア石油の現場カフジがサウジアラビア領であったことは会社自身にとってある意味僥倖であったと言えなくはないのである。
1979年以前のカフジは政治的には無風状態であったが、その後はこの湾岸戦争を含めペルシャ湾周辺は戦乱が絶えなかった。赴任直後に始まったイラン・イラク戦争、その後の湾岸戦争、さらには2003年のイラク解放戦争と続き、その間にサウジアラビア国内ではイスラム過激派のテロが頻発している。勿論アラビア石油そのものも利権契約問題を抱えており、この問題で会社は苦悩し苦闘した訳である。
(続く)
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