2013年10月28日

(連載)「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」(22)

深窓育ちの技術者たち
 出向した子会社は石油開発のエンジニアリングを専業とする「日本オイルエンジニアリング」(Japan Oil Engineering、略称JOE)。国内にはエンジニアリング企業が多数あり、石油・石油化学の分野では日揮、千代田化工などの大手企業があるが、石油上流部門に特化しているのはJOEだけである。社員は百数十名で決して大手とは言えない。社長は歴代アラビア石油出身者であり、筆者はその会社の管理部長を命ぜられた。


 社員には地質、油層工学など石油開発分野の技術者が多く、しかも東大など一流大学の博士課程卒業生が少なくなかった。社内には事務屋を軽視し、技術屋ですら博士号が無ければ一人前とみなさない独特の雰囲気があった。また東大卒の技術者は入社数年を経ずして石油開発技術の本場である米国の大学に留学させる制度もあった。売上、社員数ともさほど大きくないエンジニアリング企業として異色の存在であった。


 戦後の高度成長期の日本は製造業や建設業などいわゆる「モノ造り」が中心であった。そのため大学の技術系学部も化学、機械、電気、土木建築などの学生が圧倒的に多く、一次産業を対象とした地質、油層工学などは学生の人気が薄い。裏返せば石油開発を学ぶ学生は母校に残ることのできるごく少数を除き、その他大勢組の就職先は限られている。JOEのような世間から見れば中小企業と言える会社に東大出の技術者が多数いたのはそのためである。


 筆者が出向した時は事務所の移転準備中であった。それまでの事務所は銀座のど真ん中にある旧リッカービルに事務所を構えていたが、親会社のダイエーが傾きビルが再開発の対象となったため立退きを求められていた。その結果、JOEはまとまった金額の補償金を得てJR大塚駅近くのビルに移転することが決まり、着任後の最初の大仕事が引っ越しプロジェクトとなった次第である。


 事務所移転は5月末に無事終わり管理部長としての本格的な仕事が始まった。それは合理化と言う難題であった。人材と技術が売り物であるエンジニアリング企業は技術者を優遇することが当然であるが、営利企業である以上採算を無視するわけにはいかない。当時のJOEは企業としては収支トントンであったが、内実は大株主の富士石油から製油所の定期修理などの大型工事を特命で請け負うことにより利益を確保していたのである。石油開発技術部門はその国際的な技術水準からみて海外からの受注は期待できず、また帝国石油等国内の石油開発企業も自社の技術部門で事足りているため、JOEが受注できる余地はない。結局海外の石油開発案件を金融面で後押しする石油公団(現石油天然ガス・金属鉱物資源機構、JOGMEC)や日本輸出入銀行が行う融資審査の技術査定が主たる業務となる。ただこれらの案件は1件数百万円止まりであり人手と時間を食う割には儲からない。


 ところが厳しい競争に晒されることのない石油開発の技術屋たちはプロジェクトの採算には無頓着である。良い仕事をすれば儲けはあとから自然についてくるものと考える世間を知らない深窓育ちの技術屋集団であった。加えて彼らは一流大学を出たエンジニアと言うプライドに取りつかれている。当時の社長は技術屋とは言え建築が専門なのでかれらは社長の言うことうを聞かず、まして筆者のような事務屋は歯牙にもかけないという有様であった。合理化は遅々として進まず、会社の経営は火の車であった。折角手にした移転補償金もあっという間に人件費に消えた。


(続く)


(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf 

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 前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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drecom_ocin_japan at 09:32コメント(0)トラックバック(0) 

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