2014年05月24日
サウジアラビア・サウド家(改訂版)(8)
2.第三次サウド王朝(続き)
(3)ファイサル時代に固まった諸制度(その1:王位継承方式、宗教対策)
ファイサル第三代国王の治世は1964年から1975年まで11年間続いた。本来なら彼の治世はもっと続くはずであったが1975年に甥のファイサル・ビン・ムサイド王子に暗殺されたため11年間にとどまっている。しかしファイサルの時代は皇太子兼首相時代(1958-1964年)を含め宗教・政治・外交・経済・社会などあらゆる面において現在のサウジアラビアと言う国家(それはとりもなおさず「サウド家」の「アラビア」なのであるが)の骨格が形作られた時代であった。
先にも書いたとおりサウド前王は義弟のファイサル皇太子を退け息子を重用しようとした。これはサウドが王位を息子に継がせようとしたからに他ならない。つまり父のアブドルアジズから自分、さらに息子へと王位を継承する、いわゆる直系長子相続制を確立しようとしたのである。アラビア半島に有力な対抗部族がいなくなり、国際的にも第二次大戦後の(つかの間ではあったが)平和が訪れ、一族の内紛を抑える切り札ともなる直系長子制度に切り替える絶好の機会だったはずである。しかしサウド前王は自らの独断専行と浪費癖で一族内の反発を買って退位させられた。
こうしてファイサル以降アブダッラー現国王に至るまで、サウド家の王位は兄弟間で受け継がれ、現在ではサルマン皇太子に次ぐ第二皇太子として最末弟のムクリン王子が指名されている。将来の王位継承問題については章を改めて触れるつもりであるが、今のところサウド家の王位は最後の兄弟まで連綿と受け継がれることが決まっているのである。兄弟間の王位継承は歴史的に見ても一族の内紛の原因となることが多く、例えばアブダビのナヒヤーン家では現首長の祖父の時代に兄弟間で次々と暗殺が繰り返されたほどである。そのため最近ではヨルダン王室、カタール首長家、ドバイ首長家などは元首が息子を皇太子に指名し後継者争いの芽を早々と摘んでいるのであるが、サウド家は兄弟間の継承方式から抜け出せないジレンマに陥っている。
宗教面で見るとサウジアラビアはイスラムの戒律を重視するサラフィー主義の一派とされるワッハーブ思想を国教としており、サウド家とワッハーブの末裔であるアル・シェイク家とは対等な関係であった。アル・シェイク家は宗教の最高指導者としてマッカ・モスクのグランド・ムフティの地位を代々受け継ぎ、サウド家に対して隠然たる影響力を発揮していた。シャイフ家がサウドに退位を迫るファトワ(命令書)を出したことによりファイサルの王位継承が決まったことは先に書いたとおりである。
ファトワによって国王に即位できたファイサルではあったが、彼はシャイフ家をこのまま放置すれば将来、過激なワッハーブのイスラム原理主義思想により国政が混乱することを危惧した。そのためファイサルは1969年にグランド・ムフティ制度を廃止し、ムハンマド・アル・シェイク(ファイサルの母親タルファ妃の従兄弟)を閣僚の一員である司法相に任命することにより政府組織の中に取り込んだのである 。後にグランド・ムフティは復活し(1993年)、サウド家に忠実なビン・バーズが任命され、1999年にふたたびアル・シェイク家のアブドルアジズに大政奉還されたが、彼はサウド家と一体となりイスラム原理主義思想を批判する立場をとっている。
なお後にファハド第5代国王は自らを「二大聖都の守護者」と名乗るようになった(1986年)。これは一見世俗王権のサウド家が宗教(イスラム)の下に立つかのごとき印象を与えるが、実際は全く逆であり、サウド家が国内の宗教勢力を完全にコントロールすると言う意思表示なのである。サウジアラビアがイランのシーア派を強く警戒し、また最近ではムスリム同胞団を批判し、エジプトの軍事政権を支援するなどの行動をとっているが、これはファイサル時代に始まったサウド家が宗教勢力と一線を画そうとする姿勢の表れである。
(続く)
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