2014年05月31日

サウジアラビア・サウド家(改訂版)(9)

2.第三次サウド王朝(続き)
(3)ファイサル時代に固まった現代の諸制度(その2:国王=首相と重要閣僚ポストの長期固定化)

 ファイサル国王の時代からサウジアラビアでは国王が首相を兼務することが慣例化した。後に第五代ファハド国王時代に統治基本法56条として明文化されたが、実際にはファイサル国王時代に始まったものなのである。既に述べたとおりファイサルは皇太子時代に首相に就任したが、1962年に兄のサウド国王から解任され、兄弟間の権力闘争の末に首相に返り咲き、王位に就いた後も首相を兼務、副首相にハリド皇太子を任命した。国王と皇太子の二頭政治になることを避けたのである。


 これ以降サウジアラビアではこの方式が厳格に踏襲されており、第四代ハリド国王及び第五代ファハド国王が治世末期に健康上の理由で満足に国務を遂行できなくなった時も、皇太子が国王代行として閣議を取り仕切り決して国王がお王位或いは首相のポストを皇太子に譲ったことはない。つまり兄弟間の序列は絶対であり、ファイサル以後これまでのところ国王の存命中は自ら譲位したり、或いは首相のポストを皇太子に譲ることはなかった。


 その一方、ファイサル国王はサウド家の統治を確実なものとするため国防、外務、内務等の主要閣僚ポスト及び州知事ポストに有力な王弟を起用した。アブダッラー現国王が国家警備隊司令官に任命されたのはファイサルの二度目の首相時代の1963年であった。そして1964年の国王即位時にはハリドが皇太子兼第一副首相に指名され、同時にスデイリ・セブンの長男として有名なファハド(後の第六代国王)が第二副首相兼内務大臣に就任した。さらにファハドの実弟のスルタンは1962年に国防大臣に、ナイフは1970年にスルタン直属の内務副大臣となり、ファイサル死去後に内務大臣に昇格している。そしてサルマン(現皇太子兼第一副首相)は1963年、リヤド州知事に任命されている。なおファイサルの息子サウドが外相に就任したのは父親が暗殺された1975年のことである。


 彼らが大臣または知事に就任したのは、アブダッラー40歳(注、国家警備隊司令官は大臣相当ポスト)、ファハド43歳、スルタン32歳、ナイフ42歳、サルマン27歳、サウド35歳と非常に若いのが特徴である。そして彼らはその後数十年と言う極めて長い期間そのポストに座り続けた。即ちスルタン及びナイフは死ぬまで国防相、内務相の地位を手離さず、アブダッラーは最近になって国家警備隊司令官ポストを息子に譲ったばかりである。そしてサルマンはリヤド州知事から実兄スルタンの後を継いで国防相となり、ファイサルの息子サウドは40年近く経った今も外相の地位にとどまっている。加えて最近の特徴としては、内相ポストはナイフの息子に、国家警備隊司令官ポストがアブダッラーの息子引き継がれた、また国防省の副大臣にスルタンの息子が任命されている。


 高齢化した第二世代に代わり第三世代が政府の要職を占めつつあるが、内務省、国防省或いは国家警備隊の例に見られるとおり、そこには明らかに大臣ポストの世襲が既成事実化しており、アブドルアジズ初代国王の36人の息子たちの間に格差が生まれつつある。この萌芽はファイサル国王時代に生まれたものであると言えよう。


 第二世代の中でエリート階層が形成された反面、ファイサルに反旗を翻し或いはファイサル暗殺にかかわった同世代の王族の系譜は国家の要職から外されているのが現実である。ファイサルと権力闘争を繰り広げたサウドの息子達がさほど重要ではない州の知事にとどまっていたり、或いはナセル主義にかぶれエジプトからサウド家に揺さぶりをかけたタラール王子が一切の公職からはずされたり(そのため息子のアルワリードは実業界に転進している)、またファイサルを暗殺した息子を持つムサイド王子は無冠のまま2013年に亡くなるなど、いずれも政府の重要ポストとは無縁なのである。


 サウド家第二世代とその息子達の盛衰はファイサル国王時代に始まったと言えよう。


(続く)


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drecom_ocin_japan at 20:02コメント(0)トラックバック(0) 

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