2016年02月24日
見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(8)
第1章:民族主義と社会主義のうねり
2.戦後ゼロ年:アラブ連盟の結成
第二次世界大戦は1939年のドイツのポーランド侵攻から1945年のドイツ・日本降伏まで6年に及んだ。主戦場はヨーロッパ全域、東南アジア、東北アジア及び太平洋であったがユーラシア大陸の中で中東は戦禍を免れている。当時の中東各国は連合軍あるいは枢軸国のどちらにも属さず、イラクとイランが1943年に連合軍として参戦した他は、トルコ、エジプト、サウジアラビアなどいずれも連合軍の勝利が確実になった1945年に入ってから参戦している。第二次大戦で中東が戦場にならなかったのは、ドイツが西ヨーロッパで英米仏、東ヨーロッパでソビエトと言う両面に敵を抱え中東まで手が回らなかったからである。
そのような中東で戦争終結直前の1945年3月、アラブ世界で初めての国際機関「アラブ連盟」が結成された。エジプト、シリア、イラク、ヨルダン、レバノン、イエメン(当時は北イエメン)及びサウジアラビアの7カ国がアレキサンドリア議定書を締結してアラブ連盟は設立された。ただアラブ連盟はアラブ諸国の自発的な意思で生まれたものではなく、これらの国々に強い影響力を有していた英国の入れ知恵だった。第二次大戦でアラブ諸国が枢軸国側に加担することを避けるため、アンソニー・イーデン外相(当時)が言い出したことがアラブ連盟結成のきっかけである。連盟本部はエジプトのカイロに置かれ、事務局長は代々エジプト人が任命された(エジプトがイスラエルと単独和平に走り、連盟から追放された一時期を除く)。連盟は紆余曲折を経て現在21カ国1機構(パレスチナ)という一大組織に成長している。
ともあれ戦後ゼロ年の中東諸国の状況は次のようなものであった。まず中東の三大国と言われるトルコ、イラン及びエジプトのうち、トルコはすでに述べたとおりオスマントルコが崩壊したのち小アジアとイスタンブールから成る共和国に変身、7世紀から連綿と続いたカリフ制を廃止し世俗主義国家として近代西欧諸国を模範に国家建設に励んでいた。イランはコザック兵出身のレザー・ハーンが1921年のクーデタで実権を掌握したのち自らパハラヴィー朝皇帝を名乗り、国名をペルシャからイランに変更し、親西欧的な独裁君主制国家として戦後を迎えている。中東三つ目の大国エジプトはオスマントルコから半ば独立したムハンマド・アリー朝が第二次大戦を生き抜いたが、イギリスが強い影響力を維持していた。その他の中小国はイラク、ヨルダン、パレスチナが英国の委任統治を受け、シリア、レバノンはフランスの委任統治下に置かれていた。
英仏の支配を免れた唯一とも言える例外はサウジアラビアである。同国は1932年に「サウジアラビア王国」を樹立、アラビア半島の大半を支配下に置いて独立を保った。同国が独立を維持できたのは英仏がアラビア半島そのものの戦略的価値を重視しなかったからにすぎない。
実はサウジアラビアの価値に気付いていたのは米国であった。第二次世界大戦開戦早々の1941年に米国の石油会社がサウジアラビア東部に巨大油田を発見していたからである。ただ米国はサウジアラビアを植民地化するような愚を犯さなかった。将来の石油の価値を正しく認識していた米国はサウジアラビア原油の安定確保に動いた。第二次大戦終結間際、ルーズベルト大統領がヤルタ会談直後、帰国を延ばしてまでスエズ運河の船上でサウジアラビア国王アブドルアジズと会談した真意はそのことにあったのである。(プロローグ1「スエズ運河グレート・ビター湖の会談」参照)
(続く)
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荒葉一也
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