2016年03月02日
見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(9)
第1章:民族主義と社会主義のうねり
3.イスラエル独立(その1):ユダヤ人の祖国建設運動
本章のタイトル「民族主義と社会主義のうねり」は、戦後の中東アラブ諸国独立のエネルギーの源を意味しているが、ユダヤ人たちはそれより少し早く祖国建設を始めている。戦後一貫してアラブ諸国の歴史に最も大きな影を落としているユダヤ人の国イスラエルはそれまでの中東二千年の歴史とは全く異質な国家の出現であった。
ユダヤ人(と言われる人々が)2千年前にパレスチナを追われ「ディアスポラ(離散)の民」としてヨーロッパ移り住み、各地で迫害を受け辛酸をなめた末、1946年に漸く先祖の地パレスチナにイスラエルを建国した壮大な歴史ドラマはすでに数多の書物で語られてきた。詳細はそちらでお読みいただくとして、ここでは20世紀以降のイスラエル建国史はについて簡単に触れてみたい。
19世紀後半にヨーロッパで「アンティ・セミティズム(反セム民族)」運動がヨーロッパに吹き荒れた。セム民族とはアラビア語、ヘブライ語など中東を起源とするセム系の言語を使用する民族の総称であるが、当時のヨーロッパでは「反セミティズム」は「反ユダヤ主義」そのものであった。ディアスポラの民は各地で「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人居住地区に閉じ込められ、差別を受けてひっそりと暮らしていたのであるが、反ユダヤ主義の高まりの中でユダヤ人を狙い撃ちした事件が続発した。
政治的な事件として有名なのはフランスの「ドレフュス事件」である。1894年、フランス陸軍のユダヤ人大尉ドレフュスがドイツに対するスパイ容疑で逮捕された。事件は後に冤罪であることが立証され、大尉は1906年に無罪判決を獲得した。12年にわたる裁判闘争は文豪エミール・ゾラの政府弾劾書簡の発表などフランスを揺るがす大事件となったのである。また社会的な出来事としては19世紀末の帝政ロシアに広がった一連のユダヤ人大量虐殺事件「ポグロム」をあげることができる。「ポグロム」は第二次大戦中のドイツの「ホロコースト」と並ぶ悲惨な出来事であり、当時のヨーロッパの庶民が如何にユダヤ人を毛嫌いしていたがわかる。
このような社会環境に置かれたユダヤ人たちがヨーロッパ以外の土地に安住の地を求めるようになったのは無理のないことである。そして多くのユダヤ人が「新世界」アメリカに移住したが、中には自らの祖国「ホームランド」建設を夢見る者たちもいた。ヨーロッパ諸国の白人為政者たちもヨーロッパ以外の土地にユダヤ人のホームランドを与えることが足元の社会不安をなくす妙案であると考え、この構想をを後押しした。いわば体の良いユダヤ人追っ払い政策である。
しかし20世紀の地球上に新しい国家を建設できる耕作可能な無人の土地などあるはずがない。そこでイギリス政府は中央アフリカの植民地はどうかと提案した。黒人の原住民がいるがそれは英国の力でどうにでもなるからである。しかし祖国建設運動の指導者ヘルツェルたちはあくまで祖先が2千年前に追放されたパレスチナでの祖国復活を主張した。彼らは「シオンの丘へ帰れ(シオニズム)」と「土地なき民を民なき土地へ」を合言葉とし、祖国建設運動は激しさを増していった。
困ったのは英国政府である。パレスチナはオスマン・トルコの支配下にあり、しかもこれまで2千年にわたりアラブ人が住み慣れた土地であり、決して「民なき土地」などではない。無理に入植させれば先住民のアラブ人と紛争が起きるのは目に見えていた。
その時ユダヤ人に格好の追い風が吹いた。第一次世界大戦の勃発である。戦費調達に苦しむ英国はユダヤ人富豪ロスチャイルドに頼った。その見返りとしてロスチャイルドが要求したのがパレスチナにおけるホームランド建設を英国に約束させることであった。それがバルフォア宣言である(プロローグ第6節「英国の三枚舌外交―バルフォア宣言」参照)。
こうして英国はユダヤ人の資金的バックアップを得て首尾よく戦争に勝った。そしてフランスと交わしたサイクス・ピコ協定(プロローグ第5節「英国の三枚舌外交―サイクス・ピコ協定」参照)によりパレスチナを委任統治領とした。これでパレスチナでのユダヤ人のホームランド建設(イスラエル建国)の障害はなくなったのである。
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
荒葉一也
E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp
携帯; 090-9157-3642