2016年07月06日

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(27)

第3章:アラーの恵みー石油ブームの到来
5.第四次中東戦争と第一次オイルショック(1) 智将サダトの登場
27サダト
 1967年の第三次中東戦争(6日間戦争)でイスラエルに敗れたナセルが失意のうちに現職大統領のまま心臓発作で亡くなったのは1970年のことで、後を継いだのは副大統領のアンワール・サダトであった。サダトはエジプトの王制を打倒した自由将校団の一員でありでナセルの盟友であった。しかしナセルがカリスマ的指導者としてエジプト国民のみならずアラブ諸国から英雄と称えられたのに比べ、サダトはその陰に隠れて目立たない存在であった。したがってナセルを継いで副大統領から昇格した彼に対する人々の目は厳しく、いずれ他の誰かが大統領に選ばれるまでのショート・リリーフとしか見られていなかった。しかし彼が深慮遠謀の優れた軍事戦略家であり、同時に現実的な政治家でもあることが明らかになる時代が来る。

 第三次中東戦争のあと共通の目標を見失ったアラブ諸国は内部紛争に明け暮れる。戦争直後、ソ連の後ろ盾により南イエメンに共産主義政権が成立(1967年11月)と翌年イラクで無血クーデタが、さらに次の年にはリビアの王制が倒れカダフィ大佐が政権を握った。そしてナセルが死亡した1970年にはヨルダンでPLOとヨルダン政府が激しく対立(「黒い9月」事件)、PLOはレバノンのベイルートに落ち延びていった。さらにシリアでもクーデタが発生、翌年1月にはアサドが大統領に就任する。

 このような中でエジプトのサダト大統領はイスラエルに対する報復の機会を虎視眈々と狙いつつ体制固めを図り、まずソ連軍事顧問団の追い出しにかかった。ナセルの時代にエジプトに深く食い込んだソ連はアラブ諸国への社会主義革命の輸出を画策し、それは南イエメン独立という形で実現した。しかしソ連型社会主義イデオロギーはアラブ諸国に定着しなかった。アラブ世界では生まれて物心が付く前に、すでに部族或いは民族という生まれながらの「血」の絆と幼心に刷り込まれたイスラームという「心(信)」の絆にからめとられている。成長してから学習によって習得する「智(主義思想、イデオロギー)」が入り込む余地はほとんどない。社会主義イデオロギーを「輸入」するなどとはアラブ人たちには及びもつかないことだったようである。

 サダトがソ連の影を薄めようとしたのはもう一つの理由があった。米国製兵器でエジプト軍の装備を近代化することであった。ソ連製の兵器ではイスラエルに到底太刀打ちできない。サダトはソ連の軍事顧問団を追い出すことで米国への接近を図った。戦争に勝つことが最大の使命である軍人は非軍人以上に合理的な思考をするものである。

 サダトは合理的かつ緻密な手法でイスラエルに「一泡吹かせる」戦略を考えた。その戦略とは敵の裏をかいて短期間で戦果を挙げることであった。周囲を敵に囲まれたイスラエルは常に油断を怠らない。さらに実際に戦端を開きそれが長期化するとアラブ側に全く勝ち目が無いことはこれまでの中東戦争で明らかであった。

 そこでサダトはまずイスラエルを油断させる陽動作戦をしかけた。エジプトが攻撃の素振りを見せるとイスラエルは直ちに全国民に動員令を敷いた。これは全くの見せかけでイスラエルは無駄足を踏まされた。この作戦は二度実施され、さすがにイスラエル国内には厭戦気分が生まれた。さらにこれまでの中東戦争で連戦連勝であったイスラエル国民には慢心と油断があった。

 1973年、サダトは隠密裏にシリアにも働きかけ10月6日を期して奇襲攻撃を行うことにした。10月6日には宗教上の大きな意味が二つあった。一つはこの日がユダヤ歴で最も神聖な「ヨム・キプール(贖罪の日)」であったこと、そしてもう一つはイスラーム教徒にとっても神聖な「ラマダン(断食)月」だったのである。世界に名をとどろかせるイスラエル諜報機関すら全く予想だにしないことであった。

 10月6日、エジプトとシリアの二正面作戦により戦いが始まった。この戦争は通常第四次中東戦争と呼ばれているが、アラブ側は「ラマダン戦争」、イスラエル側では「ヨム・キプール戦争」と呼ぶ。イスラム教とユダヤ教の宗教戦争であることを示している。これまでの中東戦争は1948年の第一次中東戦争が「イスラエル独立戦争」、1956年の第二次中東戦争が「スエズ(運河)戦争」、そして1967年の第三次中東戦争は「6日戦争」と呼ばれた。宗教色を明確に持ち出したのは第4次中東戦争が初めてである。アラブ側もイスラエル側もそれぞれの国民に宗教すなわち「心(信仰)」の絆を思い起こさせることが重要だったに違いない。特に奇襲攻撃を受けたイスラエル側は「ヨム・キプール」の日に奇襲を受けたことは国民を鼓舞するに十分だったと思われる。太平洋戦争のハワイ真珠湾攻撃を米国は宣戦布告のない奇襲とし「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に米国民の戦意を駆り立てたのと似た構図である。

 奇襲攻撃緒戦のエジプト・シリア合同軍は破竹の勢いであった。しかしサダトはアラブ側の優勢が長続きしないことを覚悟していた。そのため彼はもう一つの作戦を立てた。アラブ産油国を巻き込み石油を武器に欧米やアジアの石油消費国をアラブの味方につけること、それが無理としても少なくともイスラエルと欧米の間に楔を打ち込むことであった。

 (続く)

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荒葉一也
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drecom_ocin_japan at 09:03コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年  

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