2016年07月27日
見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(30)
第4章:中東の戦争と平和
2.平穏な市民生活に忍び寄る長期独裁政権の影
第四次中東戦争が終わりほっとしたのはエジプトとイスラエルの両国民だけではない。長年住み慣れた父祖の地を追われてヨルダンに逃れ、さらに東のクウェイト或いはサウジアラビアへと移って行ったパレスチナ人たちも気持ちは同じであった。
第四次中東戦争が終わりほっとしたのはエジプトとイスラエルの両国民だけではない。長年住み慣れた父祖の地を追われてヨルダンに逃れ、さらに東のクウェイト或いはサウジアラビアへと移って行ったパレスチナ人たちも気持ちは同じであった。
クウェイトとサウジアラビアの中間地帯で石油開発に乗り出した日本企業に就職したシャティーラは遠縁のパレスチナ女性と結婚、忙しいが平和な日々を送っていた。彼は週末になると妻を伴い中古のアメリカ車を運転してクウェイトに住む両親のもとを訪ねるのであった。国境を越えてしばらくは未舗装の凸凹道であったが、ブルガン油田地帯に入るあたりからは片側二車線の快適な舗装道路がクウェイト市内まで真っ直ぐに続いていた。父親の家に着くとシャティーラは必ず隣家のアル・ヤーシン家を訪ねる。二つの家族はパレスチナのトゥルカムからヨルダン、さらにクウェイトへと常に行動を共にしてきた同志である。クウェイトでアル・ヤーシン家は娘を授かりラニアと命名した。シャティーラは可愛くて利発な女の子ラニアと大の仲良しであった。
クウェイトの中心街には欧米の一流ホテルが軒を連ね、エアコンの効いたショッピング・センターでは世界の有名ブランドの店が買い物客を惹きつけた。中東戦争が終わり石油ブームが到来したためである。クウェイト人も外国人も平和と豊かさを満喫し、このような生活がいつまでも続くことを願った。周辺のアラブ諸国も産油国の援助、或いは出稼ぎ者からの送金により恩恵を蒙ったのであった。
しかしそのような平穏な生活が続くと、奇妙なことに民衆の心の中に不満が少しづつ鬱積する。物足らなくなるだけではない。生活の底に流れる経済格差に気が付き、変革を求めるのである。そのような微妙な空気を抜け目なく捉えて登場するのが独裁者である。独裁者は最初から圧政者だった訳ではなく、むしろ最初は国民的な人気者として登場する。このような現象は中東に限ったことではなく、東欧、アジア、南米、アフリカなど多くの開発途上国で見られることであるが、中東特有の現象は独裁政権が第4次中東戦争後に集中的に出現し、その後ごく最近まで30年或いは40年間という極めて長い間権力を保持し、その一部は今も権力を掌握し続けていることである。
中東の独裁者たちの在任期間を歴史順に並べると、リビアのカダフィ大佐(1969年~2011年)をはじめとして、シリアのアサド大統領父子(1971年~現在)、イエメン・サーレハ大統領(1978年~2012年)、イラク・フセイン大統領(1979年~2003年)、エジプト・ムバラク大統領(1981年~2011年)、チュニジアのベン・アリ大統領(1987年~2011年)、そしてスーダンのバシル大統領(1989年~現在)となる。短い独裁者で24年、長い場合はアサド父子で45年経た今も独裁者の椅子に座り続けている。
彼らが最初に権力の座に就いたのは1980年前後が多い。また権力の座を滑り落ちた年が2011年、12年に集中していることに気付かれるであろう。これはいうまでもなく2010年末に始まった「アラブの春」の影響である。
それぞれが独裁者になる過程は各国の政治的・社会的状況や権力奪取の方法等によりそれぞれに異なる。しかし中東の独裁者たちにはいくつかの共通点もある。リビアのカダフィ、シリアのハフィーズ・アサド(父親)、エジプトのムバラク、イエメンのサーレハ、スーダンのバシルはいずれも軍人である。中東では軍隊経験こそが独裁者への最短コースのようである。
その中でリビアのカダフィを例に取ると、彼は1969年にクーデタでイドリス王朝を倒して権力を掌握、国名を大リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリーヤ国とした。ジャマヒリーヤとは直接民主主義の意味であり、彼は人々が彼のことを大統領と呼ぶことを許さなかった。そこで人々は彼を最高指導者と呼び、彼自らは敬愛するエジプトのナセル大統領の軍隊時代の肩書が大佐であったため、自らを「大佐」と称した。彼は飴と鞭を使い分けて国内の部族勢力を従わせ、一方絶妙の世渡り術を駆使して激動する国際社会を生き抜いたのである。しかし最終的には隣国チュニジアの「アラブの春」の余波を受け内戦の中で殺害され42年にわたる独裁の幕を閉じたのであった。
(続く)
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荒葉一也
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