2016年12月21日

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(51)

第6章:現代イスラームテロの系譜

 

8.短かった春の宴

「アラブの春」を欧米先進国(特にメディア、インテリ層)は中東・北アフリカ諸国における独裁者の圧政に対する住民の抵抗運動、政治の民主化運動と定義づけた。「春」という言葉が持つ肯定的で開放的なニュアンスを政治の場面で使ったのは、冷戦下のチェコの民主化運動「プラハの春」が多分初めてであろう。それはソビエト共産主義の圧政に対する抵抗運動を象徴する言葉となり、西欧のメディアはこの言葉に自己陶酔した。1968年の「プラハの春」はソ連の介入によりあえなく踏みにじられたが、21年後には同じチェコで「ビロード革命」が発生、翌年には東西ドイツ統一が実現して、西欧諸国は自分たちの信奉する民主主義が絶対的に正しい思想(イデオロギー)であり、「プラハの春」はその先駆けであったと確信したのである。

 

プラハの春のひそみに倣い西欧諸国は「アラブの春」も必ず成功すると信じて疑わなかった。しかし「アラブの春」がそれ以前よりさらに劣悪な混乱と停滞を各国にもたらしたことは否定しようがない。大きな変革の直後には更なる変革を求める勢力と古き良き時代の復活を求める両極端の勢力が激突し、混乱が発生するのは歴史の習いである。チェコの民主化運動が成就するのに20年以上かかったことを考えれば、「アラブの春」の歴史的評価を下すのは早すぎるかもしれない。今から20年後のアラブ諸国はひょっとして西欧型の民主主義国家に変貌しているかもしれない。それはまさに「インシャッラー(神のみぞ知る)」である。

 

しかし「アラブの春」を現状なりに評価することも意味のないことではなかろう。筆者の持論である中東の三つのアイデンティティ、即ち「血(民族)」、「心(信仰)」及び「智(イデオロギー)」をベースに「アラブの春」を経験した国、経験しなかった国を含め、アラブ圏各国について眺めてみるといろいろなことが見えて来る。

 

エジプトの場合、チュニジアで「ジャスミン革命」が成就したとほぼ同時の2011年1月、カイロのタハリール(革命)広場で学生を中心とするデモが発生した。SNSでデモ参加を呼びかける若者たちの声に応じてデモは規模を拡大しタハリール広場を埋め尽くすようになった。彼らは旗を振りムバラク大統領の退陣を求めるシュプレヒコール「ファキーア(もう沢山だ)!」と叫んだ。ムバラク大統領の出身母体である軍の治安部隊は最初のうち動かず、現場の警察官もデモ隊にむしろ友好的な雰囲気ですらあった。実のところ彼らも大統領に「ファキーア」だったのである。

 

世論に抗しきれなくなったムバラクは2月に大統領を辞任し、その後不正な財産蓄積の容疑で逮捕され刑務所に収監された。その間もデモは続き国家機能がマヒしたため、平穏な生活に戻ることを求める一般市民の声も無視できず治安部隊はデモ隊の解散を求めた。この頃の若者のデモ参加者たちはムバラク退陣を勝ち取った成果でユーフォリア(熱狂的陶酔)状態にあったが、次に何を成すべきかについては明確なビジョンが無かったり或いは意見が分かれていた。

 

このような一般市民と学生の意識のずれの隙に割って入り存在感を示したのがムスリム同胞団であった。同胞団はムスリム(イスラーム教徒)の互助組織として市民生活にすでに深く根を張っていたが、自由な総選挙の実施が決定されたことを受けて政治組織「自由公正党」を立ち上げ政権奪取を目指した。これに対抗して学生や知識人たちはリベラル政党の樹立を目指した。

 

しかしリベラル運動の理論家はムバラク政権時代は西欧に亡命し、そこでの自由で安全な生活に慣れ切っていた。彼らは頭でっかちのインテリであり、エジプト国内で圧政に苦しむ一般市民とは意識のずれが大きく団結した組織をつくれなかった。SNSの威力を過信した学生たちもまた大規模なデモ動員こそ可能だったものの結局国民全体を動かす力にはなりえなかった。学生たちは組織力と実行力のあるムスリム同胞団が主導権を握るのを見て、「革命を乗っ取られた」と嘆いた。チュニジア青年の焼身自殺をSNSで広め「アラブの春」の運動をリードしてきた若者たちであったが、欧米では当たり前の民主主義という「智」のイデオロギーがイスラーム社会には根付いていなかったのが原因であろう。中東アラブは今も部族(血)とイスラーム()が支配する世界である。

 
51EgyptMorsi

エジプト史上初めてと言われた公正な選挙で圧倒的支持を得たムスリム同胞団の自由公正党であったが、ムルシ大統領の時代はわずか1年余りしか続かなかった。政治経験の殆どないムルシは経済運営で失政を重ね、さらに同胞団の身内を重用する縁故政治で国民の心はムスリム同胞団からすっかり離反した。再び若者のデモが続発し騒然となった。大衆はわずか一年前に自らが選んだ大統領を引きずり下ろし、あろうことか軍政への回帰を選択したのである。軍最高司令官のシーシはクーデタを敢行、ムルシを解任した。ここにエジプトは強権的な軍政に復帰、エジプトの「アラブの春」は2年で終わった。国民はシーシを熱烈に歓迎し、欧米民主主義国家を含めた国際社会もアラブの盟主エジプトの政治と経済が安定することを歓迎したのである。

 

エジプト以外の中東各国の「アラブの春」はさらに短かく、むしろその後混乱と無秩序のカオスに陥った例の方が多いくらいである。リビアではカダフィが倒れた後、大量の武器が闇市場に流れ、国内の部族同士の内戦に発展した。またイエメンではサウジアラビアの仲介でサーレハ大統領が退場し、ハーディー暫定大統領のもとに新政府が発足したものの、部族社会のイエメンではフーシ派勢力が勢いを増し、サーレハ元大統領も加わって首都サナアを占拠した。ハーディー政権はアデンに逃れ、サウジアラビアなどのアラブ連合軍の空爆作戦で何とか命脈を保っている状態となり、国際社会の平和の基準からはリビアと共に失敗国家の烙印を押されている。

 

「アラブの春」が失敗国家に終わった例はシリアがその最たるものであろう。同国ではアサド政権、IS(イスラム国)勢力、スンニ派反政府勢力等が四分五裂し、そこに国際社会の勢力争いも絡みまさにくんずほぐれつの覇権争いを繰り広げている有様である。

 

「アラブの春」とは一体何だったのかという議論が絶えない。否、むしろ「春」などと言う甘味な言葉が誤解を招いたといって良いのかもしれない。欧米諸国は「春」という言葉に自分たちが信じるイデオロギー「民主主義」を重ねた。彼らは民主主義こそ現代社会の唯一絶対に正しいものだと主張する。仮にそうだとすると彼ら欧米諸国は絶対的(と自分たちが信じる)価値を押し付け、世界各国が有する多様な価値を否定していることにならないだろうか。

 

ともかく今言えることは「アラブの春」は短い宴の春だった、ということである。

 

(続く)

 

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       荒葉一也

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drecom_ocin_japan at 09:08コメント(0)トラックバック(0)中東の戦後70年  

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