Bahrain
2011年03月01日
ペルシャ(アラビア)湾の島国バーレーンが揺れている。チュニジア政変に始まった中東・北アフリカの政情不安はエジプト、リビアへと波及し、バーレーンでも激しい反政府デモが繰り広げられている。バーレーンは産油国とは名ばかりでGCC6カ国の中ではカタールやオマーンに比べても石油生産量は極端に少ない。石油のGDPに占める比率は20数%に過ぎず、他のGCC諸国がいずれも50%或いはそれ以上を占めているのに比べて小さい。
このようなバーレーンで反政府系のシーア派住民による大規模なデモが発生、スンニ派の政府(ハリーファ王家)は窮地に陥っている。バーレーンの国民の7割はシーア派であり、支配層のスンニ派は3割に過ぎない。即ちバーレーンは少数派(スンニ派王家)が多数派(シーア派一般国民)を支配している構図である。シーア派住民は対岸のイラン(旧ペルシャ)から渡来した先住民であったが、18世紀末にアラビア半島内陸部から来たベドウィンのハリーファ家によって征服された。(詳細はマイ・ライブラリー「バーレーン・ハリーファ家」http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0121RulingHouseBahrain.pdf 参照
このためシーア派住民はスンニ派のハリーファ家と度々衝突を繰り返している。特に1994~96年にかけては大規模な反政府暴動が発生、ハリーファ家はサウジアラビアの支援により漸く鎮圧したほどである。実はサウジアラビアにも多数のシーア派住民が住んでおり、同国の総人口の15%を占めると言われている。このためサウジアラビア自身もシーア派対策に苦慮しておりバーレーンの騒擾を対岸の火事と見過ごすことができないのである。
バーレーンは立憲君主制を標榜しており、二院制の諮問評議会(欧米の議会に相当)があるが、首相と上院議員の任免権は国王にある。また30名近い内閣のメンバーは半数がハリーファ家の王族であり、シーア派閣僚は2~3名に過ぎず、同国の実態は国王とその一族による専制政治と言って間違いない(閣僚リスト:http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/4-3BahrainCabinet.pdf 参照)。シーア派住民は多数派であるにもかかわらず職業その他のあらゆる面で差別待遇を受けておりハリーファ王家に対する彼らの反感は大きい。
今回のデモでは彼らの要求は当初、民主化を通じて平等を求めると言う比較的穏健なものであった。これに対して政府は機動隊によりデモを強制的に排除する強硬手段を取る一方、全国民に20万円強を支給すると言ったムチとアメ政策で事態の収拾を図ろうとした。しかし長年にわたる冷遇にしびれを切らしたシーア派住民の反政府行動はエスカレートし、最近では「王制打倒」を叫ぶデモ参加者も少なくない。政府は更なる懐柔策として拘束中のシーア派リーダーを釈放した。ロンドンに亡命していたシーア派指導者も帰国し、少数派のスンニ政府(王家)と多数派のシーア派住民が決定的に対立する状況下にある。
シーア派の中には王制打倒と言う過激な体制変革を望まない者も少なくない。彼らは王制を打倒し多数派国民によるイスラム主義的な政府を樹立すれば、バーレーンそのものが生き延びることが難しいと肌で感じている。同国の石油資源は枯渇しつつあり、国家の将来を担うのは金融業と観光業であると言われる。金融業については西欧型の通常(コンベンショナル)金融の地位をドバイに奪われたものの、イスラム金融についてはマレーシアと並ぶ世界の中心としての評価が定着している。また観光業についても一流ホテルとF-1レース場などを抱え近隣諸国から観光客を集めている。ホテルではイスラムの掟に反してまでアルコール類を提供するなど観光立国が産業振興の柱となっている。
金融も観光も国家が安定していればこそ成り立つ産業である。もしバーレーンの政情が不安定になれば最初に逃げ出すのは近隣諸国から流入したオイルマネーである。リスクのある国からカネが逃げ出すのは、ギリシャやポルトガルなど欧州の金融危機を見れば明らかであろう。また政情不安な国には観光客の足も遠のく。エジプトやチュニジアは今後観光客の激減に直面し経済は深刻な打撃を受けるであろう。バーレーンが同じ道をたどるリスクは大きい。
国内不安による金融業と観光業の衰退。このことを歴史的に証明しているのがベイルートである。かつて「中東のパリ」と呼ばれ、ヨーロッパや中東産油国のカネと観光客を集めて繁栄を謳歌したベイルートはレバノン内戦により全てを失った。その後釜として発展したのがバーレーンであるが、同国は今やベイルートの二の舞となる瀬戸際にある。シーア派住民の中に過激な体制変革を求めない人々が少なからずいるのは、体制変革によって「虻蜂取らず」の貧しい国に転落することを恐れているからである。
以上
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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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2006年12月13日
1 首相 シェイク・ハリーファ・ビン・サルマン・アル・ハリーファ 留任、王族(国王叔父)、1935生
2 副首相 シェイク・モハンマド・ビン・ムバーラク・アル・ハリーファ 留任、王族、1936生
3 副首相 シェイク・アリ・ビン・ハリーファ・ビン・サルマン・アル・ハリーファ 留任、王族
4 副首相 ジャワド・アル・アレイド 新任、元司法相
5 官房長官 シェイク・ハーリド・ビン・アブダッラー・アル・ハリーファ 新任、王族
6 国防相 シェイク・ハリーファ・ビン・アハマド・アル・ハリーファ 留任、王族
7 国防担当国務相 シェイク・モハンマド・ビン・アブダッラー・アル・ハリーファ 新任、王族
8 電気・水相 シェイク・アブダッラ・ビン・サルマン・アル・ハリーファ 留任、王族
9 内相 シェイク・ラーシド・ビン・アブダッラ・アル・ハリーファ 留任、王族
10 外相 シェイク・ハーリド・ビン・アハマド・ビン・モハンマド・アル・ハリーファ 留任、王族
11 財政・国家経済相 シェイク・アハマド・ビン・モハンマド・アル・ハリーファ 留任、王族、前中央銀行総裁
12 内閣担当国務相 シェイク・アハマド・ビン・アテヤターラ・アル・ハリーファ 新任、王族
13 司法・イスラム問題相 シェイク・ハーリド・ビン・アリ・アル・ハリーファ 新任、王族
14 議会担当国務相 アブドゥル・アジーズ・ビン・モハンマド・アル・ファデル 留任
15 商工業相 ハッサン・ビン・アブダッラ・ファハロ 留任
16 公共事業・住宅相 ファフミ・ビン・アリ・アル・ジャウデル 留任
17 情報相 モハンマド・ビン・アブドゥル・ガッファール 留任(外務担当国務相兼務は解職)
18 教育相 マージド・ビン・アリ・アル・ヌアイミ 留任
19 労働相 マジード・ビン・ムフシン・アル・アラウィ 留任、シーア派
20 石油・ガス相 アブドルフセイン・ミルザ 前国務相兼石油・ガス庁長官より転任
21 保健相 ナダー・アッバス・ハファーダ 留任、女性、シーア派
22 社会問題相 ファーティマ・モハンマド・アル・ベルーシ 留任、女性、(前バハレーン大学教授)
23 地方自治・農業相 マンスール・ビン・ラジャブ 新任
24 外務担当国務相 ニザール・アル・バハルナ 新任
2006年12月04日
国民の7割を占めるシーア派は、統一会派「Islamic National Accord Association(INAA, 全国イスラム調和協会)」を結成して17名を公認、そのうち16名が当選したが、無所属1名が当選後INAAに鞍替えしたため、結局同協会は17名の議員を擁する最大会派となった。シーア派は前回2002年の選挙をボイコットしたが、今回の選挙では国民のシーア派住民の支持を後ろ盾に、一挙に議会の最大会派に躍り出たのである。
一方、国内少数派のスンニ派はNational Islamic Tribune Association(NITA, ムスリム同胞団系)、Salafi Assala (Authenticity) Associationなど数会派に分裂して選挙戦を戦ったが、シーア派のINAAに議席を奪われ大幅に後退した。
それでもシーア派及びスンニ派をあわせると全体の8割を占め、バハレーン国会の下院は宗教系議員が圧倒的な勢力を誇ることとなった。中東各国の最近の傾向である宗教回帰の動きがバハレーンにも現れたものと見ることができよう。
2006年11月29日
しかしこのときも選挙の実施方法に不満を抱いたシーア派が選挙をボイコットした経緯がある。今回の選挙はシーア派も参加、小選挙区制による40の議席をめぐり206人が立候補して激しい選挙戦を繰り広げた。なお南部第6選挙区では立候補者がLatifa Al Gaoud女史のみであったため、同女史はバハレーンを含む湾岸初の女性国会議員となった 。
バハレーンの有権者総数は約30万人であり、当日の投票率は72%であった。開票の結果、10の選挙区では候補者が規定投票に達せず上位2名による決選投票が1週間後の12月2日に行われることになったが、それを除き30名の当選者が決定した。事前の予想とおりイスラム組織の宗教系議員が25名の多数を占めたが、その中でも国民の多数派である反政府系シーア派の議員が17名に達した。選挙前の議会では13人の議員を擁したスンニ派は8議席にとどまった。残る5名の当選者は無所属である。なお女性立候補者は全員落選、または決選投票に残れなかったため、結局女性議員は上記の無投票当選者1名のみである。
2006年09月01日
(第1回) はじめに
(第2回) バハレーン及びハリーファ家の歴史
(第3回) 民主化をめざすハマド国王
(第4回) 内閣と王族閣僚
(第5回) 内政の課題(シーア派対策)
(第6回) 外交の課題(対米追随とGCC隣国対策)
(第7回) 経済の課題(対米FTAのつまづきとGCC回帰)
(第8回) 女性の活躍 (国際舞台で活躍するハリーファ家の女性他)
(最終回) コスメティック・デモクラシーとしての限界と今後の行方
「コスメティック・デモクラシー」とは直訳すれば「化粧顔の民主主義」である。「見せ掛け」或いは「うわべだけの」民主主義と言う意味であるが、辛辣に言えば「いかがわしい」民主主義とも言える。国名に「共和国」を冠し民主主義を標榜しながら、実際は大統領が独裁政治を行っているような場合がその一例である。彼は大統領選挙で政敵の出馬を妨害し、露骨な選挙干渉によって圧倒的な得票を獲得することにより、自らが信任されたと強弁する。
これはアフリカの開発途上国でよく見られる現象であり、欧米の民主主義団体はこれを「コスメティック・デモクラシー」と非難している。最近ではエジプトのムバラク政権に対して国内の反対政党が同様の非難を表明するなど、民主化のバロメーターを示す言葉として定着している。
先進国の中で開発途上国の民主化に最も熱心なのが米国である。1991年のソ連崩壊により米国一強時代となり、民主主義自由経済の社会主義計画経済に対する覇権が確立した後、米国は世界の紛争地帯で圧倒的な軍事力と一体化した形で米国流の民主主義を強引に押し付けてきた。中東はその典型的な例である。9.11テロ後の2003年11月にブッシュ米大統領が示した「中東民主化イニシアティブ」は、翌年の先進国サミットで「拡大中東・北アフリカ・パートナーシップ宣言」として中東・北アフリカ(MENA)諸国に対する新たな行動指針となった。
そもそも米国が世界の民主化に取り組む最大の理由は国際テロの撲滅にある。米国は開発途上国の貧困がテロの根本原因であり、その貧困は民主的で平等な社会のもとで経済開発が進めば自ずと解消すると考えた。そのためアメリカが望ましいと考える民主化に取り組む国に対して、各種の無償・有償援助を与えるのである。
米国はGCC湾岸諸国についても民主化を強く求めているが、豊かなGCCが米国に求めているのは援助ではなく、いざと言うときに後ろ盾となってくれる確実な保証である。GCCはいずれも絶対君主制(王制、首長制またはスルタン制)であり、米国の描く民主化と彼らの君主制はそもそも水と油である。ただその中でもバハレーンは国内のシーア派問題に加え対外的にも小国としての危機感を持っており、米国の後ろ盾を最も必要としている。一方の米国は、GCCの豊かなエネルギー資源を取り込むことが世界の覇権を維持するために欠かせず、バハレーンをそのための足がかりと位置づけている。バハレーンの立憲君主制への移行(2002年)と米国のFTA締結(2004年)はそのような両国の思惑の産物であると考えられる。従ってバハレーンの一連の民主化は「コスメティック・デモクラシー」と呼ぶ類のものである。バハレーンを統治するハリーファ家は体制維持のために「見せ掛けの民主主義」を装っているにすぎないのである。
しかし実は最近の米国はこのような君主制国家の「見せ掛けの民主主義」を容認し、或いは暗黙のうちではあるが積極的に推奨しているようにすら見えるのである。それは民主化の第一歩として米国が強く押し進めた中東での自由な選挙と議会制度が、現実には米国の意図せざる方向に向かっていることにある。民主的な選挙を行ったパレスチナでは過激派のハマスが主導権を握り、レバノンではイスラエルに激しく抵抗するヒズボラが政権与党となっている。またフセイン独裁を武力で打倒し民主政権を樹立したはずのイラクは、3年を経過した今も混乱から抜け出せないままである。
米国の押し付ける民主主義が中東各国で反米感情を煽り或いは混迷を深めていることは疑いようの無い事実である。それと対照的に、非民主的とされる湾岸君主制国家の方が安定している。絶対君主制がいずれ民主制に変貌するのは必然である、とする歴史観に立てば、GCC君主制国家の安定は一時的なものであり、パレスチナ、イラクなどの民主主義国家はいずれ安定に向かう、といえるであろう。しかしだからといってパレスチナやイラクを含め中東諸国が米国にとって望ましくないイスラム的な民主主義国家(それを民主主義と呼ぶかどうかはともかく)にならないと言う保証はないのである。
西欧の社会民主主義が停滞し、ソ連の社会主義が滅びて、米国流民主主義が世界のデファクト・スタンダード(事実上の標準仕様)となった。しかしそこでは「民主主義」という言葉が自明のものとされ、「それは民主主義に適ったことであるか?」と言う問いはあっても、「その民主主義は理に適ったことであるか?」と言う問いは忘れ去られている(長谷川三千子著「民主主義とは何なのか」より)。選択肢は民主主義しかない、そしてその民主主義は一つしかない、と言う米国の思い込みが中東各国に混乱と戸惑いをもたらしている。
果たしてバハレーンは今後どのような方向に進むのであろうか。支配王家のハリーファ家も国民一般も超大国米国の後ろ盾で国家の存続を図ろうとしている点では共通していると考えられる。国内では更なる民主化を求めるシーア派の多数国民と既得権益をできるだけ保持し続けたいとするハリーファ家との確執が続くであろう。ただし国民一般も豊かで安定した社会が今後も保証されるならば、急激な社会変革は望まないであろう。彼らは体制の変革によりもたらされる「真の民主主義」と呼ばれる代物が社会の混乱を招き、結局新たな独裁者或いは腐敗政治を生むだけではないか、と言う懸念を肌身で感じている。また支配者(ハリーファ家)が少数のスンニ派であり、国民が多数のシーア派と言う逆転した関係にあるバハレーンは、国内が混乱すれば近隣諸国に付け込まれるスキがある。このことは両者とも十分認識しているはずである。彼らは、イスラムの価値観を共有しつつ共存できる体制を模索するのであろう。
(完)