Lebanon

2009年07月13日

レバノンとサウジアラビアの新しい時代到来か?
saadhariri%28lebanon%29.jpg ラフィークの死後、彼が残した167億ドルと言われる莫大な遺産はサード(写真)など彼の子供たちに引き継がれた。その結果、彼らは米フォーブス誌が毎年公表する世界の富豪番付に常連として登場するようになり、例えば今年の番付ではその資産額は、サード・ハリリが14億ドル、弟のアイミンとファハドがそれぞれ11億ドルとされている。ちなみにフォーブス誌ではサードの国籍はサウジアラビアとなっており、彼がサウジアラビアとレバノンの二つの国籍を持っていることがわかる。サードは父親がレバノンに戻った後もサウジアラビアに残り、Ogerグループの通信情報分野で実業家としての実力を発揮し、政治には興味を示さなかった。しかし暗殺された父親の後援者や支持者たちから懇請されてレバノンに帰国、父親の弔い合戦としてその年の総選挙で彼とそのグループは第一党となった。当時まだ35歳で、政治経験が全くなかったため首相就任は固辞し、その後4年間与党総裁としての経験を積んだ後、今回改めて首相になったのである。

 ハリリ一族は今もサウド家の王族と深いつながりを持っている。中でも故ラフィーク・ハリリと親しかったのがタラール殿下である。タラールはサウジアラビア初代国王の18番目の息子であり、ハリド元国王及びアブダッラー現国王の異母兄弟である。そして彼の息子は世界的な投資家として有名なアルワリード王子である。実はタラール殿下の妻モナ王妃、即ちアルワリード王子の母親はレバノン初代首相の娘である。二人は後に離婚するのであるが、アルワリード王子は幼少期を母方の故郷レバノンのベイルートで過ごしている。これらの線を結び合わせると、ラフィーク・ハリリがサウジアラビアで巨大な建設コンツェルンを築き、また息子のサード・ハリリが通信事業を拡大する上で、タラール殿下とアルワリード王子が深く関与していたと見て間違いないであろう。

 これらのことから、今後サード新首相のもとでレバノンとサウジアラビアの関係はこれまでになく緊密になるものと予想される。サード首相が外交の懸案事項である隣国イスラエルおよびシリアとの関係を正常化し、さらに国内経済を浮揚させるためには、地域の外交・経済大国であるサウジアラビアの協力が欠かせない。外交面ではタラール殿下がサード首相とアブダッラー国王の仲介役を果たすであろう。タラール殿下は若い頃「自由プリンス」と呼ばれ政治に情熱を燃やしたこともあり、現在は国王の信頼も厚いのである。

そしてレバノンの経済復興では投資家アルワリード王子の資金力が大きな意味を持つ。アルワリードは幼少期を過ごしたレバノンに深い愛着を持っており、資産の一部を財団の基金としてレバノン国内で幅広い慈善活動を行なっているが、その財団の最高責任者は彼の母方の叔母である。ビジネスの面で言えば、王子はフォーシーズンズホテル・チェーンを全世界で展開しており、かつて「中東のパリ」と呼ばれたベイルートの観光復興は、まさに彼の出番と言えよう。もちろんアルワリード王子は政治にも並々ならぬ関心を持っており、サウジアラビアでの見果てぬ夢をレバノンに求めることもありえない話ではなさそうだ。

以上

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maedat@r6.dion.ne.jp


at 11:34 

2009年07月11日

ハリリ一族の系譜
img20090711.jpg レバノンの新首相に指名されたサード・ハリリはサウジアラビアのリヤド生まれであり、サウジアラビアとレバノンの二重の国籍を持っている。彼の父親ラフィーク・ハリリ(写真)は1992年から98年まで、および2000年から2004年までの2回にわたりレバノンの首相をつとめたが、首相を退いた翌2005年2月にベイルートで爆弾テロにより暗殺された。暗殺の背後には当時レバノンを軍事占領していた隣国シリアの影があったとされ、欧米諸国はこぞってシリアを非難した。米国はこれに加えシリアをイランと並ぶテロ支援国家に指定し経済制裁を行ったのである。暗殺事件の真相は解明されないまま現在に至っている。

 ラフィーク・ハリリは母国レバノンで小さな建設会社を経営した後、70年代初めにオイルブームで建設ラッシュに沸くサウジアラビアに拠点を移した。サウド家の「夏の王宮」のあるターイフにホテルの建設計画があることを知った彼は、ハリド国王(当時)に近づき、フランスの建設企業オジェール(Oger)社と組んでこれを受注した。国をあげての建設ラッシュで、資材不足のため他の業者の工事が軒並み遅れる中、ラフィークは予定よりも早く完成させた。フランスに住むレバノン人脈(レバノンはかつてフランスの植民地であった)をフルに活かしたことが勝因である。これによってハリド国王の信認を得たラフィークと彼の会社は、王室御用達の建設業者として次々と公共事業を受注、数年のうちに会社はサウジアラビア有数のゼネコンに成長し、ラフィーク自身も大富豪にのし上がったのである。その後彼は合弁相手のOger社を買収して、Saudi Oger社と改名、同社は今もサウジアラビア国内ではビン・ラーデン・グループと並ぶ二大建設会社の一つである。

 余談であるがラフィークとビン・ラーデン・グループの創設者ムハンマド・ビン・ラーデンの経歴は極めて似通っている。ムハンマドはラフィークより一足早くイエメンからサウジアラビアに出稼ぎに来たのであるが、彼は初代国王アブドルアジズのお気に入りとなり、イスラム教の聖地マッカの土木建設工事をほぼ独占的に受注して大富豪となっている。言うまでも無く国際的テロリストのオサマ・ビン・ラーデンはムハンマドの数多い息子の一人である。

 功なり名を遂げたラフィークはレバノンに戻り政治とビジネスの二足のわらじを履いた。彼の企業グループSaudi Ogerは現在中東全域に活動領域を広げている。政治にビジネスの手法を持ち込んだラフィークは、それまで内戦で四分五裂し、経済が極度に疲弊していたレバノンの建て直しに大きく貢献したと言われる。また旧宗主国のフランス、或いはサウジアラビアのサウド王家とも極めて良好な外交関係を築き上げた。2004年の首相退任後も彼は国内の反シリア勢力の根強い支持を受け、3度目の首相返り咲きが取沙汰されていたが、その矢先に暗殺されたのである。ラフィークの葬儀にはフランスからシラク大統領(当時)、サウジアラビアからはサウド外相が国王の名代として参列している。
(続く)

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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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at 16:38 

2005年02月15日

2/15 Arab News (Saudi Arabia)
 ハリリ前レバノン首相の暗殺はサウジアラビア経済界にも大きな波紋を呼んでいる。ビン・マフーズ財閥当主他サウジの主要な経済人は「ハリリは計り知れない貢献をした。彼は中東平和のシンボルであった」と最大級の賛辞でその死を悼んでいる。
 彼は有数の億万長者であり、彼が1978年にサウジアラビアで設立したSaudi Oger社は建設・通信企業として重要な地位を占めている。また彼は中東や仏と強いパイプを有しており、クリントン前米大統領やシラク仏大統領とは個人的な関係がある。アラブ各国の投資家がレバノンに投資するのもハリリを信頼していたからである。レバノン経済は20年前に逆戻りするのではないかと懸念する声もある。

コメント:
 ハリリ氏は1944年生まれで、21歳のときサウジでビジネスを興し、現在では資産40億ドルと言われる大富豪である。仏Ogerとの合弁事業Saudi Oger社は同国最大級のゼネコン・通信関連企業である(但し現在では仏との合弁は解消)。内戦終結と共にレバノンに帰国し政界にも進出、二度にわたり首相を務めたが親シリア派の大統領と対立し最近辞任したばかりである。
 内戦で荒廃したレバノンの経済復興と社会の安定に主導的な役割を果たした彼の功績は多大なものがある。欧米との強いつながりを持つ彼の死は、シリアを中東民主化の敵として名指しで非難する米国にとっても仲介役として期待される人物を失ったことになる。また中東ビジネスで英米に著しく遅れをとり復権の機会を狙っている仏にとっても彼の死は大きなマイナスになると思われる。


at 11:19 
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